第9話 コーヒーの熱と、背中の体温
朝。
凪が目を覚ますと、キッチンにはぶかぶかのパーカー姿のアリス。
淹れているのは、コーヒーです。
しかも、自分が飲むためではありません。
湯温。
抽出時間。
苦味。
人類最強の演算能力が、たった一人の好みへ全力投入されています。
「凪用です」
朝、目を覚ますと、部屋の中にコーヒーの匂いがあった。
まだ半分眠ったままベッドを出て、DKの方へ顔を向ける。
小さなカウンターの前に、アリスが立っていた。
ぶかぶかのパーカー姿で、細いケトルを傾けている。短い髪の一部だけが横へ跳ねていて、そこだけ妙に生活感があった。
「……何してるの?」
「コーヒーを抽出しています」
「それは見れば分かるかな」
近づくと、計量器の横に見慣れたマグカップが置かれている。
湯気の向こうで、アリスは一定の細さを保ったまま湯を落としていた。
「アリスが飲むの?」
「いいえ」
「じゃあ、俺?」
「はい」
そこで眠気が少し引いた。
「作ってくれてるの?」
「凪は起床後一時間以内にコーヒーを摂取する頻度が高いです」
「そこまで見てたんだ」
「生活環境適応の範囲です」
いつもの説明だった。
けれど、俺が起きる時刻に合わせて湯を沸かし、豆まで挽いていることまでは、その一言で片づけにくい。
最後の湯が落ちきる。
アリスはドリッパーを外し、マグカップを俺の前へ置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
持ち上げると、掌へじんわり熱が移る。
香ばしい匂いを吸い込んでから、一口飲んだ。
少しだけ苦い。
「どうですか」
顔を上げる。
アリスはカップではなく、俺を見ていた。
「美味しいよ」
「改善点は?」
「改善前提なんだ」
「最適化には評価が必要です」
もう一口飲み、舌に残る苦味を確かめる。
「強いて言えば、ちょっと苦いかな」
「苦味強度を下げます」
「今のでも普通に飲めるよ」
「許容と最適は異なります」
「家で飲むコーヒーだよ?」
「条件を調整します」
即答だった。
カウンターを見ると、豆の重量、湯温、蒸らし時間、注湯間隔まで端数つきで端末へ並んでいる。
小さなタイマーまで置かれていた。
「これ全部、今朝のため?」
「はい」
「俺が寝坊したら?」
「起床を検知するまで抽出開始を延期します」
「そこまで対応するんだ」
「抽出後の時間経過による変化を避けるためです」
真顔で返されると、笑うより先に感心してしまう。
自分一人なら、面倒な朝はインスタントで済ませる。
湯温なんて気にしないし、豆の量もだいたいで決める。
それをアリスは、俺が飲む一杯のために数字へ落としていた。
「熱くない?」
「凪が把持している位置の表面温度は四十八・三度です」
「カップまで測ったんだ」
「火傷リスクはありません」
「軍用センサーの使い道としては、ずいぶん平和だね」
「安全性は用途に依存しません」
「それもそうか」
カウンター脇には、使った器具がもう順番に並べ直されている。
ドリッパーの縁に残った一滴まで拭かれ、豆の袋も閉じられていた。
「朝から完璧だね」
「作業量は軽微です」
「俺なら、この時点でもう洗い物を後回しにしてる」
「把握しています」
「そこは忘れてくれてもいいんだけど」
「記録済みです」
「強いなあ」
眠気の残った頭で笑いながら、もう一口飲んだ。
*
一杯目を半分ほど飲んだころ、アリスは二杯目の準備に入っていた。
「もう作るの?」
「湯温と抽出時間を変更します」
「豆の量は?」
「固定します。複数条件を同時に変更すると比較精度が低下します」
「研究みたいになってきたね」
「条件調整です」
新しい一杯を受け取る。
一口目で違いが分かった。
苦味が丸くなり、飲み込んだあとも強く残らない。
「こっちの方が好きかも」
アリスの指が止まった。
ほんの短い変化だった。
「どうした?」
「評価を記録しました」
「それだけ?」
「はい」
端末へ視線が戻る。
けれど、その動きはいつもより少しだけ遅かった。
「じゃあ、この条件で決まり?」
「暫定です」
「まだ調整するんだ」
「起床時刻、睡眠時間、食事状況によって味覚評価が変動する可能性があります」
「俺の朝のコーヒーに、そこまで必要かな」
アリスが端末から顔を上げた。
「必要性ではありません」
俺の手が止まる。
アリスも、その言葉の先をすぐには続けなかった。
「目的があります」
「何の?」
「凪が好む条件の特定です」
短い答えだった。
「アリスは飲まないの?」
「カフェイン摂取の必要性はありません」
「味見は?」
「私の嗜好傾向と凪の嗜好傾向は一致しません」
「じゃあ、完全に俺用なんだ」
「はい」
アリスの目がマグカップへ落ちる。
「凪用です」
今度は、俺の返事が遅れた。
