↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/17

第4話 初めての恋愛映画と、最初の「もう一本」

必要もないのに、一緒にいる。


自分が濡れてまで、相手へ傘を差し出す。


理由を説明できないまま涙を流す。


そして――キスをする。


合理性を重視するアリスにとって、恋愛映画は理解不能な行動の連続です。


「必要性がなくても、人はそうするのですか」


初めて触れる「恋」を、アリスはどう見るのでしょうか。

 その夜は、珍しく仕事を続ける気になれなかった。


 設備室の端末には、昼の診断ログも環境適応試験の記録も残っている。手をつければ、あと二時間くらいは平気で潰せる量だった。


 けれど、数字を追うより先に肩の重さを自覚してしまった。


 右肩駆動、熱循環、視覚補正、生活環境下の反応記録。


 並んでいる項目は、どれも正常。


 異常がないなら、今日はもういい。


 端末を閉じて居室へ戻ると、アリスはソファにいた。


 俺のパーカーを着たまま、長い袖の中へ両手を隠している。フードこそ被っていないものの、身体はすっかり背もたれへ預けられていた。


「今日は早いですね」


「たまにはね」


 ローテーブルからリモコンを取り、テレビをつける。


 動画配信サービスの画面が開くと、アリスの目も自然にそちらへ向いた。


「映像作品を視聴するのですか」


「そのつもり」


「目的は?」


「特にないよ」


 アリスがこちらを見る。


「必要性のない映像視聴を行うのですか」


「暇つぶしとか、気分転換とか。そういう感じかな」


「現在、凪には休養が必要です」


「それは否定できないね。休みながら映画を見ることもあるんだよ」


 作品一覧を流していく。


 派手なアクション映画へ指が止まりかけたが、隣にいる相手を思い出してやめた。


 人類軍最高性能の戦闘アンドロイドと銃撃戦を見るのは、たぶん落ち着かない。俺まで射線や遮蔽物の使い方を気にし始めそうだ。


 代わりに目へ留まったのは、ずいぶん前に一度見た古い恋愛映画だった。


 仕事帰りに知り合った男女が、特別な事件もないまま、少しずつ距離を縮めていく話だったと思う。


「これにしようかな」


「分類は?」


「恋愛映画」


 アリスはタイトルへ目を戻す。


「恋愛行動を学習する目的で制作された映像ですか」


「教材じゃないよ。楽しむための映画」


「では、なぜ凪は視聴するのですか」


「前に見て、面白かった記憶があるからかな」


 そう答えてから、隣を見る。


「アリスも見る?」


「必要性は?」


「特にないよ。暇だったら一緒にどうかなって」


 すぐに断られるかと思った。


 けれどアリスは画面へ目を戻し、並んだ作品の画像をしばらく見ていた。


「人間行動の学習として視聴します」


「分かった。じゃあ一緒に見よう」


 再生ボタンを押した。



   *



 始まってしばらくは、驚くほど静かだった。


 主人公たちは仕事の愚痴を言い、くだらないことで笑い、別れ際になると次に会うための理由をどうにか作ろうとしている。


 隣では、アリスが画面を見続けていた。


 映画そのものを見ているはずなのに、ときどき俺の意識の方が横へ逸れる。


 会話の意味を解析しているのか。


 声の揺れや視線の動きまで拾っているのか。


 尋ねれば細かな処理内容を返してきそうだったが、黙って見ている横顔をわざわざ邪魔する気にはならなかった。


 スクリーンの光が、短い銀白色の髪へ淡く色を落とす。


 笑う場面でも、アリスの口元は動かない。


 それでも、誰かが言葉を発する直前になると、その相手の顔へ視線が移っていた。


「凪」


「ん?」


「先ほどの男性は、女性の帰宅経路を把握しています」


「うん」


「にもかかわらず、送ると提案しました。移動効率は低下します」


「まあ、そうだね」


 画面の中では、男が少し遠回りになる道を女と並んで歩いている。


 昔見たときには、気にも留めなかった場面だった。


「目的は?」


「もう少し一緒にいたかったんじゃないかな」


「必要性がなくても、一緒にいる時間を延長するのですか」


「そうしたいなら、することはあると思う」


「合理性より、本人の希望を優先している?」


「言い方は固いけど、そんな感じかな」


 アリスは画面へ戻った。


 やがて雨が降り始める。


 二人は一本の傘へ入り、肩が触れそうな距離で歩いていた。


 女が少し離れる。


 男は何も言わず傘をそちらへ傾け、そのぶん自分の肩を濡らしていく。


「男性側の被水量が増加しています」


「そこを見るんだ」


「風向きを考慮すれば、傘の中心角を四・二度修正することで――」


「たぶん、自分が濡れるより相手が濡れる方が嫌だったんじゃないかな」


 アリスの言葉が止まった。


「自身の不利益を許容してまで?」


「そうしたかったんじゃない?」


「なぜですか」


 答えかけて、やめる。


 好きだから。


 そう言ってしまうのは簡単だった。


 でも、この男が本当に何を考えていたのかを、俺が決めることはできない。


「本人じゃないと、本当のところは分からないかな」


「推測は可能ですか」


「できると思う。でも、答えが一つとは限らないよ」


 アリスはそれ以上尋ねなかった。


 次の場面へ移ってからも、男の濡れた肩へ少しだけ視線が残っていた。



   *



 物語が中盤を過ぎたところで、主人公たちは初めてキスをした。


 告白した直後でもなければ、抱き合った流れでもない。


