第1話 極秘AIと、四畳半の特注サーバー
十二発、十二命中。
人類軍最高性能の完全人型戦闘アンドロイド――アリス。
戦場では「白い死神」と恐れられる彼女が、俺の古びた一DKで暮らすことになった。
敵を倒すなら、一瞬で最適解を出せる。
なのに――。
「アリスも座ったら?」
「命令ですか」
ソファに座ることさえ、自分では決められない。
そんな彼女との同居が、今夜から始まる。
十二体目の標的が床へ沈んだとき、演習場にはまだ銃声の残響が残っていた。
乾いた音が高い天井へ跳ね返り、少しずつ薄れていく。その中心で、アリスだけが最初から何も起きていなかったように立っている。
急停止した身体に遅れて、銀白色のボブがひと房だけ揺れた。
百五十八センチの細身の身体を包んでいるのは、黒に近いチャコールグレーの戦闘服だった。巨大な装甲も、兵器であることを誇示するような派手な意匠もない。
街ですれ違えば、少し目を引く二十歳くらいの女性にしか見えないだろう。
ほんの少し前、その身体が十二体の人型標的を、一発も外さず制圧したのでなければ。
「全標的、無力化を確認しました」
振り返った瞳へ演習場の照明が入り、深い琥珀色の奥に銅色が浮かぶ。
機械的な発光はない。瞬きも、発声に合わせた呼吸模倣も自然だった。
観測ブースの軍人たちは見慣れているはずなのに、すぐには誰も口を開かなかった。
人類軍最高性能の完全人型戦闘アンドロイド。
軍内での通称は――白い死神。
本人へその呼び名について聞いても、たぶん「呼称による任務遂行能力への影響はありません」とでも答えるのだろう。
俺は端末の射撃ログを指で送った。
十二発、十二命中。
各部出力、照準補正、反応速度。表示されている数値に異常はない。
数字だけなら、いつものアリスだった。
それでも、最後の一発だけが引っかかる。
射撃から回避動作へ移る直前、右肩がほんのわずかに沈んでいた。
見間違いで済ませられる程度の差だ。
ログを戻し、同じ瞬間をもう一度再生する。今度は映像より先に、耳が違和感を拾った。
金属が擦れた音でも、部品が割れた音でもない。
布の奥で細い弦を弱く弾いたような、わずかなずれが一瞬だけ混じっている。
「終了して構いませんか」
声に顔を上げると、アリスがこちらを見ていた。
「うん。ただ、その前に一つ」
端末と彼女の右肩を見比べる。
「アリス、右肩だけ少し反応が遅れてるね」
隣でログを確認していた整備主任が眉を寄せた。
「遅れてる?」
「ほんの少しです」
「数値には出てないぞ。今ので分かるのか?」
「いつもと違ったので」
波形を拡大する。
そこでようやく差が見えた。
右肩の人工筋繊維群。その一部だけ、駆動開始がわずかに遅れている。
〇・〇三秒にも満たない。
「……よく拾ったな」
「長く見てますから」
アリスが自分の右肩へ目を落とす。
「右肩駆動系の自己診断を開始します」
「あとで俺も見るよ。今は無理に動かさなくて大丈夫」
「現時点では、運用制限を必要とする値ではありません」
「それは分かってる。でも、大きくなる前に見た方が楽だから」
アリスはすぐには答えなかった。
戦闘中なら長すぎるほどの間を置いてから、
「了解しました」
と返してくる。
声はいつも通り平坦だった。
それでも、俺の言葉を一度余計に処理してから返したように聞こえた。
*
調整台へ腰掛けてもらい、保守手順に従って右肩部分の戦闘服を規定範囲まで開く。
「肩、触ってもいい?」
「許可します」
返事を聞いてから、露出した肩へ指を置いた。
その瞬間、頭の中にあった「機体」という認識を、指先から入ってきた感触が一度だけ追い越した。
柔らかい。
高性能バイオシリコン製の人工皮膚は、人肌に近い温度と湿度を保っている。軽く押せば自然に沈み、その奥に、人間なら耐えられない出力を生み出す高密度人工筋繊維が収まっているとは思えない。
普段なら、異音の位置、張力、負荷分散の順に意識が動く。
今日は、その前に皮膚の温度を拾ってしまった。
「凪」
「ん?」
「手が停止しています」
言われて初めて、同じ場所へ指を置いたままだったことに気づく。
