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第13話 突然の視察と、守りたい領域

昼過ぎ。


凪の部屋にやって来たのは、軍の定期視察担当官。


ピザ箱。

恋愛映画の履歴。

そして、凪のぶかぶかパーカー姿の「白い死神」。


そんな中。


担当官の手が作業室のサーバーへ伸びた瞬間――アリスが、その間へ入りました。


「触れないでください」

 インターホンが鳴ったのは、昼過ぎだった。


 作業室で端末を閉じかけていた俺は、玄関側の表示へ目をやる。


 事前通知のあった軍の定期視察。


 予定より七分早い。


「来たね」


 ソファにいたアリスが顔を上げた。


 基地へ出る日ではないから、戦闘服ではなく俺のパーカー姿だ。長い袖から指先だけを出し、膝の上には途中まで見ていた恋愛映画のリモコンが置かれている。


 さっきまで背もたれへ身体を預けていたのに、玄関の表示を見た途端、姿勢が変わった。


 玄関。


 窓。


 作業室の扉。


 視線が短く巡り、室内を確認する。


 背筋まで、いつもの九十度へ近づいていた。


「定期確認だけだから、そんなに構えなくて大丈夫だよ」


「構えていません」


「そう?」


「はい」


 返事は平坦だった。


 もう完全に仕事の顔だった。



   *



「失礼します」


 入ってきた担当官は、基地でも何度か顔を合わせている男だった。


 三十代後半くらい。無愛想というほどではないが、仕事中は必要なことしか言わない。


 身分証を玄関端末へかざす。


 認証音が一度鳴った。


「環境適応試験の中間監査です。居住区画、外部調整設備、アクセス記録を順に確認します」


「お願いします」


「アリスも同席を」


「了解しました」


 その声を聞いた瞬間、家の中にいるのに基地へ戻ったような気がした。


 担当官は玄関センサーと暗号回線を確認してから、居室へ入る。


 ローテーブルの前で、足がわずかに止まった。


 畳んだピザの箱。


 コーラの空きボトル。


 テレビには、一時停止した恋愛映画。


 片づけておけばよかった、と少しだけ思う。


「生活環境への適応は進んでいるようですね」


「……まあ、はい」


「食事行動も?」


「任務上の必要とは別に、本人が希望した場合だけです」


 担当官の視線がアリスへ移る。


「事実か」


「はい。摂取は私の選択です」


「了解」


 端末へ入力し、そのまま次へ進む。


 隠すようなことではない。


 それでも、軍で『白い死神』と呼ばれている個体が、俺のパーカーを着て恋愛映画を止めている光景を監査されるのは、妙に落ち着かなかった。


 担当官の視線が、今度はそのパーカーへ向く。


「衣類についても、環境適応試験の一部ですか」


「最初は――」


「当初は、その目的を含みます」


 俺より先に、アリスが答えた。


「現在は、私が継続使用を希望しています」


 担当官の指が端末の上で止まる。


「本人選択として記録します」


「はい」


 短い入力音が鳴った。


 俺は何も言わなかった。


 聞かれたのは用途だけだった。


 それでもアリスは、自分が選んで着ていることまで付け加えた。


 担当官が過去の記録を送りながら、画面を確認する。


「近時、生活環境下での自発選択と適応量が増えていますね」


 少しだけ間を置き、続けた。


「現時点では運用上の異常所見なし。経過として記録します」


「分かりました」


「確認しました」


 アリスも、それだけ返した。


 監査官にとっては、記録項目の一つなのだろう。


 けれど俺には、その一文が妙に耳へ残った。



   *



 作業室へ入ると、空気の質が変わった。


 納戸を改装した四畳半ほどの設備室。


 特注サーバー、診断機器、工具、予備部品が壁際まで詰まっている。


 生活の匂いが残る居室とは違い、ここでは冷却ファンの低い回転音と、工具に染みついた金属の匂いの方が馴染んでいた。


「認証履歴を確認します」


「どうぞ」


 監査端末が接続され、アクセスログが流れていく。


 外部持ち出しなし。


 未承認接続なし。


 保守記録との不一致もない。


