2.甘い悪夢
湯から上がると、亜理紗はベッドに倒れこんだ。バスルームにあったローブを羽織ると、猛烈に眠くなってしまったのだ。まだ七時にもなっていないし、夏の日はまだ高い。寝るには早いと思いながらも、怠惰なからだは動かない。古いベッドであるはずなのに、適度な硬さで心地いい。そして微かな甘い匂い。鎧戸を下した窓はそれでも少し開いていて、ベッドにかかったレースの帳がさらさらと風に揺れている。匂いはたぶん、薔薇の香りだ。庭にいっぱい咲いている、溢れるような薔薇の香り。ロマンチックという言葉を、かたちにしたような寝室。朝になったら素敵な王子さまが現れて、キスで起こしてくれそうな部屋。
眠り込んでしまった亜理紗は、気配にまるで気づいていない。メイド用の裏階段から誰か登ってきたとしても、おそらく気づかないだろう。この家は古い家だ。十九世紀に中世風に建てられた、ネオ・ゴシックと呼ばれる様式。中世風の暖炉もあるが、セントラルヒーティングも完備している。ガスボイラーが沸かした温水を全館に巡らせて、各部屋にあるラジエーターから放熱する暖房方式。建てられた当時には最先端の設備だったに違いないが、当然経年劣化している。ボイラーとコントロールパネルだけは新しくなっているが、百年以上前の配管がそのままに使われている。漏れは探知されていないが、くれぐれも気をつけて。作業員の言った言葉を、彼女は理解していない。今の彼女は夢見る乙女だ。いつもの亜理紗はもう少し現実的で分別もあるのだが、今は夢しか見ていない。彼女を観察しているモノが、その様子に喜んでいる。清楚なおとめ。ぼくのアリサ。おかえり、アリサ。
「それ」はふいと階下へと向かい、やがて亜理紗もようやく気付く。下から聞こえるピアノの音に、弾いている存在に。けれど眼は開いてない。彼女はまだ目覚めていない。夢の中の亜理紗の耳に、懐かしい曲が聞こえる。そうだ。居間にはピアノがあるはずだ。カイルが眼の色を変えた、とても価値のあるピアノ。でもあれは、カイルのじゃない。持ち主は、別にいる。あれは……夢の中の亜理紗の瞳に、ピアノを弾くひとが映る。けぶるような金髪の、上品な美青年。ひらひらした白いシャツに、青灰色のトラウザー。王子さまは、あのひとだ。夢の中の亜理紗が思った。行かなくちゃ。あのひとに、挨拶しに行かなくちゃ。帰ってきたよ、って言わなくちゃ。夢の中の亜理紗は焦るが、彼女のからだは動かない。知っているはずの名前が、亜理紗の口から出てこない。ピアノの音が高くなるが、亜理紗の口から声は出ない。そのひとの名を叫びたいのに、声が出せない。
そこにピロンと音がした。亜理紗のスマホの着信音だ。
「カイル?」
亜理紗の口から呟きが漏れ、そしてはっきり眼を覚ます。ピアノの音は聞こえない。静まり返って聞こえない。そしてもう、夢のことも覚えていない。再びピロンと音がして青白くスマホが光った。亜理紗はようやく身を起こし、自分のスマホに手を伸ばす。メッセージアプリに着信がふたつある。
「Hi!」
一つ目はそれだけだ。そして二つ目。
「今空港に着いた。今どこ? すぐに会って話したい。見せたいものがあるんだ」
イギリスに帰省しているはずの、隣のカイルだ。つまり、借りていた学生アパートの、隣に住む好青年。理系の大学に通う留学生だが、なぜかピアノにやたら詳しい。完全に眼が覚めて、返信をする。
「遺産にもらったおばさんの家。なんかトントン話が進んで、引っ越してきちゃった」
「What?」
「だから、アパートは退き払ったの。住所教えるね」
亜理紗は住所をタイプして、送信のボタンを押した。スマホを置いて階下に降りる。ピアノのことが気になる。夢は忘れてしまっても、ピアノのことを考えている。まだあれを見ていない。この家にあるうちで、あるいはこの家そのものよりも、価値があると言われたものだ。そう言ったのは写真を見たカイルであって、税務署じゃない。公証人も、修理不能でほぼ無価値と査定している。
今度は表の大階段から下に下りた。下りて右手、正面玄関からなら左手にあたるところに、ステンドグラスの嵌まった大きな両開きの扉があった。グランドピアノはこの先にあったはず。扉を開くが、ガランとした空間があるだけだ。壁にある中世風の豪華な暖炉が眼を引くが、そのほかには何もない。灯りをつけるまでもなく、グランドピアノはここにない。窓の鎧戸がひとつだけ開いていて、月明りが差し込んでいる。それだけで、意外なくらいの明るさがある。コンタクトレンズを探すなら電灯は必須だが、探しているのはグランドピアノだ。ミニチュアサイズの玩具ではなく、本格的な大きなピアノ。家の図面を思い出す。この奥にもうひとつ、小さなサロンがあったはず。
見回すと、扉があった。教会みたいな尖ったアーチの石枠があり、扉の上には薔薇窓がある。木製の扉を押すとほの白い部屋があった。こじんまりしたその空間の真ん中に、祭壇みたいなものがある。そしてなにか、お香のような匂いがしている。金属の燭台が二つあり、蝋燭が立っている。もちろん火はついてない。薔薇窓の色硝子を通した月の光が、そのあたりだけを照らしている。だからとても幻想的で、祭壇みたいに見えるのだ。亜理紗は一歩近づいて、それが「ピアノ」であると気づいた。グランドピアノの上の部分が閉じているから、三本脚のテーブルみたいに見えるのだ。よく見るとペダルがある。竪琴みたいな飾りの下に、ペダルがふたつ光ってる。まるで引き寄せられるように、亜理紗は楽器に近づいた。ピアノの蓋をそっと開け、白鍵に触れてみる。懐かしい音! 丸椅子に腰を下ろし、両手を鍵盤の上に置いた。亜理紗の指が動き出した。




