第12話 チューナーの風邪と、触れる側の交代
朝。
凪が目を覚ますと、身体が重い。
喉が痛い。
熱もある。
そんなベッドの横には、すでにアリスが立っていました。
体温計。
水。
タオル。
加湿。
人類最強の戦闘アンドロイドによる、全力の看病が始まります。
朝、目を開けた瞬間から、身体が重かった。
喉の奥がひりつき、頭の芯には熱がこもっている。枕元の時計へ手を伸ばしたつもりが、腕は途中で止まり、指先だけが空を切った。
「凪」
すぐ近くから声がした。
視線だけ動かす。
ベッド脇にアリスが立っていた。
ぶかぶかのパーカーの袖から出た指先には体温計。枕元には水と新しいタオルが置かれ、カーテンも朝日が直接目へ入らない位置まで閉じられている。
普段なら、起きるころにはDKからコーヒーの匂いがしている。
今日は加湿器の低い音と、自分の呼吸ばかりがやけにはっきり聞こえた。
「おはよう」
「おはようございます。通常起床時刻から二時間十一分経過しています」
「そんなに寝たんだ」
「途中覚醒を三回確認しています」
「そこまで分かるの?」
「呼吸音と寝返り回数が平常値から逸脱していました」
声はいつも通りだった。
それでも、アリスの視線は俺の顔からほとんど動かない。
「体温を測定してください」
「うん」
起き上がろうとすると、視界がわずかに揺れた。
ベッドへ手をつく。
その動きを見ただけで、アリスが一歩近づく。
「起き上がる必要はありません」
「体温計、取ろうと思って」
「こちらにあります」
「あ、本当だ」
熱で頭まで鈍っているらしい。
差し出された体温計を受け取り、測定が終わるのを待つ。
いつもなら気にもならない短い時間が、今日は妙に長かった。
「三十八・二度」
「確認しました」
「結構あるね」
「本日の作業は中止してください」
「午前中に一件だけログを――」
「中止してください」
珍しく、言葉を重ねられた。
顔を上げる。
表情は変わらない。
「強めだね」
「凪の現在状態で高集中作業を実施する合理性を確認できません」
「それは正しいかな」
認めるしかなかった。
「じゃあ、今日は休む」
「はい」
短い返事だった。
それでも、さっきまで俺を見つめていた視線が少しだけ緩んだ。
*
次に目を覚ましたとき、DKから鍋の蓋が小さく鳴る音がしていた。
身体を起こしてみる。
熱はまだ残っているものの、朝ほど頭は重くない。
壁へ手を添えながらDKまで行くと、薄い湯気の向こうにアリスがいた。
鍋を見下ろしている。
横には米の袋と計量器、それから調味料が妙に几帳面な間隔で並んでいた。
「何してるの?」
アリスが振り向く。
「凪は休んでいてください」
「お粥?」
「はい」
「作ってくれてるんだ」
「発熱時の摂取食として、消化負荷が比較的低いものを選択しました」
「ありがとう」
鍋の中を覗く。
白い。
というより、水面の中に米が漂っていた。
「……かなり柔らかそうだね」
「米一に対し水十で調理しています」
「ああ。そっちか」
「問題がありますか」
「問題ってほどじゃないよ。俺は、もう少し米っぽい方が好きかな」
アリスの視線が鍋へ戻る。
「凪のお粥に対する嗜好データが不足していました」
「普通は持ってないよ、そんなデータ」
「想定した最適値ではありません」
「でも、食べられないわけじゃないでしょ?」
「はい」
「なら、今日はこれでいいよ」
アリスがこちらを見る。
「修正しませんか」
「今から米だけ固くはできないしね」
「次回は水分量を変更できます」
「うん。そのとき試そう」
「次回」
「できれば、風邪は引きたくないけど」
「再発確率はゼロではありません」
「そうなんだけどさ」
思わず笑う。
そのまま咳へ変わった。
アリスが鍋から離れる。
「座ってください」
「はい」
今日は反論するだけ損な気がしてきた。
椅子へ戻ると、アリスもすぐ鍋の前へ戻った。
しばらくして、湯気の立つ茶碗が目の前へ置かれる。
「いただきます」
一口食べる。
予想通り、かなり柔らかい。
けれど薄い出汁の香りと熱が、空っぽの胃へゆっくり落ちていくのは悪くなかった。
「どうですか」
「優しい味」
「水分量の過多を婉曲表現していますか」
「そこまで疑わなくても大丈夫だよ」
「正確な評価を希望します」
「じゃあ正直に言うと、ちょっと薄い。でも今は、これくらいがちょうどいい」
アリスは茶碗と俺の顔を交互に見る。
「次回は調整します」
「うん」
二口目を食べる。
今度はさっきより素直に喉を通った。
向かいでは、アリスが端末へ何かを入力している。
「何を記録してるの?」
「摂取状況です」
「完食率まで取る?」
「次回調理時に参照します」
「本当に次回がある前提なんだね」
「再発確率は――」
「ゼロじゃない。分かってる」
「はい」
同じやり取りを繰り返したのが少し可笑しくて、また笑った。
*
夕方には、熱は三十七度台まで下がっていた。
アリスは昼から何度か体温と水分摂取量を確認している。
俺が普段、アリスの駆動状態を見ているときと、立場が完全に逆だった。
「軍用センサーの使い方として、やっぱり贅沢だね」
「測定精度は用途によって低下しません」
