第5話 夜の買い出しと、はぐれ防止プロトコル
夜八時。
コーラがなくなったので、近所のコンビニへ。
ただの買い出しです。
けれど外へ出れば、アリスは再び「白い死神」の顔へ戻ります。
凪より半歩、車道側。
そして人混みが濃くなったとき。
「手を取ってもいいですか」
アリスの視線が、凪の右手へ落ちました。
映画が一本終わるころには、ローテーブルに置いていたコーラも空になっていた。
エンドロールを眺めたまま何となくボトルへ手を伸ばし、軽すぎる感触でようやく気づく。傾けても、底に残った数滴が頼りなく揺れるだけだった。
「……なくなった」
隣から視線が来る。
「コーラですか」
「うん」
冷蔵庫を確認するまでもない。朝、最後の一本を出した記憶がある。
「買ってこようかな」
時計を見ると、午後八時を少し過ぎたところだった。
近所のコンビニまでは歩いて十分もかからない。外もまだ人通りがある時間だ。
立ち上がりかけて、ソファのアリスを見る。
俺のパーカーを着たまま、長い袖の中へ両手を隠している。映画が終わってもすぐには姿勢を変えず、画面を流れていく文字を最後まで追っていた。
「俺、ちょっと買い物行ってくるけど、アリスはどうする?」
「同行します」
返事は早かった。
「留守番でも大丈夫だよ」
「市街地での環境適応も試験計画に含まれています」
「ああ、外出も認可済みなんだっけ」
「はい。行動範囲、秘匿基準、緊急時対応規定は共有済みです」
「じゃあ、一緒に行こうか」
アリスは立ち上がると、パーカーの裾へ目を落とした。
そのまま出るのかと思ったが、居室の奥へ向かう。戻ってきたときには、黒いパンツと濃紺の上着へ着替えていた。
市街地で目立たないことを優先した、機能的な組み合わせなのだろう。
短い銀白色の髪だけが暗い服の上で少し浮いて見えるものの、街ですれ違えば、少し目を引く若い女性にしか見えない。
その外見のまま、人間では到底追いつけない速度で動ける。
分かっているはずなのに、部屋の中で過ごす姿を見慣れるほど、その事実が遠く感じられた。
*
玄関を出た瞬間、アリスの空気が変わった。
姿勢がわずかに整い、俺に向いていた視線が廊下の左右へ滑る。エレベーターへ乗れば内部を先に確認し、一階へ着く直前には、扉が開く方向へ重心まで変えている。
さっきまでソファで恋愛映画を見ていた人と同じとは思えない。
「アリス」
「はい」
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
「警戒強度は平時市街地基準です」
「それで平時なんだ」
「はい」
建物を出ると、秋の夜気が首元へ入り込んだ。
薄手の上着しか着てこなかったことを少し後悔しながら歩き出すと、アリスもすぐ隣へ並ぶ。
ただし、完全な横ではない。
半歩だけ前。
しかも車道側だった。
「アリス、そっち歩くの?」
「問題がありますか」
「いや、ないけど」
位置を入れ替えようと外側へ一歩出る。
するとアリスもほとんど同時に動き、何事もなかったようにまた俺より車道側へ収まった。
「今、わざと戻った?」
「はい」
「理由は?」
「車両接近時、私が外側にいる方が対応可能時間を確保できます」
「対応って、まさか車を止めるとか言わないよね」
「状況によります」
「状況によるんだ……」
冗談なのか判断できない。
たぶん、冗談ではない。
駅へ続く通りはまだ明るく、飲食店の看板や車のライトが絶えず視界へ入る。交差点の向こうからは仕事帰りらしい人の流れが続き、自転車のベルや信号機の電子音まで混ざっていた。
信号の手前で、一台の自転車が勢いよく曲がってくる。
俺が足を止めるより先に、アリスの左腕がわずかに上がった。
触れられたわけではない。
それでも、その身体が自然に俺と自転車の間へ入る。
自転車はそのまま通り過ぎていった。
「今のも平時市街地基準?」
「はい。接触可能性は低値でした」
「じゃあ、前に出なくてもよかったんじゃない?」
「低値とゼロは異なります」
それだけ言うと、アリスはもう前を見ていた。
周囲を見て、危険度を測り、必要な位置へ動く。
その判断には迷いがない。
部屋でパーカーのフードを被る理由には、答えが出なかったのに。
その違いが、妙に頭へ残った。
*
コンビニへ近づくにつれて、人通りが増えた。
駅から出てきた集団と重なったらしく、信号待ちの歩道には学生や会社員、自転車を押す人まで集まっている。
青へ変わった途端、向こう側から人波が押し寄せた。
ぶつからないよう左へ身体を寄せたところで、隣から声がした。
「凪」
「ん?」
「対象ロストの可能性が上昇しています」
「対象って俺?」
「はい」
即答される。
アリスは周囲へ視線を走らせてから、俺の右手を見た。
「接触による位置固定が有効です。手を取ってもいいですか」
一瞬だけ、映画の中で並んで歩いていた二人が頭に浮かんだ。
すぐに追い出す。
今は、はぐれ防止だ。
「うん。大丈夫だよ」
「了解しました」
白い指先が伸びてくる。
触れた掌は、人間とほとんど変わらない温度だった。
最初は普通に握られるのだと思った。
