第14話 雨の日と、ベッドから出ない最強兵器
雨の朝。
凪が目を覚ますと、胸元のすぐ近くに銀白色の髪。
アリスです。
しかも本人は、とっくに起きています。
なのに動かない。
「もう少し、ここにいてください」
人類最強の戦闘アンドロイド。
本日の最優先事項は――ベッドから出ないことらしいです。
雨の音で目が覚めた。
窓を細かく叩く音が、薄暗い部屋へ途切れず落ちている。カーテン越しの朝は白く、まだ夜の続きを見ているようだった。
寝返りを打とうとして、動きを止める。
胸元のすぐ近くに、白い髪があった。
「……アリス?」
「はい」
間を置かず返事が来た。
起きている。
たぶん、俺よりずっと前から。
眠気の残る頭で昨夜を辿った。
視察が終わり、初めてアリスを抱きしめた。そのあと一本だけ映画を見るつもりでソファへ座り、終盤で寝落ちしかけたところまでは覚えている。
どうにかベッドへ移動して――そこで、アリスにも何か言った。
「空いてるから使えば、って言った気がする」
「はい。二十三時四十八分、凪は『そっち空いてるから、使っていいよ』と発言しました」
「やっぱり」
「その後、私が同一寝具を使用することについて異議は示されませんでした」
「寝てたからね」
「呼びかけには応答しました」
「何て?」
「『うん』と」
額へ手を当てる。
「それは、ちゃんとした返事として扱わない方がいいかな」
「理由を要求します」
「半分寝てたから。次に同じことをするなら、俺が起きてるときにもう一度確認してほしい」
「了解しました」
「うん」
そこで改めて隣を見る。
アリスは掛け布団の中で、俺の胸元近くに横になっていた。
身体そのものは触れていない。
ただ、手を伸ばさなくても届きそうな距離だ。
「今は起きてるから、ちゃんと聞くけど」
「はい」
「俺は、アリスがここにいるの嫌じゃないよ。アリスは、このままここにいたい?」
アリスの視線が俺から外れ、二人の間にあるわずかな隙間へ落ちる。
「はい」
短い返事だった。
「現在の距離を維持したいです」
「分かった」
それなら、今度は曖昧じゃない。
「嫌になったら離れて大丈夫だからね」
「はい」
窓の外では、雨樋を流れる水の音が続いている。
暖房は弱く設定されているらしく、布団から出た肩だけが少し冷えた。そのぶん、隣にある人肌に近い温度が妙にはっきり分かる。
同じベッドにいる。
昨夜は眠気に押されて気づかなかった事実が、今さら頭へ落ちてきた。
横を向けば、アリスの顔が近い。
いつもなら調整台の上で数値と一緒に見ている顔なのに、枕へ髪を広げているだけで、まるで別のものに見えた。
「アリスは、低活動状態に入ってた?」
「三時間四十二分、休止しました」
「ベッド、どうだった?」
「ソファと比較して姿勢保持負荷が低く、低活動状態への移行効率も良好でした」
「なるほど」
理由だけ聞けば、いつものアリスだった。
「じゃあ、そろそろ起きる?」
「本日は外出効率が低いです」
窓へ目を向ける。
細い雨がガラスを伝い、向かいの建物まで薄く霞んでいた。
「雨だから?」
「降水確率九二パーセント。路面状態不良。気温も低値です」
「今日、外出予定あったっけ」
「ありません」
「じゃあ、外出効率は関係なくない?」
返事がない。
視線だけが、わずかに窓へ逸れた。
口元が緩む。
「まだ起きたくない?」
「……その表現は、概ね適合しています」
思わず笑った。
*
喉が渇いていた。
名残惜しさはあったものの、さすがに水くらいは飲みたい。
上体を起こしたところで、シャツの裾に小さな抵抗がかかった。
見ると、アリスの指先が布を摘んでいる。
「アリス?」
「はい」
「そこ、掴んでるよ」
「認識しています」
「水飲んでくるね」
「水分摂取は必要です」
「うん。だから離してもらえる?」
指先が緩む。
けれど、すぐには布から離れなかった。
昨夜、胸部温度が落ち着いたあとも、俺の背中へ回った腕が残っていたことを思い出す。
「まだここにいてほしい?」
アリスがこちらを見る。
「……もう少し、ここにいてください」
必要性も、効率もついてこなかった。
「どれくらい?」
「五時間」
「長いかな」
「では、四時間五十九分」
「ほとんど変わってないね」
「一分短縮しました」
「そこは分かるよ」
人類最強クラスの演算能力を使った結果が、一分だった。
笑うと、シャツを摘んでいた指がようやく離れる。
「五時間は寝すぎるから、朝ご飯までは起きよう」
「再度ベッドを使用する可能性は?」
「交渉する気だね」
「希望条件を確認しています」
「じゃあ、朝ご飯を食べてから考えようか」
アリスは少し考えた。
