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第11話 ヤキモチという名前を、まだ知らない

基地では、いつもの「白い死神」。


そんなアリスの前で、凪が女性オペレーターと笑いながら話します。


ただの仕事上の会話。


危険も、問題もありません。


――なのに。


その瞬間から。


アリスの胸部に、これまで分類されたことのない不快反応が発生します。

 基地へ戻ったアリスは、いつものアリスだった。


 黒からチャコールへ落ちる高機能戦闘服。任務時の姿勢。揺れの少ない視線。


 家で俺のパーカーの袖へ指先を隠し、必要もないのに手を繋いでいた姿は、ここにはないように見える。


 同じ個体だと分かっているのに、その切り替わりを見るたび少しだけ不思議だった。


 最近は、特に。


 俺しか知らない方のアリスが、少しずつ増えている。


「右肩、昨日より滑らかだね」


「規定値内です」


「うん。駆動音も戻ってる」


 端末へ記録を入れていると、隣のコンソールから声が飛んできた。


「凪さん、相変わらず耳で診断してるんですか?」


 振り向けば、今日の訓練管制を担当する女性オペレーターが、タブレットを抱えたまま笑っている。


「最初は耳の方が早いこともあるんです」


「機材の立場がないですね」


「最後はちゃんと数値も見ますよ」


「最後なんだ」


 肩をすくめると、向こうも笑った。


 何度か一緒に仕事をしている相手だ。


 訓練開始までの数分を埋める程度の雑談で、俺も特に意識せず返していた。


「そういえば、前の報告書」


「何か抜けてました?」


「抜けてはいないですけど、誤字が一個ありました」


「珍しい」


「自分で言います?」


「仕事の文章は、わりとちゃんとしてるつもりですよ」


「仕事は、ですね」


「そこ強調します?」


 また笑われ、つられて口元が緩んだところで、視線を感じた。


 待機位置のアリスが、こちらを見ている。


「アリス、どうした?」


「待機しています」


「もう始められる?」


「いつでも可能です」


 返事は普段と変わらない。


 ただ、一度だけオペレーターへ向いた視線が、俺へ戻るまでわずかに遅れた。


 それ以上の変化はなかった。



   *



 訓練が始まれば、そんな小さな違和感を考える暇はなくなった。


 仮想敵の位置が更新される。


 ほとんど同時に、アリスが床を蹴った。


 細身の身体が一気に間合いを消し、俺の目が追いつくより先に三体の標的へ打撃が入る。


 管制画面に制圧判定が並んだ。


 速い。


 何度見ても、結果の方が理解より先に来る。


「第一系列、全標的制圧」


 オペレーターの声を聞きながら、俺は右肩の駆動波形へ視線を落とす。


 左右差なし。


 踏み込みも安定。


 昨日まで気になっていた遅延も消えている。


 二系列目。


 近接標的が展開され、一体目の懐へ潜り込んだアリスの右腕が閃いた。


 衝撃値が表示された瞬間、端末を操作していた指が止まる。


「……あれ」


「異常ですか?」


 横から画面を覗き込まれる。


「異常ってほどじゃないです。出力が少し高い」


「どのくらい?」


「同条件平均より〇・八パーセント」


「安全域ですね」


「十分に」


 標的への損傷も想定内。


 姿勢制御にも乱れはない。


 それでも、アリスの〇・八は気になった。


 人間なら誤差で済ませる数字でも、同一条件をほとんど同じ精度で再現するアリスなら、何か理由がある。


 続く二体は普段通りだった。


 けれど次の系列でも、最初の一撃だけ〇・六パーセント高い。


「アリス、一度止まれる?」


「可能です」


 動きが即座に止まり、こちらを向く。


「何か違和感ある?」


「機体機能に異常はありません」


「内部状態は?」


 返事の前に、わずかな沈黙があった。


「胸部周辺に、未分類の不快反応があります」


 端末から顔を上げる。


「痛い?」


「いいえ」


「熱循環は?」


「正常です。主動力、安全系にも異常はありません」


「訓練は続けたい?」


「継続を希望します」


 判断力にも、出力制御にも問題はない。


 本人が続けたいと言うなら、止める理由もなかった。


「分かった。出力はこっちでも見てるね」


「了解しました」


 再開後、数値は基準へ戻った。


 最後まで安全域を外れず、終了後のログにも駆動系や熱循環の異常は出ていない。


 残ったのは、さっきの未分類反応だけだった。


「珍しいですね」


 隣でオペレーターが言った。


「何がです?」


「アリスが訓練中に、ああいう内部状態を申告するの」


「最近、自分で拾う反応が増えてるんです」


「学習の影響ですか?」


「たぶん。ただ、本人にもまだ分類できないものが多くて」


「難しいですね」


「俺もそう思います」


 苦笑すると、オペレーターも小さく笑った。


 その向こうで、アリスがこちらを見ていた。


 俺と目が合っても、今度はすぐには逸れない。


 訓練前に感じたものと、よく似た視線だった。



   *



 帰宅しても、アリスはいつもより静かだった。


 戦闘服から俺のパーカーへ着替え、ソファの定位置には座っている。


 それでも映画を選ぶ様子はなく、ローテーブルのリモコンにも触れない。


 窓の外では細い雨が続き、ガラスを打つ音が暖房の送風へ紛れていた。


 俺は設備室で訓練ログを開き直したものの、数値より先に、ソファで黙っているアリスの方が気になる。


 画面には訓練開始時刻と出力変化が秒単位で並んでいた。


 〇・八。


 〇・六。


