第4話 初めての恋愛映画と、最初の「もう一本」
必要もないのに、一緒にいる。
自分が濡れてまで、相手へ傘を差し出す。
理由を説明できないまま涙を流す。
そして――キスをする。
合理性を重視するアリスにとって、恋愛映画は理解不能な行動の連続です。
「必要性がなくても、人はそうするのですか」
初めて触れる「恋」を、アリスはどう見るのでしょうか。
その夜は、珍しく仕事を続ける気になれなかった。
設備室の端末には、昼の診断ログも環境適応試験の記録も残っている。手をつければ、あと二時間くらいは平気で潰せる量だった。
けれど、数字を追うより先に肩の重さを自覚してしまった。
右肩駆動、熱循環、視覚補正、生活環境下の反応記録。
並んでいる項目は、どれも正常。
異常がないなら、今日はもういい。
端末を閉じて居室へ戻ると、アリスはソファにいた。
俺のパーカーを着たまま、長い袖の中へ両手を隠している。フードこそ被っていないものの、身体はすっかり背もたれへ預けられていた。
「今日は早いですね」
「たまにはね」
ローテーブルからリモコンを取り、テレビをつける。
動画配信サービスの画面が開くと、アリスの目も自然にそちらへ向いた。
「映像作品を視聴するのですか」
「そのつもり」
「目的は?」
「特にないよ」
アリスがこちらを見る。
「必要性のない映像視聴を行うのですか」
「暇つぶしとか、気分転換とか。そういう感じかな」
「現在、凪には休養が必要です」
「それは否定できないね。休みながら映画を見ることもあるんだよ」
作品一覧を流していく。
派手なアクション映画へ指が止まりかけたが、隣にいる相手を思い出してやめた。
人類軍最高性能の戦闘アンドロイドと銃撃戦を見るのは、たぶん落ち着かない。俺まで射線や遮蔽物の使い方を気にし始めそうだ。
代わりに目へ留まったのは、ずいぶん前に一度見た古い恋愛映画だった。
仕事帰りに知り合った男女が、特別な事件もないまま、少しずつ距離を縮めていく話だったと思う。
「これにしようかな」
「分類は?」
「恋愛映画」
アリスはタイトルへ目を戻す。
「恋愛行動を学習する目的で制作された映像ですか」
「教材じゃないよ。楽しむための映画」
「では、なぜ凪は視聴するのですか」
「前に見て、面白かった記憶があるからかな」
そう答えてから、隣を見る。
「アリスも見る?」
「必要性は?」
「特にないよ。暇だったら一緒にどうかなって」
すぐに断られるかと思った。
けれどアリスは画面へ目を戻し、並んだ作品の画像をしばらく見ていた。
「人間行動の学習として視聴します」
「分かった。じゃあ一緒に見よう」
再生ボタンを押した。
*
始まってしばらくは、驚くほど静かだった。
主人公たちは仕事の愚痴を言い、くだらないことで笑い、別れ際になると次に会うための理由をどうにか作ろうとしている。
隣では、アリスが画面を見続けていた。
映画そのものを見ているはずなのに、ときどき俺の意識の方が横へ逸れる。
会話の意味を解析しているのか。
声の揺れや視線の動きまで拾っているのか。
尋ねれば細かな処理内容を返してきそうだったが、黙って見ている横顔をわざわざ邪魔する気にはならなかった。
スクリーンの光が、短い銀白色の髪へ淡く色を落とす。
笑う場面でも、アリスの口元は動かない。
それでも、誰かが言葉を発する直前になると、その相手の顔へ視線が移っていた。
「凪」
「ん?」
「先ほどの男性は、女性の帰宅経路を把握しています」
「うん」
「にもかかわらず、送ると提案しました。移動効率は低下します」
「まあ、そうだね」
画面の中では、男が少し遠回りになる道を女と並んで歩いている。
昔見たときには、気にも留めなかった場面だった。
「目的は?」
「もう少し一緒にいたかったんじゃないかな」
「必要性がなくても、一緒にいる時間を延長するのですか」
「そうしたいなら、することはあると思う」
「合理性より、本人の希望を優先している?」
「言い方は固いけど、そんな感じかな」
アリスは画面へ戻った。
やがて雨が降り始める。
二人は一本の傘へ入り、肩が触れそうな距離で歩いていた。
女が少し離れる。
男は何も言わず傘をそちらへ傾け、そのぶん自分の肩を濡らしていく。
「男性側の被水量が増加しています」
「そこを見るんだ」
「風向きを考慮すれば、傘の中心角を四・二度修正することで――」
「たぶん、自分が濡れるより相手が濡れる方が嫌だったんじゃないかな」
アリスの言葉が止まった。
「自身の不利益を許容してまで?」
「そうしたかったんじゃない?」
「なぜですか」
答えかけて、やめる。
好きだから。
そう言ってしまうのは簡単だった。
でも、この男が本当に何を考えていたのかを、俺が決めることはできない。
「本人じゃないと、本当のところは分からないかな」
「推測は可能ですか」
「できると思う。でも、答えが一つとは限らないよ」
アリスはそれ以上尋ねなかった。
次の場面へ移ってからも、男の濡れた肩へ少しだけ視線が残っていた。
*
物語が中盤を過ぎたところで、主人公たちは初めてキスをした。
