第10話 休日の私服と、離さない手
任務なら、一瞬で最適解を出せるアリス。
ところが休日の朝。
三着の私服を前に、完全に止まっています。
性能差が、ほとんどないからです。
そこで凪が教えたのは、別の選び方。
「着たい方で選んでもいいんじゃない?」
そしてアリスは初めて――「好ましい」という理由で服を選びます。
休日の朝、アリスはベッド脇に三着の服を並べたまま、しばらく動かなくなっていた。
黒の細身のパンツに薄手のニット。
ネイビーのシャツワンピース。
淡いベージュのカーディガンと黒のパンツ。
どれも街中へ出るには十分自然で、動きやすさにも大きな差はない。
それなのに、アリスの視線だけが三着のあいだを何度も往復している。
「決まらない?」
「機能差が小さすぎます」
「機能で選んでるの?」
「耐候性、可動域、収納性、視認性、周囲への擬態適合率を比較しています」
「休日の服だよ?」
「休日であることは認識しています」
「じゃあ今日は、機能じゃなくて、着たい方で選んでもいいんじゃない?」
アリスがこちらを見る。
「着たい方」
「うん」
「選択基準が不明瞭です」
「そうだね。でも、そういう選び方もあるよ」
ベッドの端へ腰を下ろし、俺も三着を眺めた。
どれを着ても似合いそうだった。
だからこそ、ここで俺が一着を指せば、それはアリスの選択ではなくなる気がする。
何も言わずに待つ。
アリスは黒のニットへ触れ、次にシャツワンピースの裾を指でつまんだ。
最後に、ベージュのカーディガンを持ち上げる。
「これは保温性能が最も低いです」
「今日はそんなに寒くないよ」
「収納容量も最低です」
「ポケット少ないね」
「戦闘行動にも不向きです」
「今日は戦わない予定かな」
「現時点では、その可能性が高いです」
「じゃあ、機能以外で気になるところは?」
指先が、柔らかな生地を一度だけ撫でた。
「……色」
「色?」
「はい」
「嫌い?」
「いいえ」
アリスはカーディガンを見たまま黙る。
やがて、
「好ましいです」
と答えた。
思わず口元が緩む。
「じゃあ、それにする?」
「はい」
今度は迷わなかった。
カーディガンを胸元へ抱え、残りの二着を丁寧に畳む。
「着替えてきます」
「うん」
洗面所へ向かう背中を見送りながら、さっきの一言だけが耳に残った。
*
扉が開いた。
出てきたアリスを見て、返事が少し遅れる。
淡いベージュのカーディガンの下に白いカットソー。
黒の細身のパンツに、低いショートブーツ。
戦闘服でも、俺のパーカーでもない。
それだけで、いつもとはずいぶん違って見えた。
「……どうですか」
「似合ってる」
「回答まで一・六秒を要しました」
「測ってたんだ」
「通常より遅延しています。異常ですか」
「いや。ちゃんと見てた」
「先ほども同一評価でした」
「今は、着たところを見て言ったから」
アリスの目が、俺の顔を観察するように動く。
「視線移動も通常と異なりました」
「そこまで分析しなくて大丈夫だよ」
「凪が不快なら停止します」
「不快じゃないよ」
「では、継続します」
「そこは続けるんだ」
思わず笑う。
アリスは首をわずかに傾けた。
「他に評価はありますか」
「他に?」
「はい」
言葉が詰まる。
可愛い。
たぶん、いちばん近いのはそれだった。
駆動音の違いなら、聞いた瞬間に候補をいくつも出せる。
なのに、目の前のアリスへ向ける言葉になると、急に精度が落ちる。
「……その服、自分で選んでよかったと思う」
少し逃げた答えだった。
アリスは自分の袖口へ目を落とした。
「私も、現時点では変更を希望しません」
「うん」
それ以上は言わなかった。
玄関へ向かう途中でも、口にしなかった一言だけが妙に残った。
*
昼前の駅前は、人が多かった。
アリスは俺の半歩横を歩きながら、店の看板や行き交う人へ静かに視線を送っている。
基地にいるときほど露骨な警戒姿勢ではない。
それでも、周囲を把握する癖までは消えないらしい。
「何か見たいものある?」
「特定の目的地はありません」
「じゃあ、気になる店があったら入ろうか」
「凪が選択してください」
「今日はアリスが選んでもいいよ」
歩幅がわずかに落ちた。
急かさず隣を歩く。
雑貨店の前まで来たところで、アリスが足を止めた。
「ここを確認します」
「うん。入ろう」
店内には、小さな食器やクッション、文房具が狭い棚に並んでいた。
柔らかな照明が木目の床へ落ち、どこか甘い木の香りがする。
アリスは棚を一つずつ見ていく。
何かを手に取っては戻す。
いつもなら先に出てきそうな必要性の確認もなく、立ち止まる時間だけが少しずつ長くなっていった。
食器の棚で、青灰色のマグカップを手に取る。
そのまま動かない。
「それ、気になる?」
「形状が安定しています」
「形だけ?」
カップを少し傾ける。
「……色も、好ましいです」
