第3話 戦闘服のパージと、ぶかぶかのパーカー
夕方になっても、アリスは戦闘服のまま。
軍では完璧に似合う「白い死神」の姿です。
ただし、背景はピザ箱とコーラが残る六畳間。
そこで凪が差し出したのは、高性能な衣服でも軍用品でもなく。
自分が普段着ている、ただのパーカーでした。
夕方になっても、アリスは戦闘服のままだった。
黒に近いチャコールグレーの高機能素材は、基地で見れば何もおかしくない。身体へ沿う薄い生地の下には、人間とは比較にならない出力を生む人工筋繊維が収まっている。
銀白色のボブと、照明の加減で銅色を帯びる瞳。
軍で「白い死神」と呼ばれる姿そのものだ。
問題があるとすれば、背景が俺の六畳間だということだった。
ローテーブルの脇には昨日のピザ箱。飲みかけのコーラ。ベッドの端には朝脱いだシャツまで残っている。
その生活感の真ん中で、人類軍最高性能機だけが隙なく座っていた。
どう見ても、部屋の方が負けている。
「アリス」
「はい」
「その服、ずっと着てるつもり?」
アリスは自分の袖口へ目を落とした。
「行動上の支障はありません」
「支障があるかじゃなくて。ここ家だし、もう少し楽な格好でもいいんじゃないかなって」
「現在の装備は長時間着用を想定しています。関節可動域、熱交換効率、人工皮膚表面への圧力、いずれも規定値内です」
「性能が良すぎるんだよなあ」
俺なら、家へ帰れば部屋着に着替える。
窮屈だから。
落ち着くから。
外で着ていた服のまま過ごす気になれないから。
理由として挙げようと思えばいくらでもあるのに、どれも数値にはしづらい。
「ちょっと待ってて」
クローゼットを開ける。
畳まれた服より、適当に押し込んだ服の方が多い。
自分でも何がどこにあるのか怪しい山を探っていると、背後から声が飛んできた。
「捜索を補助しますか」
「大丈夫。たぶんこの辺に――あった」
引っ張り出したのは、濃いグレーのパーカーだった。
少し厚手で、休日によく着ているものだ。
洗濯済みではあるものの、念のため襟元へ鼻を近づける。
「凪」
「ん?」
「臭気異常を検出しましたか」
「違う違う。人に貸せる状態か確認してただけ」
「私の嗅覚系は人間より高精度です。必要であれば――」
「それは今ちょっと聞きたくないかな」
自分の洗濯事情を軍用センサーに査定されたくない。
パーカーを広げてみる。
俺には普通のサイズでも、百五十八センチのアリスにはかなり大きい。肩も袖も合わないだろうし、機能だけで比べれば戦闘服に勝てるところはほとんどなさそうだった。
「これ、ここに置いとくね」
「用途は?」
「部屋着。着てみたかったら使って」
「変更する必要性は?」
「特にないよ」
予想通りの問いだった。
「戦闘服のままでも問題ないし、着なくても大丈夫。家ではこういう服で過ごす人もいるってだけ」
「凪も使用しますか」
「うん。休みの日とか」
アリスはパーカーを見る。
「戦闘服と比較した機能的優位性は?」
「たぶん、ほぼ全部負けてる」
「では、変更理由を確認できません」
「そうなるよね」
笑って、ベッドの端へ置いた。
「そのままでいいよ。使いたくなったら使って」
「了解しました」
それ以上は勧めず、俺は設備室へ戻った。
*
一時間ほどログを整理したところで、喉が渇いた。
居室へ戻った瞬間、見慣れない色が視界へ入る。
濃いグレー。
足が止まった。
ベッドへ置いていったはずのパーカーを、アリスが着ている。
袖は予想以上に長かった。
手の甲を越え、指の付け根近くまで布に隠れている。裾も太腿の半ば近くまで落ち、戦闘服でははっきりしていた身体の輪郭が、柔らかな布の中へほとんど消えていた。
高めの襟から細い首が覗き、その上で短い髪が揺れる。
顔は同じ。
身体も同じ。
なのに、基地で見慣れているアリスとはひどく違って見えた。
「凪」
「……うん」
「応答までに遅延を確認しました」
「そこは測らなくていいかな」
「外観上の異常がありますか」
「ないよ」
そこまではすぐ答えられた。
続きだけが少し遅れる。
「似合ってるなと思って」
アリスが一度瞬いた。
「外見上の適合性が高い、という評価ですか」
「そんなに難しくしなくていいけど、まあ、そういうこと」
「了解しました」
返事はいつも通りだった。