「その返し、前にも聞いた気がする」
「同様の状況で同様の事実を提示しています」
「そうだった」
ベッドへ横になったまま笑う。
喉が少し痛んだ。
その直後、額へ冷たいものが触れる。
アリスの掌だった。
「冷たい」
「人工皮膚表面温度を三十二・八度まで低下させています」
「そんな細かく調整できるんだ」
「部位単位の熱制御は可能です」
柔らかな掌から、熱だけが静かに逃げていく。
冷却材よりずっと心地いい。
「どうですか」
「気持ちいいよ」
返事をすると、掌はそのまま残った。
額に触れる冷たさと、指先の柔らかさ。
朝から何度も眠ったはずなのに、目を閉じるとまた意識が沈みそうになる。
「凪」
「ん?」
「心拍数が低下しています」
「寝そうだからかな」
「可能性があります」
「アリスの手が気持ちいいのもあると思う」
額の上で、掌がわずかに止まった。
「……評価を記録します」
「そこも記録するんだ」
「次回の対応へ反映できます」
「看病まで最適化するんだね」
「改善可能な項目は保持します」
いかにもアリスらしい。
笑いかけたところで咳が出た。
身体を起こそうとすると、それより先にもう片方の手が背中へ添えられる。
支えるだけで、強く引き寄せたりはしない。
「水を飲んでください」
「うん」
差し出されたグラスから一口飲む。
咳が落ち着くと、背中にあった手はすぐ離れた。
代わりに、額へ冷たい掌が戻ってくる。
その動きがあまりに自然で、触れられていることを意識するまで少し遅れた。
いつもは、俺が触れる側だ。
人工筋繊維の張りを確かめ、関節の応答を見て、異常があれば原因を探す。
今は、何も判断しなくていい。
ただ横になって、アリスへ任せていればいい。
それが思っていた以上に楽だった。
目を閉じたまま、額にある掌の位置を感じる。
もう少し、そのままでいてほしい。
そんな考えが浮かんだ。
熱のせいにして流そうとして、やめた。
たぶん、それだけではなかった。
*
夜、もう一度測ると、体温は三十六・九度まで下がっていた。
「ほぼ戻ったね」
「凪の平常平均より〇・三度高値ですが、継続的な冷却は不要です」
「じゃあ、大丈夫そうだね」
「はい」
額にあったアリスの手が離れていく。
冷たさが消えた場所だけが、妙にはっきり分かった。
気づけば、俺の指先がアリスの手首へ触れていた。
強く掴んではいない。
ただ、離れていく前に触れただけだった。
アリスが俺を見る。
「凪?」
「あ……ごめん」
反射的に離しかける。
そこで止まった。
熱は下がった。
冷却もいらない。
状態監視なら、室内センサーだけでも足りる。
手を留める理由は、もうなかった。
それでも、離してほしくなかった。
「もう少しだけ、そのままでいてもらっていい?」
「凪が希望するのですか」
「うん」
言葉にすると、思ったより照れた。
それでも、誤魔化さなかった。
「アリスの手がいいかな」
アリスは、手首へ触れている俺の指を見た。
「……了解しました」
ベッド脇へ座り直す。
今度は額ではなく、俺の掌へ手を重ねた。
さっきまで冷却していた人工皮膚が、少しずついつもの温度へ戻っていく。
「温度、戻した?」
「冷却目的ではないため、通常値へ復帰させました」
「うん」
それでも、手は離れない。
俺も指を曲げ、弱い力で握り返す。
アリスの視線が重なった手へ落ちた。
「不快ではありませんか」
「全然」
「心拍数が上昇しています」
「そこは見なくていいかな」
「異常値ではありません」
「なら、大丈夫」
口元が緩む。
機械の数値なら、変化があれば原因を探す。
自分の心拍だけは、今夜くらい放っておいてもよかった。
*
照明を落としても、アリスはベッド脇の椅子にいた。
「もう寝ても大丈夫だよ」
「夜間状態監視を継続します」
「それ、まだ必要?」
「必須ではありません」
「じゃあ、アリスも休んだら?」
「低活動状態への移行は後でも可能です」
重なった手は、そのままだった。
水も飲んだ。
薬も効いている。
体温もほぼ戻った。
「アリス」
「はい」
「手、繋いだままだね」
「はい」
「もう監視には必要ないよ」
「認識しています」
指がわずかに緩む。
離れるのかと思った。
けれど、アリスの手は動かなかった。
暗い部屋の中で、重なった指へ視線を落としている。
「離したい?」
返事の代わりに、指が少しだけ握り直された。
「……私も、もう少しこのままでいたいです」
胸の奥が、熱とは違うところで温かくなる。
「うん」
俺も握り返す。
「じゃあ、もう少しだけ」
「はい」
目を閉じる。
喉の痛みも、身体の重さも、少しずつ遠ざかっていく。
最後まで残ったのは、掌に重なる人肌の温度だった。
冷却のため、凪の額へ触れていたアリスの手。
熱が下がれば、もう必要ありません。
それでも今度は、凪の方から引き止めました。
「もう少しだけ、そのままでいてもらっていい?」
そして夜。
監視にも冷却にも、もう接触は必要ない。
アリス自身も、それを理解しています。
それでも。
「……私も、もう少しこのままでいたいです」
二人の希望が、初めて同じ場所で重なりました。
次回。
凪の部屋へ、軍の担当官がやって来ます。




