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第2話 補助資源キューブと、ジャンクフードの拒絶

アリスの主動力は、小型核融合炉。


つまり、食事をしなくても困りません。


そんな彼女の前に置かれたのは、熱々のピザ。


「食品を摂取する必要性は、ほぼありません」


それなら話は終わるはずなのに。


アリスのブロンズの瞳が、なぜか何度もピザへ戻ります。

 目を覚ましたとき、最初に視界へ入ったのは銀白色だった。


 寝ぼけたまま焦点を合わせる。


 ソファに、アリスがいる。


 昨夜は背筋を九十度に保ったまま座っていたはずなのに、今は背もたれへ浅く身体を預けていた。


 両手も太腿の上には揃えていない。


 右手は座面の脇。左手は膝の近く。


 閉じた瞼の下で表情は動かず、呼吸模倣による胸元の上下だけが、朝の薄い光の中で静かに続いている。


 低活動状態。


 本人は睡眠とは違うと言っていたが、こうして見る限り、眠っている若い女性と区別する方が難しい。


 俺がベッドの中で上体を起こすと、布団がわずかに擦れた。


 その音を拾ったらしい。


 アリスの瞼が開く。


「おはよう」


「おはようございます、凪」


「もう休止は終わってた?」


「六時四十三分に低活動状態を終了しています」


 枕元の時計を見る。


 七時十二分。


「じゃあ、三十分近くそこにいたの?」


「はい」


「何してたの?」


「凪の覚醒を待っていました」


 あまりに普通に返されて、俺の方が少し止まった。


「起こしてくれてもよかったのに」


「睡眠継続による回復効率が高いと判断しました。昨夜の平均入眠時間、眼球充血、作業時の瞬目頻度から――」


「朝一番から診断結果が容赦ないね」


「事実です」


「否定できないな」


 顔を洗って戻ると、アリスはもうDKへ移動していた。


 昨日は、何をするにも次の指示を待っていた。


 けれど今朝は、俺が声を掛けるより先に動いている。


 ほんの少し足を止めた俺を気にする様子もなく、アリスは持参した軍用ケースを開いた。


 取り出したのは、灰色の直方体。


 色を忘れた栄養バーみたいな見た目だった。


「朝ご飯?」


「いいえ。標準補助資源キューブです」


「食べるものではあるんだよね?」


「摂取はします。人工皮膚、内部潤滑系その他の補助資源として使用されます」


 一口齧る。


 一定の間隔で咀嚼し、飲み込む。


 食事というより、必要な物資を内部へ送り込んでいるように見えた。


「美味しい?」


 動きが止まる。


「規定成分を満たしています」


「成分じゃなくて、味の方」


「味覚分析では、塩味、微弱な甘味、複数のアミノ酸由来成分を検出しています」


「分析結果じゃなくてさ」


 言いかけて、一度考える。


 どう聞けば伝わるのか、俺にもまだよく分からない。


「もう一回食べたいとか、別にいらないとか。そういう方」


 アリスは手元の灰色の塊を見た。


「その情報を評価する必要性を確認できません」


「分かった」


 それ以上は聞かなかった。


 今のアリスにとって、食べ物は成分と機能で十分なのだろう。


 俺は冷蔵庫を開ける。


 水。


 コーラ。


 調味料。


 それから、賞味期限を確認するのが少し怖い卵が二個。


 一度閉めた。


 念のため、もう一度開ける。


 当然、何も増えていない。


「……朝、何食べよう」


「冷蔵庫内の食材を使用した調理が可能です」


「中身見た?」


「確認済みです」


「じゃあ、かなり難易度高くない?」


「卵二個、調味料、水があります」


「料理に対する信頼が重いなあ」


 アリスは否定しなかった。


 結局、俺の朝食はトースト一枚になった。



   *



 昼を過ぎるころには、昨夜の診断ログより空腹の方が強く意識へ上がるようになっていた。


 設備室から戻ると、アリスはソファへ座っている。


 背筋は、もう九十度ではない。


 ごく自然に背もたれへ身体を預けていた。


 昨日との違いを口にしそうになって、やめる。


「アリス、お昼は?」


「追加の補助資源摂取は必要ありません」


「俺は必要かな……」


 スマートフォンでデリバリーアプリを開いた。


 朝の卵は、まだ冷蔵庫に残っている。


 昼まで二個の卵へ本気を出せるほど、俺の生活能力は高くない。


 迷った末、いつもの店のピザを注文する。


 届いた箱をローテーブルへ置き、蓋を開けた。


 熱気と一緒に、焼けた生地とチーズの匂いが広がる。


 溶けたチーズの隙間から赤いトマトソースが覗き、少し焦げた縁には薄く油が光っていた。


 一切れ取ろうとしたところで、向かいにいるアリスの目が箱へ向く。


「食べる?」


「必要ありません」


 迷いのない返事だった。


「普通の食べ物も問題ないんだよね?」


「問題ありません。潜入任務を想定し、一般的な食品および飲料を処理する機構が搭載されています」


