第6話 キャラメルポップコーンと、不器用な「あーん」
恋愛映画を見ていたアリスが、一つの疑問を持ちました。
自分で食べられるのに、なぜ恋人は相手の口へ食べ物を運ぶのか。
「検証します」
人類最強の戦闘アンドロイドによる、初めての「あーん」。
ただ確かめるだけ。
そのはずでした。
凪の指先が――ほんの一瞬、アリスの唇へ触れるまでは。
その夜、アリスが選んだのは、また恋愛映画だった。
前に見た作品より、ずいぶん軽い雰囲気らしい。
仕事帰りの男女が同じアパートに住むことになり、顔を合わせるたびに言い合いながら、少しずつ距離を縮めていく。
配信画面のあらすじを読む限り、大きな事件は起こらなさそうだった。
俺はソファへ腰を下ろし、ローテーブルにキャラメルポップコーンの袋を置く。
封を切った途端、焦がした砂糖の甘い匂いが部屋へ広がった。
隣にいたアリスの目が、画面から袋へ移る。
「食べる?」
「生命維持上の必要性はありません」
「うん。それはもう知ってる」
そう返すと、アリスは袋の中へ目を落とした。
すぐには断らない。
「では、少量を希望します」
「どうぞ」
袋を彼女の方へ寄せる。
アリスは一粒つまみ、表面を覆うキャラメルを確かめてから口へ運んだ。
小さく顎が動く。
「どう?」
「糖質濃度は高値です。香料成分に異常はありません」
「味は?」
返事が少し遅れた。
「……甘いです」
「そこは分かるんだ」
「検出可能です」
「そういう意味じゃないんだけどな」
笑うと、アリスはもう一度袋へ手を伸ばした。
次に取ったのは、さっきよりキャラメルが均一に絡んだ一粒だった。
「今、選んだ?」
「表面付着量の偏差が小さい個体です」
「ポップコーンでそこまで見るんだ」
「比較条件は揃えた方が適切です」
人類軍最高性能の画像認識が、キャラメルの付き方へ使われている。
もっと重要な用途はいくらでもある気がするが、本人はいたって真面目だった。
二粒目を食べ終える。
しばらくして、白い指先がまた袋へ入った。
今度は説明もなく、一粒つまんで口へ運ぶ。
俺は何も言わず、自分も一粒取った。
薄くキャラメルのついた指先が少しべたつく。
袋の中では、粒同士が擦れ合うたび、乾いた音と一緒に甘い匂いが浮いた。
いつの間にか映画より隣の手元を見ている自分に気づき、俺は画面へ目を戻した。
*
物語が中盤へ差しかかるころには、袋の中身もかなり減っていた。
映画の中では、主人公たちがソファで並んでテレビを見ている。
男がスナック菓子を一つ取った。
自分で食べるのかと思えば、そのまま隣の女の口元へ差し出す。
女は呆れたような顔をしながらも、最後には口を開けて受け取った。
その直後。
「凪」
隣から声がした。
「うん」
「今の行動について確認します」
「そこ気になった?」
「男性は食品を自身で摂取せず、女性の口腔付近まで搬送しました」
「そうだね」
「女性の上肢機能に異常は確認できません」
「映画の登場人物だから、そこまで診断しなくていいと思うよ」
「自力摂取が可能な対象へ、第三者が食品を運ぶ理由を確認できません」
画面ではもう次の場面へ進んでいる。
俺は袋から一粒つまみ、指先で転がした。
「食べさせてあげたかったんじゃないかな」
「栄養補給補助ですか」
「たぶん、栄養補給そのものが目的じゃないと思う」
「では、何が目的ですか」
いくつか言葉が浮かぶ。
距離が近いことを楽しみたい。
相手に何かしてあげたい。
その行為自体が嬉しい。
どれもありそうで、どれも俺が決めることではなかった。
「本人たちが、そうしたかったからじゃないかな」
「必要性より希望を優先している?」
「たぶんね」
アリスは画面へ目を戻した。
それで終わったかと思ったところで、ローテーブルへ手が伸びる。
一粒つまむ。
「凪」
「ん?」
「口元へ運んでもいいですか」
一瞬、聞かれた意味を考えた。
「ああ。さっきのをやってみるってこと?」
「はい」
「アリスが嫌じゃないなら大丈夫だよ」
「問題ありません」
白い指先が近づいてくる。
キャラメルの甘い匂いまで、さっきより近く感じた。
できるだけ指へ触れないよう、差し出された一粒を口で受け取る。
甘さそのものは、自分で食べたときと何も変わらない。
ただ、真正面から見られているせいで、妙に落ち着かなかった。
「どうですか」
「普通に甘いよ」
「自分で摂取した場合との差異は?」
「味は同じかな」
「では、食品そのもの以外に意味がある可能性があります」
「映画一本で研究が進むね」
アリスは俺の顔を見たままだった。
食べ方まで観察されている気がして、口に残った甘さをコーラで流す。
「凪」
「何?」
「応答が通常より遅延しました」
「そこまで見てたんだ」
「はい」
「見られながら食べるのって、ちょっと落ち着かないんだよ」
「観察が摂取行動へ影響する?」
「人間だと、そういうこともあるかな」
アリスはそれ以上追及せず、映画へ視線を戻した。
*
しばらくして、映画の中では女の方から男へ同じことをしていた。