「保護領域へのアクセス試行は?」


「初回診断以降はしてません。俺には詳細権限がありませんから」


「その判断で問題ありません」


 担当官が別の画面を開く。


 見覚えのある表示が、端末へ浮かんだ。


 PROTECTED AREA


 その下に、


 DIRECT WRITE:DENIED


 初めて見たときから、変わらない。


「軍側の監査権限でも、保護領域内部への直接アクセスは不可です」


「存在と整合性だけ確認する形ですか」


「そうです。内容への直接書き込みも許可されていません」


「了解です」


 俺にも触れない。


 監査担当にも触れられない。


 何のための領域なのかは、まだ分からない。


 それでも、その制限があること自体には少し安心した。


 確認作業が続く。


 俺も横でログを追っていたせいで、担当官がサーバーラックの側面へ手を伸ばした瞬間、反応が遅れた。


 視界を白い髪が横切る。


 アリスだった。


 担当官の指先がラックへ届くより早く、俺との間を抜けている。


 サーバーの前へ身体を入れた。


「触れないでください」


 声は静かだった。


 腕を掴みもしない。


 威圧する姿勢でもない。


 それでも、担当官の手は止まった。


「確認用の封印ラベルを見ようとしただけだ」


「当該箇所への接触許可は、まだ確認されていません」


「その通りだな」


 担当官は手を引き、俺を見る。


「側面パネルを目視しても?」


「はい。それなら大丈夫です」


 俺が答えると、アリスは半歩だけ横へずれた。


 それだけで空気は元へ戻る。


 攻撃も、警告動作もなかった。


 ほんの一瞬、人ひとり分の場所へ身体を入れただけだ。


 なのに、その立ち位置が頭へ残った。


 サーバーを守るなら、認証済み拠点の機密保護として理解できる。


 でも、アリスが入った角度は、ラックだけを庇うものではなかった。


 俺まで、まとめて背中側へ入っていた。



   *



 視察は予定より十分ほど長引いた。


 それでも、指摘事項はなかった。


「現状運用を継続してください。次回日程は後日通知します」


「了解です。ありがとうございました」


「アリスも問題なし」


「確認しました」


 玄関が閉まり、電子錠の作動音が鳴る。


 そこでようやく、肩の力が抜けた。


「終わった……」


「監査結果に異常はありません」


「うん。アリスのおかげでね」


 靴箱の横に立っていたアリスが、こちらを見る。


「ただ、一つだけいい?」


「何ですか」


「さっき、担当官がサーバーへ手を伸ばしたとき」


「はい」


「止めてくれたのは助かった。でも次からは、身体を入れる前に、まず言葉で伝えられそうならそうしてほしいかな」


「接触は行っていません」


「それは分かってるよ。攻撃しようとしたとも思ってない」


 アリスは黙っている。


「相手が驚くかもしれないから。『触れないでください』だけで済むなら、その方が安全だと思う」


「……了解しました」


「ありがとう」


 その言葉のあと、アリスの視線が止まった。


「どうした?」


「胸部周辺に温度変化を確認しました」


「苦しい?」


「いいえ。主動力由来ではありません」


 最近、何度か見ている種類の反応だった。


「じゃあ、今はそのままでいいんじゃないかな」


「分類しませんか」


「アリス自身が分かるまで、急がなくてもいいと思う」


「はい」


 返事をしても、アリスはその場から動かなかった。


 俺は居室へ戻りかけて、作業室で引っかかったことを思い出す。


「そういえば」


「はい」


「さっき守ったのって、サーバー?」


「サーバーは保護対象です」


「うん。それは分かる」


「凪も保護対象です」


 足が止まった。


「俺も?」


「はい」


「サーバーと同じ意味で?」


 聞いてから、少し意地の悪い質問だったかもしれないと思う。


 アリスはすぐには答えなかった。


 俺の顔を見たまま、言葉を探している。


「異なります」


「どう違う?」


「……分類できません」


「分かった」


 それ以上は詰めない。


 アリスの答えを、俺が先に作る必要はない。


