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1.それはまるで夢のような

 スーツケースひとつを持って、亜理紗は邸の門の前に立った。会ったこともない叔母が遺してくれたという家は、ダークグレイの石葺きの屋根を持つお城みたいなお邸だ。右手には風見鶏のついた小さな尖塔、急勾配の三角屋根に、白っぽい砂岩の壁面。半分蔦で覆われたその壁に、石組みの装飾のある縦長の窓が並ぶ。二階建ての建物でそれほど大きいわけではないが、中世の城を思わせる様式だ。錬鉄製の優雅な透かし門の先には、石が敷かれた小道が玄関へと続いている。左右には色とりどりの薔薇が咲き、甘い香りが立ち込めている。ほんとにこれは夢じゃないの? 亜理紗は思わず日本語で呟いた。夢でなければ、ほんとに何かの詐欺じゃないの? 


「ここはもう正式に、貴女のものです。お嬢さん」

 管財人の老紳士が綺麗な英語でそう告げて、鍵ををくれた。

「相続の手続きは、これですべて終わりです。先日もお伝えをした通り、税や諸々の手数料も既に全て支払い済です。お望みならば、永住ヴィザも手配しますよ。時間はちょっとかかりますが、多分取れると思います。故人様の血縁でいらっしゃるわけですし」

 このあたりが、亜理紗には信じられない。血のつながらない西洋人の叔母がいるとは、確かに聞いたことがあった。自分の名前もそのひとからもらったのだと、言われたような記憶もあった。留学先にこの国を選んだのも、そのせいだったかもしれない。けれど詳しいことは知らないし、「血縁」だとは聞いてない。両親ともに立て続けに事故で亡くして、連絡できる親戚もない。天涯孤独と思っていたのに、突然封書が一通届いた。Alisa なんとかいう女性が、唯一の身内である同名の姪に全財産を残すと遺書を残して亡くなった、というのだ。留学先のアパートに届くなんて、どう考えても胡散臭い。無視すべきだと思ったけれど、どうしても気になった。遺産はどうでもよかったが「唯一の身内」のことが知りたい。だから連絡をとってみた。その結果、こうなっている。


 残されていた遺産というのが、この家とかなりの大金。相続の条件は、相続した「家」に居住すること。期間までは言及はないのだが、「住める状態」で引き渡すところまで管財人は請け負っていたらしい。「かなりの大金」と思ったものは相続税その他諸々でほとんど消えてしまったが、「家」は晴れて亜理紗のものだ。今後の固定資産税とか管理とかを考えたら維持していくのは多分無理だが、とりあえずは住んでみたい。学生ビザは持っているから、少なくとも二年は住める。二年分の家賃が要らなくなることを思えば、多少の出費はまかなえる。でもやっぱり、美味しすぎる。なんか絶対ウラがある。