 二人で話していた言葉が途中で途切れ、視線だけが残る。


 男が少し近づく。


 女は離れない。


 その距離が消える直前、隣から衣擦れが聞こえた。


「停止してください」


 リモコンを押す。


 画面は、二人の顔が触れる寸前で止まった。


「どうした?」


「この行動の目的を確認したいです」


「キスの?」


「はい。呼吸補助、救命処置、摂食補助のいずれにも該当しません」


「そこまで並べられると、急に医療行為みたいだね」


「なぜ接触する必要がありますか」


 静止した画面を見る。


「必要だからじゃなくて、したいからじゃないかな」


 アリスがこちらを向いた。


「それだけで、行動理由になりますか」


「なることもあると思うよ」


「相手も同じ行動を希望している必要がありますか」


「それは大事だね。相手が嫌ならしない方がいい」


「映像内では、明示的な確認がありませんでした」


「表情とか距離とか、その場の反応で分かってるっていう描き方なんだと思う」


 一度、言葉を切る。


「でも現実なら、相手がどう思ってるか分からないときは、確認した方がいいよ」


 アリスはしばらく俺を見ていた。


 真っ直ぐな視線に、今度はこっちが落ち着かなくなる。


「凪は、この行動をしますか」


「……することはあるよ」


「どのような場合ですか」


 どうして自宅のソファで、軍用アンドロイド相手にキスの条件を説明しているんだろう。


 そんな考えが一瞬浮かんだ。


 それでも、適当に答える気にはなれない。


「俺もそうしたくて、相手もそうしたいって分かってるときかな」


 アリスの視線が、俺から画面へ戻った。


「再生してください」


「うん」


 止まっていた時間が動き出す。


 二人の唇が重なる。


 アリスはもう質問しなかった。


 背もたれから少し身体を起こしたまま、その場面を最後まで見ていた。



   *



 終盤、物語は静かに別れへ向かった。


 仕事の都合で、女性が遠い街へ移ることになる。


 どちらも残れとは言わない。


 無理に引き止めもしない。


 駅のホームでは普段と変わらない顔で話していたのに、電車が入ってくるころ、女性の頬を涙が伝った。


「凪」


「うん」


「眼球保護に必要な刺激を確認できません」


「泣いてるんだよ」


「私の人工涙液は、眼球乾燥、異物混入、表面損傷等で分泌量を増加させます」


「人間は、それ以外でも泣くからね」


「悲しみによる反応ですか」


「悲しいときもあるし、嬉しいときもあるよ」


 アリスの目が画面へ戻る。


 女性は涙を拭きながら笑っていた。


 笑っているのに、声は少し震えている。


「異なる状態で、同一の反応が発生するのですか」


「する」


「識別効率が低下します」


「そう考えると、ずいぶん不便だね」


 俺も画面を見る。


 その表情は、悲しいだけにも、嬉しいだけにも見えなかった。


「不具合ですか」


 少し考える。


「本人にとって大事な反応なら、不具合じゃないこともあるんじゃないかな」


「原因を完全に説明できなくても?」


「うん」


 それ以上は言わなかった。


 アリスも質問を続けない。


 電車の扉が閉まり、二人の距離が少しずつ離れていく。


 静かな音楽とともにエンドロールが流れ始めた。


 俺はすぐには操作せず、隣を見る。


 アリスはいつの間にか背もたれへ身体を預け直していた。


 パーカーの長い袖から、指先だけが少し覗いている。


「どうだった?」


 少しして、返事が来る。


「非合理な行動が多数存在しました」


「最初の感想、それなんだ」


「必要性のない接触。移動効率を低下させる同行。自身の不利益を許容する行動。原因と反応が一対一で対応しない涙」


「そう並べると、かなり変な映画に聞こえるね」


「人間行動として、未理解部分が残っています」


「そうだね」


 リモコンへ手を伸ばした。


 映画は終わったし、俺としてはそれで一区切りのつもりだった。


「凪」


 指が止まる。


「ん?」


 アリスは、エンドロールの終わった画面から作品一覧へ目を移した。


「……別の映像も見たいです」


 返事が遅れた。


 学習が必要です、ではない。


 見たいです。


「じゃあ、次はアリスが選んでいいよ」


「私が?」


「うん。見たいものがあれば」


 リモコンを差し出す。


 長い袖の中から白い指先が出てきて、それを受け取った。


 作品一覧が横へ流れていく。


 アクション。


 サスペンス。


 ドキュメンタリー。


 いくつものタイトルを通り過ぎ、やがてアリスの指が止まった。


 選ばれていたのは、また恋愛映画だった。


「これを選択します」


「うん」


 再生ボタンが押される。


 一本目は、俺が選んだ。


 二本目は違う。


 アリスが自分で選んだ映画が、静かに始まった。

映画の中には、アリスには理解できないことばかり。


必要のない接触。

非効率な同行。

理由の分からない涙。


それでも映画が終わり、凪がリモコンを取ろうとしたとき。


「……別の映像も見たいです」


学習が必要だから、ではありません。


見たい。


そしてアリスが自分で選んだ二本目も――恋愛映画でした。


次回。


その映画を見終えた夜、二人は近所のコンビニへ。


人混みの中で、アリスの手が凪へ伸びます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。