隣で、アリスの身体がわずかに前へ傾く。
「凪」
「うん」
「次は、私が受け取ります」
思わず横を見る。
「やってみたい?」
「はい。実施を希望します」
「分かった」
袋から一粒取る。
アリスの方へ身体を向けたところで、手を止めた。
「口元まで持っていって大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、いくよ」
淡い桜色の唇が開く。
普段ならどうということもないはずの距離なのに、指先を近づけるだけで、急に意識の置き場がなくなった。
白い歯。
その奥に覗く舌。
肩や腕を整備するときには気にならないものばかりが、なぜか今日は目に入る。
余計なところを見るな、と自分に言い聞かせながら、ポップコーンを差し出した。
アリスが受け取る。
その瞬間。
人差し指が、唇の端へ触れた。
柔らかい。
その感触だけが、頭の中へ真っ先に飛び込んでくる。
反射的に手を引いた。
「ごめん」
「なぜ謝罪するのですか」
「今、唇に触れたから」
「偶発的接触です。損傷はありません」
「それは分かってるけど」
自分の指を見る。
当然、何も変わっていない。
肩や腕の人工皮膚に触れるときなら、温度も柔らかさも調整対象の状態として処理できる。
なのに、さっきの一瞬だけは、そこへ収まらなかった。
「凪」
顔を上げる。
アリスがこちらを見ていた。
「心拍数が上昇しています」
「……そこまで分かる?」
「平常時比、十四・六パーセント上昇」
「細かいな」
「健康上の異常ですか」
「たぶん違うと思う」
「原因は?」
返事を探したが、うまく形にならない。
「今は、俺にも分からないかな」
そう答えて袋へ手を伸ばしかけたところで、アリスが動いていないことに気づいた。
右手だけが、自分の胸元へ上がっている。
「アリス?」
「内部状態に変動を確認しました」
俺の意識が、一瞬で仕事へ切り替わった。
「どこ?」
「胸部周辺です」
「苦しい?」
「苦痛ではありません」
「熱いとか、圧迫される感じは?」
「いずれも明確ではありません」
呼吸模倣に乱れはない。
皮膚色にも変化はなく、姿勢も安定している。
「主動力側は?」
「安全系正常。炉心出力、熱循環、駆動系、いずれも規定値内です」
「感覚系?」
「胸部感覚系の一部に、基準値からの偏差があります」
「診てもいい?」
「許可します」
「途中で嫌だったら言って」
「了解しました」
簡易端末を取り出し、ソファの横で状態値を開く。
胸部感覚系。
熱循環。
自律模倣反応。
演算負荷。
一つずつ追っていくが、故障を示す波形はない。
出力も安定している。
安全系にも異常なし。
機械として見れば、むしろ綺麗すぎるくらいだった。
「変化が始まった時刻、分かる?」
「記録を照合します」
表示された時刻を見る。
俺の指がアリスの唇へ触れた、その直後だった。
偶然と言い切るには近すぎる。
けれど、確かめるためだけに同じことをもう一度する気にはなれなかった。
「異常ですか」
「故障らしいものは見つからないよ」
「では、この変動は正常ですか」
端末からアリスへ目を移す。
「そこまでは、まだ言えないかな」
「同条件を再現しますか」
「今はやめておこう」
「理由は?」
「何が起きてるか分からない状態で、同じ刺激を重ねたくない」
「再現性の確認は遅延します」
「うん。でも、急がなくていいよ」
アリスの目がこちらへ向く。
「アリスが平気かどうかの方が大事だから」
「私は平気です」
「分かった。じゃあ、少し様子を見よう」
端末は閉じず、ローテーブルへ置いた。
数値が変わればすぐに確認できる。
画面の中では、主人公たちが何事もなかったように笑っていた。
俺たちの間には、開けたままのポップコーンの袋がある。
アリスはそれを見たあと、自分の胸元へ目を落とした。
「凪」
「うん」
「現時点での診断結果を要求します」
端末を見る。
安全系に変化はない。
胸部感覚系の揺れだけが、ゆっくりと基準値へ戻りつつあった。
「故障はない。緊急性もないよ」
「では、何が起きていますか」
いつもなら、数値を見れば何かしら答えを返せる。
今は、その先がなかった。
「……まだ分からない」
アリスはそれ以上聞かなかった。
映画を再生する。
さっきまでと同じ軽い会話が、部屋へ戻ってきた。
しばらく、アリスの手は膝の上に置かれたままだった。
やがて袋へ伸びる。
一粒だけつまみ、自分の口へ運ぶ。
俺は画面を見たまま、何も言わなかった。
「……原因は不明です」
「うん」
それだけ返した。
指先にはまだ、さっき触れた唇の柔らかさが残っている気がした。
ほんの一瞬の、偶発的な接触。
損傷はありません。
それなのに凪の心拍数は、平常時比十四・六パーセント上昇。
さらにアリスにも、胸部感覚系の小さな変動が現れました。
故障ではない。
安全系も正常。
変化が始まったのは――唇へ触れた直後。
「……原因は不明です」
答えは、まだ出ません。
次回。
原因が気になって寝不足になった凪へ、アリスが「膝枕」を提案します。