「では、私の仕事はここまでです。ガスの開栓だけは業者が来るのが今日の夕方になってしまったのですが、おひとりでも大丈夫ですよね?」

 大丈夫だと亜理紗は答えた。


 重たい鍵をゆっくり回し、玄関の扉を開く。広々とした玄関ホール、上に向かう大きな階段。階段には錬鉄製の優雅な手すりがついていて、本格的にお城みたいだ。吹き抜けの天井からは、クリスタルがいっぱいついたシャンデリアが下がってる。クリーニングが入っているから、蜘蛛の巣とかもかかっていない。上に上がると部屋が三つ。寝室がふたつと、もうひとつは書斎らしい。アンティークなライティングデスクと本棚があり、そしてなんとミシンがあった。足踏み式の相当に古いものだが、触ってみるとちゃんと動く。ただ動くだけじゃなく、軋みもなく滑らかだ。戸棚を開けると道具まで揃っている。高級そうな裁ち鋏に、重たいアイロン。電気のじゃなく、ストーブの上で熱して使う昔の火熨斗だ。これはさすがに実用とは思えない。そもそもここにストーブは……見回してみて息をのむ。あった。上の面が平坦になっていて、鍋やヤカンを置く場所がある石炭ストーブ。側面は綺麗な絵タイルで飾られていて一見家具みたいだが、壁の煙突に直結している。カフェかどこかで見たことがあり、一緒だった隣人が説明をしてくれた。だけどこれも実用ではないだろう。カフェのだってインテリアとして置いてあっただけで、火は入っていなかった。そして木製の大きなテーブル。生地を置いて裁断するのにちょうどいい大きさだ。亜理紗の身長ではほんの少し高すぎるが、使えないというほどでもない。服飾を学んでいる亜理紗には、夢のような空間だ。すぐ隣の主寝室には天蓋つきの大きな寝台。寝具もちゃんとそのままにあり、古ぼけた感じはしない。明らかに新品ではないけれど、不潔な感じは全くしない。実家の布団に感じるような、安心感を覚えてしまう。色も形も全くの別物なのに、懐かしいと感じてしまう。主寝室にはバスルームがついていて、その裏には狭い階段。メイド用の階段だ。そこから上は梯子のような階段になり、メイド部屋に続くらしい。けれどここには埃が積り、蜘蛛の巣も残っている。狭い階段を下に下ると、キッチンに出た。

 手続きの時に見せられた家の図面を思い出す。キッチンは家の右手、奥の部分にあったはず。図面で見たときよりも、はるかに広いように感じる。天然石でできたシンクは、赤ちゃんの沐浴にも使えそうな大きさだ。金色に光る蛇口も見たことのない形で、とてもお洒落。古めかしいデザインだけど、レバーはふたつついている。水だけでなく、お湯もちゃんと出るらしい。三ツ口のガスコンロに、優雅な取っ手の大きなオーブン。あきらかに年代物で使えないかもしれないが、見た目だけでもとても素敵だ。だが、冷蔵庫が見当たらない。そう言えば、地下倉庫があったはず。探してみると、階段の下にあたるところに扉があった。地下に下りるとひんやりしている。ちょうど、冷蔵庫の野菜室くらいの温度だろう。ジャガイモを保存するのに良さそうな大きな籠と、ガラスの空き瓶がいくつか残った棚がある。冷蔵庫、なくてもいいかも、と亜理紗は思った。どうせ肉はそんなに食べない。野菜だけならここで十分。なんなら裏に菜園だってありそうだ。

 ちょうどこの時、ノッカーの音がした。玄関ではなく、キッチン裏手の勝手口だ。覗き窓から確認すると、作業服のおじさんが立っている。もう定年が近そうな、年配の男性だ。ガス会社のロゴがついた書類を見せて、「メーター」とだけ言った。どこにあるのかはちゃんとわかっているらしく、すたすたと先に進む。家の壁に接して建て増しされたようなところに、水道、電気、そしてガスのメーター類がまとめて設置されている。どのメーターもデジタル式で現代的だ。ガス会社の作業員はメーターの数字を確認し、ほっと小さく息をついた。そして何か現地語で説明したが、亜理紗にはよく理解できない。英語で聞き返してみたが、No English とだけ応えがあった。そしてまた、現地語で何か言った。気をつけて、と言われたことだけ理解して、亜理紗は現地語で礼を言った。作業員の顔に浮かぶ不安そうな表情に、彼女はまるで気付いていない。作業員は元栓を開けて見せ、それからボイラーのスイッチをオンにする。このガスボイラーがこの邸全体の給湯器だ。これで、バスルームとキッチンでお湯が使える。作業員を見送ったあと、亜理紗は早速お風呂に入った。猫脚のついたバスタブに、ゆっくりとからだを沈める。借りていた学生向けアパートにバスタブはなかったから、湯につかるのは久しぶりだ。アリサおばさん、ありがとう。会ったこともない叔母に、思わず感謝の言葉を呟く。アリサおばさん、わたしと趣味が似てるかも。亜理紗は叔母を思い描いた。とても素敵なひとだったって、ママは何度か言っていたっけ。



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