けれど、アリスの指が俺の指の間へ入り、そのままきっちり絡む。
「……アリス?」
「はい」
「ずいぶんしっかり繋ぐんだね」
「接触面積が増加します。分離方向への保持力も高くなります」
「ちゃんと理由あるんだ」
「はい」
交差点を渡り始める。
人の肩が近づくたび、アリスがわずかに進路を変える。その動きに合わせているだけで、こちらも誰かとぶつからずに済んだ。
「周りの人の進路も見てる?」
「周辺移動体の予測は継続しています」
「すごいな」
「通常処理です」
通常でこれなのだから、戦闘時に何を見ているのか考えたくもない。
アリスは前を向いたままだ。
繋いだ手に力を込めすぎることもなく、こちらの歩幅に合わせている。
映画で見た形と似ている、とは言わなかった。
同じ形でも、意味まで同じとは限らない。
「このままで大丈夫?」
「問題ありません」
「俺も大丈夫」
それだけ確認して、前を見る。
指の間へ残る温度を意識した途端、それまで普通だった歩き方が妙にぎこちなくなった。
隣のアリスは、普段と変わらない顔で人の流れを監視している。
手だけが、妙に近かった。
*
自動ドアをくぐる。
人の密度が下がったところで、アリスの指がほどけた。
「あ」
声が出てから、自分でも何に反応したのか分からなくなる。
アリスは気にした様子もなく、店内を一度見回した。
「対象ロストの可能性は十分低いと判断します」
「なるほど」
必要だったから繋いで、必要がなくなったから離した。
今のアリスなら、それが自然なのだろう。
冷蔵棚へ向かい、いつものコーラを二本取ろうとしたところで、隣の視線に気づいた。
アリスは、透明なボトルの中を上がっていく細かな気泡を見ている。
「アリスも飲む?」
「糖質摂取の必要性はありません」
「うん。でも、飲んでみたい?」
俺の手にあるボトルを見てから、棚へ目を戻す。
「炭酸飲料の摂取経験は限定的です」
「じゃあ、自分で選んでみる?」
「私が?」
「飲むならね」
アリスは棚を見渡した。
サイズ。
ラベル。
成分表示。
いくつかへ順番に目を向けたあと、一番小さなボトルへ手を伸ばす。
「これを選択します」
「了解」
会計を済ませて外へ出るころには、人の流れも少し落ち着いていた。
店先の端へ寄り、自分のボトルを開ける。
炭酸の抜ける音が、夜気の中へ小さく弾けた。
「ここで飲んでみる?」
「はい」
アリスもキャップを外し、慎重にボトルを傾ける。
ほんの一口。
喉が小さく動いた直後、目がわずかに見開かれた。
「どう?」
「二酸化炭素による刺激を確認しました」
「味より先にそこなんだ」
「舌表面および口腔粘膜への刺激が継続しています」
「嫌だった?」
アリスはボトルを見たまま答えない。
「嫌なら、そこでやめて大丈夫だよ」
返事の代わりに、もう一度ボトルが持ち上がった。
一口目より、少し長い。
「……継続します」
「分かった」
店先の照明の下で、細かな泡が浮かび続けている。
アリスはそれを目で追ったあと、ラベルへ視線を移した。
「分析する?」
「すでに完了しています」
「だよね」
「糖質量、酸度、カフェイン含有量、香料成分に問題はありません」
「なるほど」
そこで止めた。
美味しいのか。
気に入ったのか。
今の二口だけで、俺が決めることじゃない。
アリスはキャップを閉め、そのボトルを自分で持ったまま歩き出した。
帰り道には、もう人混みがない。
手も繋がなかった。
俺より半歩車道側という位置だけは変わらず、ときどき通過する車へ目を向けている。
その右手には、小さなコーラのボトルがあった。
白い死神が持つには、妙に日常的なものだった。
*
部屋へ戻ると、アリスは上着を脱ぎ、しばらくして俺のパーカー姿で居室へ戻ってきた。
そのままソファへ座り、背もたれへ身体を預ける。
俺も隣へ腰を下ろし、コーラを開けた。
炭酸の弾ける音に反応するように、アリスが膝の上の小さなボトルへ目を落とす。
「もう飲まないなら、冷蔵庫入れとく?」
「いいえ」
自分でキャップを開け、一口。
今度は目も見開かない。
「慣れた?」
「刺激強度に変化はありません」
「そっか」
俺も自分のコーラへ口をつける。
隣で、また小さくボトルが傾いた。
「糖質摂取の必要性はありません」
「うん」
「水分補給を目的とする場合、水の方が効率的です」
「そうだね」
アリスはボトルを見る。
俺は続きを待たなかった。
テレビをつけ、動画配信サービスの画面を開く。
作品一覧が並び始めたところで、隣から声がした。
「……継続します」
横を見る。
アリスはもう一口、コーラを飲んでいた。
「うん」
それだけ返して、リモコンへ目を戻す。
外では、俺より半歩車道側。
部屋では、俺の隣だった。
初めて繋いだ手。
理由は「対象ロスト防止」。
あくまで合理的です。
ただ――普通に握るだけでもいいはずなのに、アリスが選んだのは指を絡める方法でした。
帰宅後には、初めてのコーラももう一口。
「……継続します」
外では、凪より半歩車道側。
部屋では、凪の隣。
次回。
恋愛映画で見つけた「あーん」を、アリスが実際に検証します。