俺の方だけが何となく落ち着かなくなり、冷蔵庫へ向かう。
コーラを一本取り出し、一口飲んでから振り返った。
「着てみたんだね」
「はい」
「どうして?」
「衣服変更時の状態差を確認しました」
「なるほど」
ソファの脇には、脱いだ戦闘服が角まで揃えて畳まれていた。
その横で、俺のパーカーだけが身体のあちこちで余っている。
「着心地は?」
「人工皮膚への圧力は戦闘服より低値です。熱保持性能は現環境で許容範囲。可動時に袖余りが発生します」
「だいぶ余ってるね」
アリスが腕を上げる。
布が手首を越えて落ち、白い指先が少しだけ出た。
「細かい作業には不利です」
「袖、折る?」
「必要ありません」
「じゃあ、脱ぐ?」
「いいえ」
返事が早かった。
コーラの缶を口元まで持ち上げたまま、俺の手が止まる。
アリス自身も袖口へ目を落とした。
「変更は不要です」
「分かった」
それだけ返した。
何が気に入ったのか。
本当に状態差の確認だけなのか。
今聞いたところで、本人にもまだ答えはないのかもしれない。
俺がソファの反対側へ座ると、人ひとり分ほどの隙間が残った。
アリスは背もたれへ身体を預けたまま、姿勢を直さない。
少しして、こちらを向いた。
「凪」
「ん?」
「この衣服から、複数の臭気成分を検出します」
危うくコーラを噴きそうになった。
「やっぱり変な匂いした?」
「異常臭ではありません。洗浄剤、柔軟剤、皮脂由来成分、室内環境由来成分が主です」
「後半二つは聞きたくなかったな」
「健康上の異常を示す値ではありません」
「フォローありがとう」
アリスは襟元へ目を落とした。
長い袖に半分隠れた指が、布の端へ触れる。
「嫌な匂い?」
「不快判定はありません」
「ならよかった」
それ以上は聞かなかった。
俺がコーラをもう一口飲む横で、アリスは袖口を少しだけ引き下ろす。
白い指先が、ほとんど見えなくなった。
*
夜、簡単な診断を終えて設備室を出た。
居室の入口で、また足が止まる。
アリスはソファにいた。
パーカーを着たまま。
今度はフードまで被っている。
髪の大半が柔らかな布の内側へ収まり、頬の横に短い毛先だけが残っていた。
長い袖には両手まで隠れている。
演習場で十二体を瞬時に制圧する姿を知っているだけに、その落差をどう受け取ればいいのか分からない。
「アリス」
「はい」
「フードまで使ってるんだ」
「はい」
「何か理由ある?」
すぐには答えが返ってこなかった。
フードの縁から覗く瞳が、こちらを向く。
「視界は十二・四パーセント制限されます。音響入力への影響は軽微。熱保持効率は上昇しています」
「うん」
「現在の室温では、追加の熱保持は不要です」
「でも、そのままなんだね」
「はい」
「理由は分かる?」
沈黙が落ちる。
「……判断できません」
「分からないんだ」
「はい」
機能上は不要。
視界はむしろ狭くなる。
それでも、自分で被って、そのままにしている。
「じゃあ、今は分からないままでいいんじゃない?」
「問題ありませんか」
「誰も困らないよ」
それだけ答えた。
アリスはフードへ手を伸ばさなかった。
俺もベッドの端へ腰を下ろし、端末を開く。
しばらく部屋には、画面を操作する小さな音だけが続いた。
「もう低活動状態に入る?」
「予定時刻まで十一分あります」
「じゃあ、まだ起きてるんだ」
「はい」
視線を端末へ戻す。
気づけば、十一分はとっくに過ぎていた。
顔を上げる。
アリスの瞳は閉じている。
呼吸模倣による胸元の上下は小さく、表情にも変化はない。
フードの縁から、銀白色の毛先だけが覗いていた。
長い袖の中へ両手を隠し、身体は背もたれへ深く預けられている。
理由は、まだ分からない。
それでもパーカーは脱がれていなかった。
俺は端末へ目を戻す。
ソファの方から聞こえる静かな呼吸だけが、六畳間に残っていた。
凪のパーカーは、アリスには大きすぎます。
袖は余る。
細かな作業にも不利。
戦闘服より機能的とは言えない。
それなのに。
「じゃあ、脱ぐ?」
「いいえ」
返事だけは、驚くほど早い。
理由はまだ説明できません。
それでも低活動状態へ入るまで、パーカーは脱がれませんでした。
次回。
ぶかぶかのパーカー姿の「白い死神」が、初めて恋愛映画を見ます。