「暫定案として受理します」
「そこまで正式な話だったんだ」
「凪の健康維持は重要です」
「分かった」
ベッドから出る。
背中へ、まだ視線が残っている気がした。
*
パンを焼き、コーヒーを飲んで戻ると、アリスはベッドの縁へ座っていた。
パーカーのフードは外れている。
その代わり、右側の髪が一束だけ妙な方向へ跳ねていた。
「寝癖ついてる」
位置を示す。
アリスも自分の髪へ触れた。
「ここですか」
「もう少し後ろ」
「ここ」
「もうちょっと右かな」
指先が何度も違う場所へ触れる。
自分で直した方が早そうだった。
手を伸ばしかけて、一度止める。
「俺が直してもいい?」
アリスの手が髪の上で止まった。
「接触を伴いますか」
「髪だけ。嫌なら自分でやって大丈夫だよ」
アリスは手を膝へ下ろす。
「許可します」
「じゃあ、ちょっとだけ」
ベッドの縁へ腰を下ろした。
跳ねた毛先へ指を入れると、さらりとした感触が指の間を抜けていく。
高性能人工毛髪。
構造も素材も知っている。
それでも、こうして朝の寝癖を直していると、そんな知識はあまり意味を持たなかった。
二度ほど毛流れへ沿わせれば、跳ねていた一束は元へ戻る。
「これで大丈夫」
手を離した。
アリスが、自分の髪へ触れる。
「補正を確認しました」
「よかった」
そこで終わる。
そのはずだった。
けれど、アリスは膝に戻った俺の手へ視線を落としたまま、動かない。
「凪」
「ん?」
「もう一度、同じ接触を希望します」
返事が少し遅れた。
「髪、撫でてほしい?」
「はい」
「寝癖はもう直ってるよ」
「認識しています」
「それでも?」
「はい」
理由を聞こうとして、やめた。
必要がないことは、アリス自身がもう分かっている。
「じゃあ、撫でても大丈夫?」
「許可します」
もう一度、手を伸ばす。
今度は何かを直すためではない。
頭の形へ沿わせ、ゆっくり一度だけ髪を撫でた。
指の間を抜けた毛先が、パーカーの肩へ静かに落ちる。
「こんな感じ?」
「はい」
「もう一回?」
アリスがこちらを見る。
「……希望します」
もう一度だけ撫でる。
それで手を戻した。
アリスも、引き留めなかった。
けれど、さっきまで真っ直ぐだった肩が、ほんの少しだけ緩んでいた。
*
昼前には、二人とも居室へ戻っていた。
雨はまだ続いている。
窓の向こうは薄い灰色で、道路を走る車の音まで湿って聞こえた。
俺が昼食用のスープを用意しているあいだ、アリスはソファへ座っていた。
いつもの位置より、少し端。
隣に空間が残っている。
そこへ腰を下ろすと、アリスがリモコンを手に取った。
「映画見る?」
「はい」
「今日は恋愛映画?」
「候補を三本選定しています」
「もう選んでたんだ」
「天候条件との一致率も考慮しました」
「雨の日向け?」
「第一候補は降雨場面が全体の三一・四パーセントです」
「そこまで雨じゃなくてもいいかな」
「では第二候補へ変更します」
「それでお願い」
再生ボタンへ置かれた指が止まる。
「凪」
「ん?」
「一つ希望があります」
「何?」
「映画を見る際、現在より近い距離を希望します」
自然と二人の間を見る。
人ひとり分には足りない。
でも、肩が触れるほど近くもない。
「どれくらい?」
アリスも隙間へ目を落とした。
「明確な数値は設定していません」
「珍しいね」
「はい」
そのまま俺を見る。
「近い方が、好ましいです」
雨音の中でも、その一言だけは妙にはっきり聞こえた。
快適だからでもない。
姿勢効率でもない。
はぐれないためでもない。
「俺も、近い方が落ち着くかな」
口にした途端、自分の方が少し照れた。
アリスは何も言わない。
代わりに、ソファの布地が小さく擦れた。
隙間が狭くなる。
肩は触れていない。
でも、手を伸ばせばすぐに届く。
「このくらい?」
「はい」
「大丈夫?」
「問題ありません」
映画が始まる。
画面の中では、雨の駅前を二人の男女が歩いていた。
隣から、降雨時間の割合も、距離の数値も聞こえてこない。
しばらくして背もたれへ身体を預けると、隣でも小さく衣擦れが鳴った。
窓の雨は、まだ止まなかった。
二人の間の距離も、元には戻らなかった。
「どれくらい?」
「五時間」
長いと言われて、
「では四時間五十九分」
ほとんど変わっていません。
けれどアリスが欲しかったのは、ベッドではありませんでした。
髪を撫でてもらうこと。
食事のあとも、凪の近くにいること。
そして夜。
「近い方が、好ましいです」
ソファの隙間が、少しだけ狭くなる。
雨が降り続いても。
二人の距離は、もう元には戻りませんでした。
次回。
二人で迎える、初めてのクリスマスです。




