プロローグ ―喪服のアリサ
旅行鞄をひとつ持ち、わたしは家の前に立った。亡くなった叔父さまが、わたしに遺してくれた家。小さな頃にはとても大きく見えた邸は、今はすっかり荒れ果てている。前庭には雑草が生い茂り、薔薇は一つも咲いていない。手入れをするひとがもう誰もいないのだから、当然だ。わたしには、できるだろうか? 庭師を雇うのは無理だ。家の維持も庭の管理も、これからはわたしの仕事。大変なのはわかってる。でも人手には渡したくない。絶対に、手放したくない。どんなことをしてでも絶対。
雑草をかき分けて正面玄関へと向かい、手に入れてきた鍵を差し込む。重たい鍵は意外なくらいすんなり廻り、大きな扉がすっと開いた。黴臭い匂いもしない。たくさんあった美術品も全部なくなりずいぶんがらんとしているけれど、すっきりと片付いている。外観は荒れていたけど、中は綺麗だ。オークの正面階段は昔どおりに艶々してるし、窓にかかった重厚なカーテンもぼろぼろにはなっていない。ステンドグラスの嵌められた、両開きの扉を開く。そこにあるのは、みんなが集う居間だった場所。だけどもう、誰もいない。調度もほとんど売り払われてしまったけれど、主役だけは鎮座している。白い覆いのかけられた、ご自慢のグランドピアノ。
「ただいま」
楽器に向かって挨拶をした。覆いをそっと払いのけ、懐かしい蓋を開ける。柔らかい色に輝く象牙の白鍵、艶やかに光る黒鍵。キィをそっと押してみる。密やかな低い音が、静かに響く。大丈夫だ。昔と同じ、音が鳴ってる。このピアノがある限り、魂は不滅だわ。わたしはようやく帽子をとって、旅行鞄の上に置いた。丸い椅子に腰を下ろし、眼を瞑る。わたしにピアノを教えたひとは、もういない。この家とピアノを残し、逝ってしまった。だけど私が覚えてる。叔父さまの声も、そして音も。指が勝手に動き出す。懐かしい旋律が、居間だった部屋に響く。叔父さまが大好きだった、雨音のプレリュード。
雨に濡れた窓ガラスに、叔父さまの姿が映る。上手だよ、アリサ。とても素敵だ。叔父さまの、声も聞こえる。確かにひとの気配を感じて、振り返った。叔父さまはそこにいて、わたしを見てにっこりと微笑んでいる。良かった、やっぱり嘘だったのね。叔父さまが死んじゃうなんて、そんなことあり得ないもの。涙がわたしの頬を伝う。
「ぼくはちゃんとここにいるよ」
叔父さまが隣に座った。
「君の隣にずっといたい。だから君にここを遺した」
嬉しい。わたしが呟く。わたしが共に生きたいひとは、叔父さまだけよ。それが叶わないのなら、生きていたってしょうがない。他のひとと結婚なんて、絶対にイヤ。だからわたしはここに来たの。