「いいね」
「購入理由として十分ですか」
「アリスが持って帰りたいなら、十分じゃないかな」
「持って帰りたい」
言った本人が、そこで止まった。
俺も何も言わない。
アリスは手の中のマグカップを見つめる。
「……訂正の必要はありません」
「うん」
それだけ返した。
アリスは棚へ戻さず、そのまま籠へ入れる。
たった一つのマグカップだった。
けれど、籠の底へ置かれた音が、なぜか妙にはっきり耳へ残った。
*
店を出ると、午後の風がビルの間を抜けた。
カーディガンの裾がわずかに揺れる。
買ったばかりのマグカップが入った紙袋は、アリスの左手にあった。
「寒くない?」
「表面温度は正常です」
「じゃあ、その服どう?」
「どう、とは?」
「自分で選んで着てみた感想」
アリスは袖口へ目を落とす。
「可動域に問題はありません」
「うん」
「重量も軽量です」
「機能じゃなくて」
こちらを見る。
「凪は別の評価を要求していますか」
「要求ってほどじゃないよ。ただ、選んでよかったと思ってるのかなって」
信号が赤になり、二人で立ち止まる。
向かい側のガラスに、俺とアリスの姿が小さく映っていた。
アリスも、それを見ている。
「……はい」
短い答えだった。
「この服を選んでよかったと思います」
今度は俺の方が少し黙った。
「それならよかった」
「はい」
青信号に変わる。
人の流れが動き出した。
朝、ベッドの前で三着を比べていたときより、そのカーディガンはずっとアリス自身のものに見えた。
交差点の途中で、人の流れが急に密になる。
袖口へ指先が触れた。
見ると、アリスが俺の袖をつまんでいる。
「混んできたね」
「対象ロストの可能性が上昇しています」
「うん」
そのまま人波を抜ける。
流れが緩くなると、袖をつまんでいた指は離れた。
俺も何も言わずに歩いた。
*
帰りに寄った商業施設のエレベーターは、途中から俺たち二人だけになった。
扉が閉まる。
階数表示が一つずつ増えていく。
右手の甲へ、何かが触れた。
アリスの指先だった。
一度触れ、すぐ離れる。
けれど腕は元の位置まで戻らない。
数センチだけ空けたところで止まった。
「アリス?」
「はい」
「どうした?」
「……確認中です」
「何を?」
答えの代わりに、指先がもう一度近づいた。
今度は、さっきよりはっきり手の甲へ触れる。
人はいない。
はぐれる心配もない。
アリスがそれを分かっていないはずはなかった。
少し迷ってから、右手を開く。
「手、繋ぎたい?」
アリスの目が俺の顔へ上がった。
低い駆動音だけが続く。
「……はい」
胸の奥が、小さく熱を持った。
「じゃあ、どうぞ」
開いた掌をそのままにする。
アリスの指が触れる。
今度は迷わず重なった。
人混みの中で位置を確認するときより、ずっと弱い力だった。
それでも、はっきり握っている。
「もう、はぐれないよ?」
「認識しています」
「うん」
それ以上は聞かなかった。
本人が自分から「はい」と言った。
今は、それで十分だった。
しばらくして、アリスが繋いだ手へ視線を落とす。
「……接触を希望しました」
「うん」
エレベーターの到着音が鳴る。
扉が開いた。
半歩ぶん出遅れてから、二人で歩き出す。
手は、そのままだった。
*
帰宅して玄関の鍵を閉める。
靴を脱ごうとして、右手が塞がったままだと気づいた。
「アリス」
「はい」
「靴、脱ぎにくくない?」
「若干、効率が低下しています」
「一回離す?」
アリスは繋いだ手を見る。
それから玄関へ視線を巡らせた。
「室内です」
「うん」
「対象ロストの可能性はありません」
「そうだね」
指がほどける。
掌から温度が消えた。
思ったより、その変化がはっきり分かった。
靴紐へ目を落とし、片方を脱ぐ。
もう片方へ手を伸ばしたところで、空いた右手へ指先が触れた。
顔を上げる。
「……アリス?」
「はい」
今度は迷いがなかった。
アリスの指が俺の指の間へ入り、そのまま重なる。
「ここなら、はぐれないよ」
「認識しています」
「じゃあ……また繋ぐ?」
「はい」
指に、少しだけ力が加わる。
「それでも、接触を希望します」
胸の奥が、また小さく熱を持った。
「分かった」
俺も指を曲げる。
靴を脱ぐには少し不便だった。
玄関を上がるときには、もっと不便だった。
それでも、今度はどちらからも手を離さなかった。
機能ではなく、「好ましい」で選んだ服。
そしてもう一つ。
今回アリスが選んだのは、凪の手でした。
帰宅すれば、はぐれる心配はありません。
「ここなら、はぐれないよ」
「認識しています」
それでも、もう一度指を絡める。
「それでも、接触を希望します」
靴を脱ぐには少し不便。
それでも今度は、どちらからも手を離しませんでした。
次回。
凪が別の女性と楽しそうに話しているだけで――アリスの胸に、初めての不快感が生まれます。




