第8話 ホラー映画と、凪から伸ばす手
今夜、アリスが選んだのはホラー映画。
「恐怖による行動不能の可能性は極めて低値です」
人類最強の戦闘アンドロイドに、幽霊は通用するのか。
その隣で驚かされている凪ですが――。
暗い画面の中。
今度は凪の方から、アリスへ手を伸ばします。
「……手、握ってもいい?」
その夜、アリスが選んだのはホラー映画だった。
恋愛作品の一覧を眺めていたはずなのに、いつの間にかおすすめ欄を横へ送り、暗い廊下と白い顔だけが映ったサムネイルで指を止めている。
「これを見るの?」
「はい」
「珍しいね。今日は恋愛ものじゃないんだ」
「対人反応の比較対象を増やします」
「ホラーも教材になるんだ」
「恐怖刺激下では、緊張、回避、発声、他者への接近など、平常時とは異なる行動が確認できます」
「なるほど」
そこまで考えて選んでいたらしい。
アリスはいつものパーカー姿でソファへ座り、長い袖から指先だけを出してリモコンを操作した。
照明を落とす。
テレビの青白い光が短い銀白色の髪を縁取り、その目だけが静かに画面を追い始めた。
人類軍最高性能の戦闘アンドロイドが、今夜は幽霊映画を見る。
その組み合わせが少しおかしくて、俺はコーラのキャップを開ける。
「怖かったら言ってね」
「恐怖による行動不能の可能性は極めて低値です」
「うん。そういう意味じゃないんだけど」
「問題ありません」
敵性反応なら、俺が気づくより先に処理する。
そんなアリスに、暗い廊下から何かが飛び出す程度の演出がどこまで通用するのか。
少なくとも、俺より先に悲鳴を上げる姿は想像できなかった。
*
開始から二十分ほどで、その予想が外れていないことだけは分かった。
画面の奥に何かが立っていても、地下室から物音がしても、アリスの表情はほとんど動かない。
それどころか、俺が身構えるより先に視線が画面の端へ向く。
「今、来そうだね」
「二・七秒以内に視覚刺激が発生する可能性が高いです」
直後、画面いっぱいに白い顔が飛び出した。
大きな音まで一緒に跳ね上がり、俺の肩もつられて動く。
隣を見る。
アリスは何事もなかったように画面を見ていた。
「今の分かってたよね?」
「予測範囲内です」
「俺だけ驚いたんだ」
「心拍数が一時的に上昇しました」
「測らなくていいかな」
「既に取得済みです」
「そうだよね」
怖いというより、少し悔しい。
こっちは普通に驚かされているのに、隣では軍用センサーが演出の癖まで拾っている。
次の場面でも、アリスは暗い画面の右奥へ目を置いたまま言った。
「右奥に変化があります」
「言わないで。俺も普通に見たい」
「了解しました」
少しして、右奥から人影が現れた。
やっぱり当たっている。
「アリスって、こういう映画見るの向いてないかもね」
「理由を説明してください」
「怖がらせる前に分かっちゃうから」
「予測できても、刺激そのものは入力されます」
「でも驚かないでしょ」
「驚愕反応は抑制可能です」
「抑制してるんだ」
「戦闘行動への不要な影響を低減するためです」
さすが白い死神だ。
ホラー映画相手にも戦闘仕様が勝っている。
笑いながらコーラへ手を伸ばした、そのときだった。
画面の人物が鏡の前を通る。
何も起きない。
もう一度通る。
やっぱり何もない。
三度目も同じで、張りつめていた空気が少し緩んだところへ、背後から突然大きな音が叩きつけられた。
俺の身体が跳ねる。
ほとんど同時に、隣で布が擦れた。
振り向く。
アリスの肩が、ほんのわずかに上がっている。
「……今、驚いた?」
「いいえ」
「ちょっと動いたよ」
「反射的筋緊張です」
「それを驚いたって言うんじゃない?」
「分類上は一致しません」
即答だった。
けれど、膝の上に置かれていた両手はさっきより中央へ寄り、袖の中で指先がわずかに曲がっている。
怖いのか、と聞くのはやめた。
アリス自身がまだそう呼んでいないものを、俺が先に決める必要はない。
画面へ視線を戻す。
それでも次の暗転からは、映画より隣の気配の方が少しだけ気になった。
*
後半へ入ると、派手な驚かしより、何も起きない時間の方が長くなった。
静かな廊下。
閉じた扉。
誰もいない部屋。
何かが来ると分かっているのに、いつ来るのかだけが分からない。
気づけば、コーラを持つ手へ力が入っていた。
指を緩める。
隣のアリスは相変わらず画面を見ている。
ただ、肩のあたりが少し硬い。
「アリス」
「はい」
「大丈夫?」
「機能上の問題はありません」
「うん」
それ以上は聞かなかった。
代わりに、自分の右手を見る。
人混みの中では、アリスの方から俺へ手を伸ばした。
はぐれないため。
あのときには、はっきりした理由があった。