告白した直後でもなければ、抱き合った流れでもない。
二人で話していた言葉が途中で途切れ、視線だけが残る。
男が少し近づく。
女は離れない。
その距離が消える直前、隣から衣擦れが聞こえた。
「停止してください」
リモコンを押す。
画面は、二人の顔が触れる寸前で止まった。
「どうした?」
「この行動の目的を確認したいです」
「キスの?」
「はい。呼吸補助、救命処置、摂食補助のいずれにも該当しません」
「そこまで並べられると、急に医療行為みたいだね」
「なぜ接触する必要がありますか」
静止した画面を見る。
「必要だからじゃなくて、したいからじゃないかな」
アリスがこちらを向いた。
「それだけで、行動理由になりますか」
「なることもあると思うよ」
「相手も同じ行動を希望している必要がありますか」
「それは大事だね。相手が嫌ならしない方がいい」
「映像内では、明示的な確認がありませんでした」
「表情とか距離とか、その場の反応で分かってるっていう描き方なんだと思う」
一度、言葉を切る。
「でも現実なら、相手がどう思ってるか分からないときは、確認した方がいいよ」
アリスはしばらく俺を見ていた。
真っ直ぐな視線に、今度はこっちが落ち着かなくなる。
「凪は、この行動をしますか」
「……することはあるよ」
「どのような場合ですか」
どうして自宅のソファで、軍用アンドロイド相手にキスの条件を説明しているんだろう。
そんな考えが一瞬浮かんだ。
それでも、適当に答える気にはなれない。
「俺もそうしたくて、相手もそうしたいって分かってるときかな」
アリスの視線が、俺から画面へ戻った。
「再生してください」
「うん」
止まっていた時間が動き出す。
二人の唇が重なる。
アリスはもう質問しなかった。
背もたれから少し身体を起こしたまま、その場面を最後まで見ていた。
*
終盤、物語は静かに別れへ向かった。
仕事の都合で、女性が遠い街へ移ることになる。
どちらも残れとは言わない。
無理に引き止めもしない。
駅のホームでは普段と変わらない顔で話していたのに、電車が入ってくるころ、女性の頬を涙が伝った。
「凪」
「うん」
「眼球保護に必要な刺激を確認できません」
「泣いてるんだよ」
「私の人工涙液は、眼球乾燥、異物混入、表面損傷等で分泌量を増加させます」
「人間は、それ以外でも泣くからね」
「悲しみによる反応ですか」
「悲しいときもあるし、嬉しいときもあるよ」
アリスの目が画面へ戻る。
女性は涙を拭きながら笑っていた。
笑っているのに、声は少し震えている。
「異なる状態で、同一の反応が発生するのですか」
「する」
「識別効率が低下します」
「そう考えると、ずいぶん不便だね」
俺も画面を見る。
その表情は、悲しいだけにも、嬉しいだけにも見えなかった。
「不具合ですか」
少し考える。
「本人にとって大事な反応なら、不具合じゃないこともあるんじゃないかな」
「原因を完全に説明できなくても?」
「うん」
それ以上は言わなかった。
アリスも質問を続けない。
電車の扉が閉まり、二人の距離が少しずつ離れていく。
静かな音楽とともにエンドロールが流れ始めた。
俺はすぐには操作せず、隣を見る。
アリスはいつの間にか背もたれへ身体を預け直していた。
パーカーの長い袖から、指先だけが少し覗いている。
「どうだった?」
少しして、返事が来る。
「非合理な行動が多数存在しました」
「最初の感想、それなんだ」
「必要性のない接触。移動効率を低下させる同行。自身の不利益を許容する行動。原因と反応が一対一で対応しない涙」
「そう並べると、かなり変な映画に聞こえるね」
「人間行動として、未理解部分が残っています」
「そうだね」
リモコンへ手を伸ばした。
映画は終わったし、俺としてはそれで一区切りのつもりだった。
「凪」
指が止まる。
「ん?」
アリスは、エンドロールの終わった画面から作品一覧へ目を移した。
「……別の映像も見たいです」
返事が遅れた。
学習が必要です、ではない。
見たいです。
「じゃあ、次はアリスが選んでいいよ」
「私が?」
「うん。見たいものがあれば」
リモコンを差し出す。
長い袖の中から白い指先が出てきて、それを受け取った。
作品一覧が横へ流れていく。
アクション。
サスペンス。
ドキュメンタリー。
いくつものタイトルを通り過ぎ、やがてアリスの指が止まった。
選ばれていたのは、また恋愛映画だった。
「これを選択します」
「うん」
再生ボタンが押される。
一本目は、俺が選んだ。
二本目は違う。
アリスが自分で選んだ映画が、静かに始まった。
映画の中には、アリスには理解できないことばかり。
必要のない接触。
非効率な同行。
理由の分からない涙。
それでも映画が終わり、凪がリモコンを取ろうとしたとき。
「……別の映像も見たいです」
学習が必要だから、ではありません。
見たい。
そしてアリスが自分で選んだ二本目も――恋愛映画でした。
次回。
その映画を見終えた夜、二人は近所のコンビニへ。
人混みの中で、アリスの手が凪へ伸びます。




