第7話 膝枕の検証と、撫でる手
昨夜の「原因不明」が気になり、凪は見事に寝不足。
そんな凪を見たアリスが思い出したのは、恋愛作品で見た膝枕でした。
「休息補助として有効性を検証します」
人類最強の戦闘アンドロイドの膝で、昼寝。
ただの検証――だったはずなのですが。
その日は、朝からずっと眠かった。
昨夜、アリスの胸部感覚系に出た小さな変動が気になって、映画が終わったあとも設備室へ戻ってログを見直していたせいだ。
故障ではない。
安全系も、熱循環も、演算負荷も正常。
それでも、唇へ触れた直後だけ揺れた数値が頭から離れず、気づけば午前三時を過ぎていた。
昼過ぎ。
ソファに座って端末を眺めているうちに、スクロールする指が何度も同じ場所を往復していることに気づいた。
数字は読める。
意味も分かる。
なのに、次の行へ進むころには前の内容が抜け落ちている。
「凪」
隣から声が落ちてきた。
「ん?」
「瞬目回数が増加しています」
「眠いからね」
「昨夜の睡眠時間は?」
「三時間くらいかな」
アリスの目が端末から俺の顔へ移る。
「不足しています」
「そうだね」
「現在の作業に緊急性はありますか」
「ないよ」
「では、休息を優先してください」
言い方はいつも通りだった。
けれど、俺が端末を閉じるまで視線は外れない。
「分かった。少し休むよ」
ローテーブルへ端末を置く。
アリスはその画面が消えたことを確かめてから、リモコンへ手を戻した。
「ベッドへ移動しますか」
「そこまで本気で寝ると、夜まで起きなさそうだし。ソファでいいかな」
背もたれへ身体を沈める。
アリスは俺のパーカーを着たまま、動画配信サービスの一覧を見ていた。長い袖から指先だけを出してリモコンを操作する姿にも、もうほとんど違和感を覚えない。
「何か見るなら、そのままでいいよ」
「音量を低下させます」
「ありがとう」
目を閉じる。
肩から力が抜けた。
これなら、そのまま眠れるかもしれない。
「凪」
「ん?」
「現在の姿勢は休息に適していません」
五秒も持たなかった。
「ソファだからね」
「頸部が右方向へ傾斜しています。この状態を継続した場合、起床後に疼痛が発生する可能性があります」
「たぶん寝違えるね」
「姿勢修正を推奨します」
薄く目を開ける。
「クッション使えば大丈夫だよ」
「それより、頸部を水平に保つ方が適切です」
「どうやって?」
アリスの視線が、テレビへ向いた。
いつの間にか再生されていた恋愛ドラマでは、疲れて帰宅した男がソファへ横になり、隣に座った女の膝へ頭を預けている。
「膝枕と呼称される行動があります」
「そこから拾ったんだ」
「休息補助として使用されています」
「なるほど」
画面の中では、女が男の前髪を指で避けながら何か話していた。
アリスが自分の膝へ目を落とす。
「実施可能です」
少しだけ返事に困った。
映画なら何でもない姿勢なのに、自分がそこへ頭を乗せるとなると、急に距離が近く感じられる。
「アリスは平気?」
「はい」
「嫌ならやらなくていいよ」
「拒否しません」
答えはすぐだった。
「じゃあ……お願いしてもいい?」
「はい」
*
身体を横へ倒し、そっと頭を預ける。
最初に分かったのは、思っていたより柔らかいことだった。
パーカーの裾の下は黒いルームパンツ。
布越しにも、人肌に近い温度と弾力が伝わってくる。
内部にあるのが、人間とは比べものにならない出力を生む人工筋繊維だと知っていても、頭の下の感触だけなら、そんなことは分からない。
「荷重を確認しました」
「重くない?」
「問題ありません」
「ならよかった」
「現在の荷重は許容値の――」
「そこまで計算しなくて大丈夫だよ」
「必要ありませんか」
「少なくとも俺は聞かなくて平気かな」
「了解しました」
見上げる角度になると、短い髪の隙間から覗く睫毛が普段より長く見えた。
近い。
そう思った途端、かえって落ち着かなくなりそうで、天井へ視線を逃がす。
耳の近くでは、パーカーの布が呼吸模倣に合わせてかすかに擦れていた。
生命維持のための呼吸ではないと知っているのに、その規則的な音まで、人の膝で休んでいる感覚を強くする。
「どうですか」
「かなり楽」
「頸部角度は?」
「ちょうどいいよ」
「圧迫感は?」
「ない」
「温度は?」
「アリス」
「はい」
「そこまで全部確認しなくても大丈夫」
質問が止まった。
「では、何を確認すればよいですか」