今は、離れても数十センチしかない。
それでも、隣の気配を意識しているうちに、何かできることはないかと思っていた。
正しいかどうかは分からない。
だから、勝手には触れない。
「……手、握ってもいい?」
アリスがこちらを向いた。
俺の顔を見る。
それから、右手へ視線が落ちる。
「目的は?」
「少し楽になるかもしれないから」
「私が?」
「うん。嫌ならやめるよ」
映画の中では、誰かが暗い階段を一段ずつ下りている。
足音だけが部屋へ響く。
アリスは繋がっていない俺の手を見たまま、
「はい。許可します」
と答えた。
「分かった」
手を伸ばす。
袖口から覗く指先へ触れ、掌を重ねた。
柔らかい。
人肌に近い温度が、そのまま皮膚へ返ってくる。
人混みでは、向こうからだった。
今日は俺からだ。
それだけなのに、右手ばかりが妙に近く感じる。
「強くない?」
「問題ありません」
「嫌になったら離してね」
「了解しました」
指は絡めない。
掌を合わせ、包むように握るだけ。
アリスも握り返してはこなかった。
けれど、離れもしない。
調整のときには、肩も腕も手首も何度も触れてきた。
必要があるなら迷わない。
今は何も直していない。
ただ手を握っている。
画面へ意識を戻しても、その温度だけは消えなかった。
しばらくして、隣を見る。
さっきまで少し上がっていたアリスの肩が下がっている。
「少し力、抜けた?」
アリスが自分の肩へ目を向けた。
「肩部人工筋群の緊張値は低下しています」
「どれくらい?」
「接触開始前と比較して八・一パーセントです」
「結構変わったね」
「映像刺激の変化も要因候補に含まれます」
「この手は?」
繋がった掌へ、アリスの視線が落ちる。
「除外できません」
「なら、少しは役に立ったのかな」
「断定には追加データが必要です」
「慎重だね」
返事はなかった。
掌の中で、指先だけがわずかに動く。
さっきより隙間が減った。
握り返した、と呼べるほど強くはない。
俺も何も言わなかった。
画面の中で、扉がゆっくり開く。
主人公が入る。
一歩。
二歩。
三歩。
何も起きない。
緊張だけが長く引き延ばされる。
俺まで呼吸を浅くしたところで、画面が静かに暗転した。
その直後。
真横から顔が飛び込んできた。
大音量。
俺の肩が跳ねる。
右手へ、はっきりとした圧がかかった。
アリスが俺の手を握っていた。
「……アリス?」
「はい」
「今、握ったよね」
「瞬間的な筋出力変動です」
「驚いた?」
返事はすぐには来なかった。
「……未分類です」
「分かった」
それ以上は聞かない。
「痛いですか」
「全然。アリスが本気で握ったら、たぶん俺の手なくなるけど」
「その可能性はありません。接触対象に応じて出力制御しています」
「そこは信頼してるよ」
少し強くなった掌の圧は、画面が落ち着いてからも戻らなかった。
*
エンドロールが流れ始めるころには、部屋の暗さにもすっかり目が慣れていた。
最後まで見届け、アリスが再生を止める。
配信サービスのメニューへ戻った途端、不穏な音楽が消え、冷蔵庫の低い駆動音が急に近くなった。
「どうだった?」
「映像上の脅威は予測可能なものが多く、実害もありません」
「感想が軍人なんだよね」
「ただし、予測不能な刺激に対する反応は複数確認しました」
「それは俺の?」
「凪は四回、明確な驚愕反応を示しました」
「数えてたんだ」
「はい」
「アリスは?」
少しだけ間があった。
「二回、筋緊張の変化を確認しました」
「ちゃんと自分のも見てるんだね」
「比較対象です」
もう、暗い階段も、突然飛び出す顔もない。
俺は握っていた手から少しだけ力を抜いた。
掌が離れかける。
そのとき、指先へ小さな圧が返ってきた。
動きを止める。
アリスを見る。
彼女の視線は、繋がった手へ落ちていた。
「手、離す?」
すぐには答えない。
やがて顔を上げる。
「……継続を希望します」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
「うん」
離れかけた掌を、もう一度重ねる。
テレビには明るい作品一覧が並んでいた。
それでも、アリスの手は離れなかった。
ホラー映画は終わりました。
暗い階段も、不気味な音も、突然飛び出す顔もありません。
だから凪が手を離そうとした、その瞬間。
アリスの指先から、小さな圧が返ってきます。
「手、離す?」
少しの沈黙。
「……継続を希望します」
怖いからではない。
はぐれないためでもない。
明るい作品一覧へ戻ったテレビの前で、繋いだ手だけが残りました。
次回。
朝、凪が目を覚ますと――コーヒーの香りがしています。