 どちらも安全域。


 視線を横へ移す。


 長い袖から覗いた指先が、膝の上で少し内側へ曲がっていた。


 数字より、その方が気になった。


「アリス」


「はい」


「今日の反応、まだ残ってる?」


「あります」


 隣へ腰を下ろす。


 アリスは自分の胸元へ手を置いた。


「痛みではないんだよね」


「はい。痛覚とは異なります」


「他の異常は?」


「確認できません」


「じゃあ、不快っていうのが今はいちばん近い?」


「現時点では、その分類が適切です」


「いつから?」


 すぐには答えなかった。


 何かを照合するように視線を落とし、やがて俺を見る。


「凪が、訓練管制担当者と会話を開始した後です」


「今日のオペレーターの人?」


「はい」


「強くなったタイミングは分かる?」


「会話開始から十一・四秒後に初回反応を確認しました」


「細かいね」


「凪が笑った時点で、反応値が上昇しています」


 昼間、待機位置から向けられていた視線を思い出す。


「その人が嫌い?」


「人物個体への否定的評価はありません」


「話してた内容が嫌だった?」


「会話内容にも問題は確認できません」


「俺が笑ったことは?」


「反応上昇との相関があります」


 そこまで聞けば、頭に浮かぶ言葉はあった。


 恋愛映画なら、たぶん簡単に名前をつける。


 でも、それを俺の口から渡したくはなかった。


「これは、何ですか」


 まっすぐ聞かれる。


「俺にも断定はできないかな」


「候補はありますか」


「あるよ」


「提示してください」


「今はやめておく」


「理由を要求します」


「俺が名前を言ったら、アリスが自分の反応より、その言葉の方を先に参照するかもしれないから」


「教師データとして処理する可能性があります」


「うん」


 アリスの視線が胸元へ落ちる。


「不快反応は、異常ではないのですか」


「機体の異常は出てない」


「では、修正対象ではありませんか」


「今のところは、そう思う」


「不快でも?」


「嫌なら原因は一緒に探すよ。でも、分からないものを、分からないっていう理由だけで消さなくてもいいんじゃないかな」


 胸元に置かれていた手が、ゆっくり膝へ戻る。


「未分類のまま保持します」


「うん」


 それでいい。


 少なくとも、今は。



   *



 しばらく、雨音だけが続いた。


 アリスは膝の上に置いた自分の手を見ている。


 俺も急かさない。


 やがて、右手が少しだけ動いた。


 二人の間へ。


 そこで止まる。


「アリス?」


「先ほどから、接触行動を選択候補として処理しています」


「手を繋ぐ?」


 アリスは俺の右手を見る。


「……はい」


 俺は掌を上へ向けて、ソファの上へ置いた。


 そこから先は動かない。


 長い袖から指先が出てくる。


 手の甲へ触れ、掌へ回り、そのまま指が重なった。


 握ったのは、アリスの方だった。


 手を繋ぐこと自体は、もう初めてではない。


 それでも、向こうから選ばれると少し意識する。


 しばらくして、アリスの肩からわずかに力が抜けた。


「変化ある?」


「不快反応が低下しています」


「少し楽になった?」


 数字ではなく聞く。


 アリスは繋いだ手へ視線を落とした。


「接触前より、状態は好ましいです」


「分かった」


「ただし、原因との因果関係は未確定です」


「そこはまだ分からないんだね」


「はい」


 俺も、それ以上は踏み込まなかった。


 原因を確定するためだけに、昼間と同じ状況を作る気にもならない。


 アリスが嫌だと思っているかもしれないものを、わざわざ再現する必要はない。


「凪」


「ん?」


「訓練管制担当者との会話を、今後停止しますか」


「しないよ」


 アリスがこちらを見る。


「仕事で必要な会話まで変えるつもりはない」


「はい」


「でも、アリスの反応を確認するためだけに、同じことをわざとやったりもしない」


「私の内部反応を理由に?」


「うん。ただし、何でもアリスに合わせるって意味じゃないよ」


「差異を説明してください」


「必要なことは必要なままやる。でも、必要もないのに、アリスが嫌そうなことを増やさない。それだけ」


 アリスは黙った。


 俺も答えを待たなかった。


 手を繋いだまま、背もたれへ身体を預ける。


 少しして、隣でも衣擦れの音がした。


 アリスの肩が、さっきより低い位置にある。


「凪」


「ん?」


「現在も、反応は残っています」


「うん」


「ですが、接触前より低値です」


「それならよかった」


 繋いだ手を見る。


「今は、どうしたい?」


 指が、わずかに握り直された。


「この状態の継続を希望します」


「分かった」


 俺も指を軽く曲げる。


 名前は、まだ決まらない。


 それでよかった。


 アリスが自分で分かるまで、今はこのままでいればいい。


 雨音が続く部屋で、繋いだ手だけは離れなかった。

凪が他の女性と話している。


それだけで生まれた、名前のない不快感。


凪は、その感情の答えを教えません。


アリス自身がいつか分かるまで待ちます。


代わりに差し出したのは、一つの提案。


「手、繋いでみる?」


アリスが自分から握ると、不快反応は少しだけ下がりました。


「今は、どうしたい?」


「この状態の継続を希望します」


名前はまだ分からなくても。


繋いだ手だけは、離れませんでした。


次回。


今度は凪が、風邪で倒れます。

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