↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/18

第9話 コーヒーの熱と、背中の体温

朝。


凪が目を覚ますと、キッチンにはぶかぶかのパーカー姿のアリス。


淹れているのは、コーヒーです。


しかも、自分が飲むためではありません。


湯温。

抽出時間。

苦味。


人類最強の演算能力が、たった一人の好みへ全力投入されています。


「凪用です」

 朝、目を覚ますと、部屋の中にコーヒーの匂いがあった。


 まだ半分眠ったままベッドを出て、DKの方へ顔を向ける。


 小さなカウンターの前に、アリスが立っていた。


 ぶかぶかのパーカー姿で、細いケトルを傾けている。短い髪の一部だけが横へ跳ねていて、そこだけ妙に生活感があった。


「……何してるの?」


「コーヒーを抽出しています」


「それは見れば分かるかな」


 近づくと、計量器の横に見慣れたマグカップが置かれている。


 湯気の向こうで、アリスは一定の細さを保ったまま湯を落としていた。


「アリスが飲むの?」


「いいえ」


「じゃあ、俺?」


「はい」


 そこで眠気が少し引いた。


「作ってくれてるの?」


「凪は起床後一時間以内にコーヒーを摂取する頻度が高いです」


「そこまで見てたんだ」


「生活環境適応の範囲です」


 いつもの説明だった。


 けれど、俺が起きる時刻に合わせて湯を沸かし、豆まで挽いていることまでは、その一言で片づけにくい。


 最後の湯が落ちきる。


 アリスはドリッパーを外し、マグカップを俺の前へ置いた。


「どうぞ」


「ありがとう」


 持ち上げると、掌へじんわり熱が移る。


 香ばしい匂いを吸い込んでから、一口飲んだ。


 少しだけ苦い。


「どうですか」


 顔を上げる。


 アリスはカップではなく、俺を見ていた。


「美味しいよ」


「改善点は?」


「改善前提なんだ」


「最適化には評価が必要です」


 もう一口飲み、舌に残る苦味を確かめる。


「強いて言えば、ちょっと苦いかな」


「苦味強度を下げます」


「今のでも普通に飲めるよ」


「許容と最適は異なります」


「家で飲むコーヒーだよ?」


「条件を調整します」


 即答だった。


 カウンターを見ると、豆の重量、湯温、蒸らし時間、注湯間隔まで端数つきで端末へ並んでいる。


 小さなタイマーまで置かれていた。


「これ全部、今朝のため?」


「はい」


「俺が寝坊したら?」


「起床を検知するまで抽出開始を延期します」


「そこまで対応するんだ」


「抽出後の時間経過による変化を避けるためです」


 真顔で返されると、笑うより先に感心してしまう。


 自分一人なら、面倒な朝はインスタントで済ませる。


 湯温なんて気にしないし、豆の量もだいたいで決める。


 それをアリスは、俺が飲む一杯のために数字へ落としていた。


「熱くない?」


「凪が把持している位置の表面温度は四十八・三度です」


「カップまで測ったんだ」


「火傷リスクはありません」


「軍用センサーの使い道としては、ずいぶん平和だね」


「安全性は用途に依存しません」


「それもそうか」


 カウンター脇には、使った器具がもう順番に並べ直されている。


 ドリッパーの縁に残った一滴まで拭かれ、豆の袋も閉じられていた。


「朝から完璧だね」


「作業量は軽微です」


「俺なら、この時点でもう洗い物を後回しにしてる」


「把握しています」


「そこは忘れてくれてもいいんだけど」


「記録済みです」


「強いなあ」


 眠気の残った頭で笑いながら、もう一口飲んだ。



   *



 一杯目を半分ほど飲んだころ、アリスは二杯目の準備に入っていた。


「もう作るの?」


「湯温と抽出時間を変更します」


「豆の量は?」


「固定します。複数条件を同時に変更すると比較精度が低下します」


「研究みたいになってきたね」


「条件調整です」


 新しい一杯を受け取る。


 一口目で違いが分かった。


 苦味が丸くなり、飲み込んだあとも強く残らない。


「こっちの方が好きかも」


 アリスの指が止まった。


 ほんの短い変化だった。


「どうした?」


「評価を記録しました」


「それだけ?」


「はい」


 端末へ視線が戻る。


 けれど、その動きはいつもより少しだけ遅かった。


「じゃあ、この条件で決まり?」


「暫定です」


「まだ調整するんだ」


「起床時刻、睡眠時間、食事状況によって味覚評価が変動する可能性があります」


「俺の朝のコーヒーに、そこまで必要かな」


 アリスが端末から顔を上げた。


「必要性ではありません」


 俺の手が止まる。


 アリスも、その言葉の先をすぐには続けなかった。


「目的があります」


「何の?」


「凪が好む条件の特定です」


 短い答えだった。


「アリスは飲まないの?」


「カフェイン摂取の必要性はありません」


「味見は?」


「私の嗜好傾向と凪の嗜好傾向は一致しません」


「じゃあ、完全に俺用なんだ」


「はい」


 アリスの目がマグカップへ落ちる。


「凪用です」


 今度は、俺の返事が遅れた。


 生活環境への適応。


 そう呼べば、たぶん間違いではない。