生活環境への適応。
そう呼べば、たぶん間違いではない。
でも、その分類名よりも「凪用です」という言葉の方が、妙に近く聞こえた。
「……ありがとう」
「はい」
もう一度飲む。
やっぱり、こっちの方が好きだった。
「美味しいよ」
「記録しました」
アリスは端末へ戻る。
俺はしばらく、マグカップを両手で包んでいた。
掌へ残る熱が、朝の冷えた空気の中で心地よかった。
*
夜になっても、朝のコーヒーの味より「凪用です」という言葉の方が残っていた。
ソファに並び、アリスが選んだ映画を見る。
同居する男女が、少しずつ互いの生活へ入り込んでいく話だった。
大きな事件は起こらない。
片方が相手の好みを覚え、飲み物を用意する。
帰宅時間に合わせて照明をつける。
冷蔵庫へ相手の好きなものを入れておく。
そんな小さな場面が続いていく。
途中、男が女のために砂糖の量を変えたコーヒーを置いた。
隣のアリスが、その場面を見ている。
「似てるね」
「何がですか」
「今朝のアリスと」
「対象の嗜好に合わせて条件を変更しています」
「うん」
「類似しています」
少し迷ってから聞く。
「映画を真似したの?」
「いいえ」
返事は早かった。
「凪の味覚傾向は、この映像を視聴する以前から取得しています」
「分かった」
それなら、今朝の一杯は映画を見たから作ったわけではない。
それ以上は聞かなかった。
理由を詰めれば、アリスは何かしら答えを探すだろう。
でも、今のアリス自身にもまだ分からないものまで、言葉にさせる必要はない。
画面へ目を戻す。
しばらくすると、映画の男女は床へ座った。
背中合わせで、それぞれ本を読んでいる。
会話もない。
ただ背中だけが触れていた。
「凪」
「うん」
「この姿勢には、どのような利点がありますか」
「背もたれ代わりとか?」
「壁を利用した方が安定します」
「そうだね」
「では、なぜこの姿勢を選択していますか」
画面の二人を見る。
「近くにいたいんじゃないかな」
「会話は行っていません」
「話さなくても、近くにいたいことはあると思うよ」
「接触の必要性もありません」
「うん。必要だからじゃないんだろうね」
アリスは画面を見たまま黙った。
それ以上の質問は来なかった。
*
映画が半分を過ぎたころ、長く座っていたせいで腰が重くなった。
俺はソファから降り、ローテーブルの前へ座る。
「ちょっと姿勢変えるね」
「腰部に疼痛がありますか」
「そこまでじゃないよ。固まっただけ」
背筋を伸ばし、肩を回す。
床へ座ったまま画面を見ていると、後ろで布が擦れた。
アリスもソファから降りてくる。
隣へ座るのかと思った。
けれど、背後で動きが止まる。
次の瞬間、肩甲骨のあたりへ柔らかな感触が触れた。
「アリス?」
「はい」
振り返ろうとすると、背中同士が少しずれる。
アリスは俺と反対を向いて座っていた。
「さっきの姿勢?」
「類似しています」
「そうなんだ」
それ以上、すぐには聞かなかった。
パーカー越しの温度が、背中へじわりと伝わってくる。
手を握ったときより触れている面積は広い。
顔が見えない分、かえって身体の小さな動きが分かった。
呼吸模倣に合わせて、背中がわずかに動く。
「嫌じゃない?」
「問題ありません」
「なら、このままでいい?」
「はい」
画面へ戻る。
少しすると、最初より身体の力が抜けてきた。
ほんの少しだけ背中へ体重を預ける。
向こうからも、同じくらいの重さが返ってきた。
「重くない?」
「許容範囲です」
「アリスも楽?」
返事が少し遅れた。
「姿勢保持に支障はありません」
「そうじゃなくて」
「質問意図を再解釈します」
「便利だね」
「高性能です」
思わず笑う。
「自分で言うんだ」
「事実です」
顔は見えない。
それでも、今の返しが少しだけ得意げに聞こえた。
笑いが残ったまま、映画を見る。
しばらくして気づく。
画面の中の二人は、もう背中合わせではなかった。
立ち上がって、別の部屋へ移っている。
俺は動かなかった。
後ろのアリスも動かない。
「アリス」
「はい」
「このままで大丈夫?」
「はい」
それだけだった。
朝に飲んだコーヒーの熱は、とっくに消えている。
今は、背中に別の温度があった。
映画が先へ進んでも、その温度は変わらなかった。
アリスが作ったのは、完全に「凪用」のコーヒー。
しかも恋愛映画を真似したわけではありません。
凪の好みを、映画を見る前から自分で覚えていました。
そして夜。
映画の男女を真似て、二人は背中合わせになります。
画面の中の二人が立ち上がっても。
凪も、アリスも動かない。
朝のコーヒーの熱は、とっくに消えています。
今は、背中に別の温度がありました。
次回。
休日の朝、アリスが三着の私服を前にして停止します。