 でも、アリスはまだ続けた。


「ただし」


 長い袖から出た指先が、わずかに動く。


「凪を保護する判断に、迷いはありません」


 胸の奥が少し遅れて鳴った。


「それ、かなり嬉しいことを言われてる気がする」


「事実を述べました」


「うん。ありがとう」


 もう一度言う。


 アリスの視線がわずかに揺れた。


「胸部温度が再上昇しました」


「やっぱり俺が『ありがとう』って言うと?」


「相関を確認しています」


「原因は?」


「未分類です」


「じゃあ、それもそのままでいいね」


「はい」


 そこで会話が終わると思った。


 けれど、アリスは俺を見たまま、一歩だけ近づいた。


「凪」


「ん?」


「接触を希望します」


 このところなら、最初に手を思い浮かべる。


「手?」


「いいえ」


「じゃあ……」


 候補を探して、少し迷った。


「抱きしめる?」


「はい」


 心臓が一度、強く鳴った。


 手を繋ぐのとは違う。


 胸元まで触れる距離になる。


 それを意識した途端、たった一歩ぶんの空間が急に狭く感じられた。


「アリス」


「はい」


「俺でいい?」


 アリスは迷わなかった。


「凪がいいです」


 言葉が止まる。


 映画で見たから。


 胸部温度を下げたいから。


 理由なら、後からいくらでも並べられる。


 でも今は、それを俺が作る場面じゃない。


「アリスは、どうしたい?」


 アリスの目が、わずかに揺れた。


「私は」


 そこで言葉が途切れる。


 それでも、目は逸れない。


「凪に、触れたいです」


 そこまで聞いて、俺は両腕を少し開いた。


「うん。大丈夫だよ」


 それ以上は動かない。


 アリスが、自分で一歩を詰める。


 パーカー越しの身体が胸元へ触れ、細い腕が俺の背中へ回った。


 思っていたより柔らかかった。


 人工皮膚も、その下の人工筋繊維も、構造としてなら知っている。


 それなのに今は、調整対象として考えられない。


 俺も、ゆっくり腕を回した。


「苦しくない?」


「問題ありません」


「嫌になったら離れていいからね」


「はい」


 耳元に近い声が、いつもより小さく聞こえる。


 髪の毛先が頬へ触れた。


 呼吸模倣の微かな空気まで首元へ届く。


 近い。


 手を繋いだときとは、まるで違った。


「凪」


「ん?」


「心拍数が上昇しています」


「今は見なくていいかな」


「異常値ではありません」


「なら大丈夫」


 前にも似たようなことを言った気がして、少しだけ笑う。


 その息で髪が揺れたのか、背中へ回っていたアリスの腕にわずかに力が加わった。


「アリス?」


「はい」


「大丈夫?」


「はい」


 俺も、腕の力を変えなかった。


 任務中なら、一瞬で俺を抱えて走れる腕だ。


 今はただ、背中に回っている。


 それだけのことが、妙に大きかった。


 どれくらいそうしていたのかは分からない。


 やがて、アリスが小さく口を開いた。


「胸部温度は基準値へ接近しています」


「うん」


 それだけ返した。


 温度が戻ったなら、目的は達したとも言える。


 俺がほんの少し腕の力を緩める。


 けれど、アリスの腕は動かなかった。


「アリス?」


「はい」


「離れる?」


 背中へ回った腕が、ごくわずかに深くなる。


「……接触終了は希望しません」


 胸の奥が、また強く鳴った。


「分かった」


 俺も、静かに抱き直した。

アリスが守ろうとしたのは、サーバーだけではありませんでした。


「凪も保護対象です」


けれどサーバーと同じなのかと尋ねれば。


「異なります」


そして視察が終わったあと。


アリスが求めた接触は、手ではありません。


「ハグ?」


「はい」


さらに凪が確認すると。


「凪がいいです」


初めて交わす、二人からの抱擁。


「終わる?」


「……いいえ」


次回。


雨の朝。


凪が目を覚ますと、同じベッドのすぐそばに銀白色の髪があります。

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