「食べたものは?」


「利用可能成分は内部循環、人工皮膚維持、修復、冷却等へ再利用されます。ただし主動力は核融合炉です」


「じゃあ、本当に潜入用なんだ」


「長期潜入時、一切の飲食を行わない個体は識別要因となり得ます」


「なるほど」


 一切れ持ち上げると、チーズが箱との間へ細く伸びた。


「必要かどうかじゃなくて」


 アリスがこちらを見る。


「食べてみたいなら、一口どう?」


「必要性を確認できません」


「分かった」


 そこで勧めるのをやめ、自分の分を齧った。


 熱いチーズの塩気へ、トマトソースの酸味が重なる。


 朝がトースト一枚だったせいか、いつもよりずっと美味い。


「やっぱりここの店、美味しいな」


 独り言のつもりだった。


 返事はない。


 一切れ目を半分ほど食べたところで、ふと気配を感じて顔を上げる。


 アリスは俺ではなく、箱の中を見ていた。


 視線が合う前に、正面へ戻る。


 俺も何も言わず、続きを食べた。


 二口。


 三口。


 二切れ目へ手を伸ばすころ、また目の端でわずかな動きを拾う。


 箱を見る。


 俺の手を見る。


 それから、何事もなかったように正面へ戻った。


 高性能な視覚系なら、わざわざ顔を向けなくても箱の状態くらい把握できるはずだ。


 一度断った答えを、こちらから塗り替えるつもりはなかった。


 俺はそのまま二切れ目を取る。


「凪」


「ん?」


「確認があります」


 箱の上で手を止めた。


「先ほどの提案は、現在も有効ですか」


「食べてみるって話?」


「はい」


「もちろん。アリスが食べたいなら」


 その言葉のあと、わずかな間が空いた。


「一口分の検証を希望します」


「分かった」


 箱を彼女の側へ向ける。


 アリスが選んだのは、チーズとトマトだけのシンプルな一切れだった。


 耳の部分を持ち上げ、表面へ目を走らせる。


「表面温度六十一・八度。内部――」


「アリス」


「はい」


「それ、毒物検査してる?」


「簡易成分分析です」


「ピザ一枚に軍用性能を全部使わなくても大丈夫だよ」


「安全確認は完了しました」


「それならよかった」


 本人はどこまでも真面目だった。


 人類軍最高性能機が、昼食のピザを前に成分分析を終えてから口を開く。


 淡い桜色の唇の向こうで、チーズが細く伸びた。


 一口。


 ゆっくり咀嚼する。


 俺まで黙って、その続きを待っていた。


「どう?」


「塩分濃度が高すぎます。脂質含有量も過剰です」


「まあ、ピザだからね」


「主動力への寄与も、ほぼ無視できます」


「そこは最初から期待してないかな」


 予想通りの答えだった。


 自分のピザへ戻りかけて、まだ一つ聞いていないことに気づく。


「味は?」


「味覚センサーは正常です」


「それじゃなくて」


「チーズ由来の塩味、脂肪分、トマトソースの酸味と糖分を――」


「アリス」


 説明が止まった。


「美味しいとか、美味しくないとか。そういう方」


 すぐには返事が来ない。


「評価基準が明確ではありません」


「じゃあ、今は分からなくてもいいんじゃない?」


「判定を保留してよいのですか」


「食べ物の感想に締め切りはないよ」


 アリスは手元のピザを見る。


 一口だけ欠けた三角形。


「摂取継続は必要ですか」


「必要はないよ」


「検証に必要な試料量は十分です」


「なら、そこで終わっても大丈夫」


 返事はなかった。


 俺も続きを促さず、自分の分へ戻る。


 アリスの手には、まだ一切れ目が残っていた。


 しばらくして、もう一口。


 今度は何も言わない。


 俺は見ていないふりをして食べ続ける。


 さらに一口。


 気づけば、彼女の手から一枚目がなくなっていた。


 箱には、まだ何切れか残っている。


 俺が端の一枚へ手を伸ばしかけた、その直前。


 白い指が、別の一切れを取った。


 俺の手が箱の上で止まる。


 アリスは二枚目を持ったまま、こちらを見る。


「追加検証です」


「うん」


 否定も、訂正もしなかった。


 ただ、箱を少しだけアリスの方へ寄せる。


 彼女は二枚目へ口をつけた。


 今度は、温度も成分も口にしない。


 次の一口までの時間だけが、一枚目より短かった。

一口で検証は終わったはずでした。


それでもアリスは、もう一口。


さらにもう一口。


そして一枚目を食べ終えると、凪より先に二枚目へ手を伸ばします。


「追加検証です」


まだ「美味しい」も「食べたい」も、うまく言えないアリス。


けれど二枚目の次の一口は、一枚目より少しだけ早くなっていました。


次回。


今度は、最強の戦闘服よりずっと性能の低い――凪のぶかぶかのパーカーです。

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