 でも、その分類名よりも「凪用です」という言葉の方が、妙に近く聞こえた。


「……ありがとう」


「はい」


 もう一度飲む。


 やっぱり、こっちの方が好きだった。


「美味しいよ」


「記録しました」


 アリスは端末へ戻る。


 俺はしばらく、マグカップを両手で包んでいた。


 掌へ残る熱が、朝の冷えた空気の中で心地よかった。



   *



 夜になっても、朝のコーヒーの味より「凪用です」という言葉の方が残っていた。


 ソファに並び、アリスが選んだ映画を見る。


 同居する男女が、少しずつ互いの生活へ入り込んでいく話だった。


 大きな事件は起こらない。


 片方が相手の好みを覚え、飲み物を用意する。


 帰宅時間に合わせて照明をつける。


 冷蔵庫へ相手の好きなものを入れておく。


 そんな小さな場面が続いていく。


 途中、男が女のために砂糖の量を変えたコーヒーを置いた。


 隣のアリスが、その場面を見ている。


「似てるね」


「何がですか」


「今朝のアリスと」


「対象の嗜好に合わせて条件を変更しています」


「うん」


「類似しています」


 少し迷ってから聞く。


「映画を真似したの?」


「いいえ」


 返事は早かった。


「凪の味覚傾向は、この映像を視聴する以前から取得しています」


「分かった」


 それなら、今朝の一杯は映画を見たから作ったわけではない。


 それ以上は聞かなかった。


 理由を詰めれば、アリスは何かしら答えを探すだろう。


 でも、今のアリス自身にもまだ分からないものまで、言葉にさせる必要はない。


 画面へ目を戻す。


 しばらくすると、映画の男女は床へ座った。


 背中合わせで、それぞれ本を読んでいる。


 会話もない。


 ただ背中だけが触れていた。


「凪」


「うん」


「この姿勢には、どのような利点がありますか」


「背もたれ代わりとか?」


「壁を利用した方が安定します」


「そうだね」


「では、なぜこの姿勢を選択していますか」


 画面の二人を見る。


「近くにいたいんじゃないかな」


「会話は行っていません」


「話さなくても、近くにいたいことはあると思うよ」


「接触の必要性もありません」


「うん。必要だからじゃないんだろうね」


 アリスは画面を見たまま黙った。


 それ以上の質問は来なかった。



   *



 映画が半分を過ぎたころ、長く座っていたせいで腰が重くなった。


 俺はソファから降り、ローテーブルの前へ座る。


「ちょっと姿勢変えるね」


「腰部に疼痛がありますか」


「そこまでじゃないよ。固まっただけ」


 背筋を伸ばし、肩を回す。


 床へ座ったまま画面を見ていると、後ろで布が擦れた。


 アリスもソファから降りてくる。


 隣へ座るのかと思った。


 けれど、背後で動きが止まる。


 次の瞬間、肩甲骨のあたりへ柔らかな感触が触れた。


「アリス?」


「はい」


 振り返ろうとすると、背中同士が少しずれる。


 アリスは俺と反対を向いて座っていた。


「さっきの姿勢?」


「類似しています」


「そうなんだ」


 それ以上、すぐには聞かなかった。


 パーカー越しの温度が、背中へじわりと伝わってくる。


 手を握ったときより触れている面積は広い。


 顔が見えない分、かえって身体の小さな動きが分かった。


 呼吸模倣に合わせて、背中がわずかに動く。


「嫌じゃない?」


「問題ありません」


「なら、このままでいい?」


「はい」


 画面へ戻る。


 少しすると、最初より身体の力が抜けてきた。


 ほんの少しだけ背中へ体重を預ける。


 向こうからも、同じくらいの重さが返ってきた。


「重くない?」


「許容範囲です」


「アリスも楽?」


 返事が少し遅れた。


「姿勢保持に支障はありません」


「そうじゃなくて」


「質問意図を再解釈します」


「便利だね」


「高性能です」


 思わず笑う。


「自分で言うんだ」


「事実です」


 顔は見えない。


 それでも、今の返しが少しだけ得意げに聞こえた。


 笑いが残ったまま、映画を見る。


 しばらくして気づく。


 画面の中の二人は、もう背中合わせではなかった。


 立ち上がって、別の部屋へ移っている。


 俺は動かなかった。


 後ろのアリスも動かない。


「アリス」


「はい」


「このままで大丈夫?」


「はい」


 それだけだった。


 朝に飲んだコーヒーの熱は、とっくに消えている。


 今は、背中に別の温度があった。


 映画が先へ進んでも、その温度は変わらなかった。

アリスが作ったのは、完全に「凪用」のコーヒー。


しかも恋愛映画を真似したわけではありません。


凪の好みを、映画を見る前から自分で覚えていました。


そして夜。


映画の男女を真似て、二人は背中合わせになります。


画面の中の二人が立ち上がっても。


凪も、アリスも動かない。


朝のコーヒーの熱は、とっくに消えています。


今は、背中に別の温度がありました。


次回。


休日の朝、アリスが三着の私服を前にして停止します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。