「あ、ごめん。今見る」
端末へ目を落とし、仕事へ意識を戻した。
人工筋繊維の張力値を追っていくと、肩甲部に近い一群だけ負荷配分がわずかに偏っている。
損傷ではない。
戦闘動作の学習が積み重なったことで、補正値が少し寄っているらしい。
「見つけた。壊れてはいないよ。少しだけ戻すね」
「許可します」
「違和感があったら教えて」
「了解しました」
補正値を動かすたび、アリスが右腕を上げ、回し、止める。最後は演習時と同じ速度域まで上げてもらった。
さっきまであった小さな引っかかりは、もう感じない。
「どう?」
「自己診断値は正常範囲です」
「こっちでも問題なさそう」
「軍規格上の確認項目と一致しますか」
「最終的にはね。途中に俺の感覚がかなり混ざってるけど」
「非標準手順です」
「そうとも言う」
アリスは無表情のまま俺を見る。
ぱちり、と一度だけ瞬いた。
冗談が通じたのか。それとも、ただの生体模倣動作なのか。
数値ならいくらでも読めるのに、こういうものだけはまだ読めなかった。
*
基地を出たころには、夜九時を過ぎていた。
環境適応と対人適応の長期試験。
その外部調整担当として、今日からアリスを俺の自宅へ滞在させることになっている。
承認も、機密管理の手続きも済んでいた。
それでも、人類軍最高性能機と並んで古びたアパートの階段を上る光景には、どうにも現実味がない。
「ここ」
玄関を開け、照明を点ける。
俺の住まいは古い一DKだ。
六畳ほどの居室にはベッドと二人掛けのソファ、ローテーブル。DKには小さなキッチンと、食卓代わりの狭いカウンターがある。
広くもなければ、綺麗とも言いにくい。
アリスの目が室内を一巡し、床の隅で止まった。
「未整理物を複数確認しました」
「最初にそこ?」
「視界内に存在します」
置きっぱなしだった上着を拾う。
「一応、仕事はできるんだけどね」
「生活環境の整理能力とは別項目だと推定します」
「正しいけど、ちょっと傷つくな」
返事はない。
居室の奥には、元々は納戸兼物置として区切られていた四畳半ほどの区画がある。
今は管理会社と軍の承認を取ったうえで、設備室へ改装済みだった。
認証端末をかざすと、電子錠が低く鳴る。
扉の向こうだけは、同じ家とは思えない。
壁一面のラックには軍監査済みの特注サーバー。解析端末、調整機材、工具、接続ユニット、予備部品まで用途別に収め、床下には専用配線を通してある。
中へ入ったアリスは、居室より長く周囲を見回した。
「居住区画との差異が大きいです」
「言い方を選べば、こっちにだけ全力を出してる」
「居住区画にも同等の整理を推奨します」
「検討します」
「実行ではなく?」
「……検討します」
ここだけは勝てる気がしない。
「軍から見れば、ただの古い一DKじゃないよ。暗号回線から設備室の鍵まで全部認証済み。玄関と窓にもセンサーがあるし、アクセスログも監査されてる」
「事前資料と一致しています」
「ちゃんと読んでたんだね」
「滞在環境の事前確認は必要です」
「俺よりこの家に詳しくなりそうだな……」
アリスが調整椅子へ座る。
接続ケーブルを繋ぎ、診断を開始した。
人工筋肉系、熱循環、高強度内部骨格、感覚系、安全系。
項目が順番に緑へ変わっていく。
胸郭深部の完全封止型小型核融合炉も、出力、遮蔽、安全機構とも正常だった。
物々しい診断表示の向こうに、百五十八センチの身体が静かに座っている。
この落差には、まだ慣れそうにない。
「右肩も問題なし。じゃあ今日は――」
診断を終了しかけた指が止まった。
通常のシステムツリーから外れた位置に、見覚えのない領域がある。
「……何だ、これ」
詳細照会をかける。
返ってきたのは、一行だけだった。
PROTECTED AREA
権限照合。
開かない。
直接書き込み権限を確認すると、今度は別の表示が出る。
DIRECT WRITE:DENIED
そこで手を止めた。
「俺にも触れない領域か」
「現在の認証情報に、該当領域への直接編集権限は含まれていません」
「アリス自身は?」
「詳細アクセス権限を保持していません」