少し考える。
「俺が楽そうなら、それでいいんじゃない?」
「定量化できません」
「休憩なんて、だいたいそんなものだよ」
「曖昧です」
「うん」
納得したのかは分からない。
ただ、それ以上の質問は来なかった。
目を閉じようとしたところで、髪へ何かが触れる。
指先だった。
頭頂部から前髪の近くへ、ゆっくり滑っていく。
戻る。
もう一度。
「アリス?」
「はい」
「今のは?」
「映像内で併用されていました」
画面へ目を向ければ、膝の上の男の髪を女が撫でている。
「なるほど」
指がまた動く。
髪を引っかけない。
強く押さえない。
最初は、ほとんど同じ速さで同じ軌道をなぞっていた。
「やめた方がいいですか」
「嫌じゃないよ」
「継続します」
「うん」
首筋から少しずつ力が抜けていく。
しばらくして、指が耳の近くで止まった。
頭の位置に合わせるように触れる場所がわずかに変わる。
さっきまでより自然だった。
「意外と上手だね」
何気なく言った。
指が止まった。
「アリス?」
「……はい」
「どうした?」
すぐに動きは再開したものの、今度は少し遅い。
「何かあった?」
「安全系に異常はありません」
「そこじゃなくて」
俺の髪へ触れたまま、アリスは黙った。
「嫌だった?」
「不快反応はありません」
「じゃあ、無理に答えなくても大丈夫」
「凪」
「ん?」
「先ほどの発話後、一時的な処理遅延を確認しました」
「『上手だね』って言ったあと?」
「はい」
「理由は?」
「特定できません」
「分かった」
それだけ返す。
アリスの指が再び動いた。
一定ではなかった。
耳の近くで少し止まり、前髪へ戻り、今度は頭頂部へ。
俺がわずかに頭を動かすと、その動きに合わせて触れる位置も変わる。
映画の中と同じなのか、もう違うのか。
確かめる気にはならなかった。
目を閉じる。
台詞が少しずつ遠くなる。
髪の生え際を撫でる指が、ゆっくりと通り過ぎた。
次に目を開けるまで、その手が止まった記憶はなかった。
*
画面の中では、夜の街を男女が並んで歩いていた。
さっきのソファの場面は、もう終わっているらしい。
頭の上では、まだ指先が動いていた。
一度、髪を梳く。
少し間を置き、また戻ってくる。
「……アリス」
「起床しましたか」
「うん。少し寝てたみたい」
「十七分四十二秒です」
「ちゃんと測ってたんだ」
「状態監視を継続していました」
身体を起こす。
髪へ触れていた手が離れた。
頭の周りから、さっきまであった温度が消える。
「頸部に疼痛はありますか」
「ないよ。かなり楽になった」
「休息補助効果を確認しました」
「撫で方もよかったよ」
返事が途切れた。
アリスの目がこちらへ向く。
「……先ほどの評価と同一ですか」
「撫で方の?」
「はい」
「変わってないよ」
「そうですか」
「うん。すごく気持ちよかった」
沈黙が落ちた。
俺も何も足さない。
「……了解しました」
アリスがテレビへ目を戻す。
その横で、長い袖から出た指先が、膝の上で一度だけ動いた。
俺は背もたれへ身体を預ける。
眠気はまだ残っていた。
しばらく画面を眺めていたものの、また瞼が重くなる。
「凪」
「ん?」
「睡眠を継続しますか」
「少しだけ」
「了解しました」
ソファへ横になりかけて、止まる。
「アリス」
「はい」
「また膝、借りてもいい?」
こちらを見る。
「はい」
「本当に平気?」
「問題ありません」
「ありがとう」
もう一度、頭を預ける。
今度は、休息補助の説明も、姿勢の確認もなかった。
しばらくすると、髪へ指が触れる。
ゆっくり一度。
少し間を置いて、もう一度。
「アリス」
「はい」
「それも、続けてくれるんだ」
指が止まる。
答えが返ってくるまで、少しだけ間があった。
「継続観測します」
「うん」
俺は目を閉じた。
画面の中では、もう誰も膝枕をしていなかった。
それでも、髪を撫でる手は止まらなかった。
膝枕には、きちんと休息効果がありました。
けれどアリスが気にしたのは、それだけではありません。
「撫で方もよかったよ」
凪からそう言われると、その評価をもう一度確かめます。
そして二度目の膝枕。
映画の中では、とっくにその場面は終わっている。
それでも。
凪の髪を撫でるアリスの手だけは、止まりませんでした。
次回。
今度の映画は、まさかのホラー。
そして凪の方から、アリスへ手を伸ばします。