俺は二行の表示を見つめる。
気にはなる。
けれど、権限がないという事実は、解析していい理由にはならない。
周辺状態だけログへ保存し、追加解析の項目からカーソルを外した。
「追加解析を実施しますか」
「しないよ」
「理由を確認します」
「ここまで権限を切ってあるなら、勝手に開ける場所じゃないと思う。必要になったら正規の手順で確認しよう」
「異常として報告しますか」
「異常かどうかも、まだ分からないからね。存在だけ記録しておく」
「了解しました」
診断画面を閉じる。
それでも、あの二行だけはしばらく頭の隅に残った。
*
設備室を出たアリスは、居室の隅へ移動した。
そのまま立っている。
俺がソファでログを整理しているあいだも、姿勢はほとんど変わらなかった。
「アリス」
「はい」
「ずっとそこにいるの?」
「待機しています」
「何を待ってるの?」
「次の指示を」
そこでようやく意味が分かった。
立っていたいわけではないし、座りたくないわけでもない。
何をするべきか設定されていないから、待機している。
「今は任務時間じゃないよね」
「はい」
「なら、待機しなくてもいいんじゃないかな」
「行動目的が設定されていません」
俺は隣の座面を見る。
座らせるだけなら、命令すれば終わる。
でも、それでは基地にいるときと何も変わらない。
空いている場所を軽く叩いた。
「アリスも座ったら?」
「命令ですか」
「いや。座りたかったら座っていいよ」
アリスの目が、俺からソファへ移る。
「着座する必要性を確認できません」
「うん。必要はないね」
「では、立位待機を継続します」
「それでも大丈夫」
端末へ目を戻した。
座った方が楽だとか、普通はそうするとか、言えることはいくらでもある。
けれど、口にはしなかった。
しばらくして、かすかな衣擦れが聞こえる。
顔を上げると、アリスがソファの前まで来ていた。
「着座行動を試行します」
「うん」
「環境適応確認の一環です」
「分かった」
そこは大事らしい。
アリスが腰を下ろす。
背筋は九十度、膝も九十度。両手を太腿へ揃え、目は正面へ向いたまま。
十二体の標的を瞬時に制圧した人類軍最高性能機が、面接開始を待つ学生より真面目にソファへ座っている。
「……座り心地、どう?」
「軟質素材による沈み込みを確認しました」
「そういう感想になるんだ」
「不適切ですか」
「いや」
少し迷い、そのまま口にする。
「アリスらしいなと思って」
「評価基準が不明です」
「俺も説明できないかな」
俺は背もたれへ身体を預けた。
隣では、まだ完璧な直角が保たれている。
「そういえば、アリスって夜はどうするの?」
「指定時刻に低活動状態へ移行します」
「寝るってこと?」
「自己診断および学習データ整理を伴う休止です」
「だいたい寝るってことでいい?」
「定義上は異なります」
「厳密だね」
「ただし、人間の睡眠と外形上の共通点は存在します」
「じゃあ、ベッド使う?」
「指定はありますか」
「指定じゃなくて。使いたかったら使っていいよ」
アリスの動きが止まる。
戦場では〇・〇三秒にも満たないずれさえ問題になるのに、こういう問いにだけは時間がかかる。
俺は返事を求めず、ソファの背へ頭を預けた。
やがて、視界の端で手が動いた。
太腿の上へ揃えられていた両手が、ほんの少しだけ位置を変える。
続いて、背中がゆっくり後ろへ傾いていった。
背もたれへ触れる寸前で止まる。
それから――ほんのわずかに、身体を預けた。
俺は何も言わなかった。
アリスもこちらを見ない。
ただ、さっきまで九十度だった背中だけが、もう九十度ではなかった。
お読みいただきありがとうございます。
戦闘なら迷わないアリスが、「座りたかったらでいい」と言われただけで動けなくなる。
けれど最後。
九十度だった背中を、ほんの少しだけ自分から背もたれへ預けました。
誰にも命令されずに選んだ、ごく小さな変化です。
次回。
食事を必要としないアリスの前に置かれるのは、焼きたてのピザ。
必要のないものを、彼女は自分から選べるのでしょうか。




