第15話 初めてのクリスマスと、甘いケーキ
卓上ツリー。
ピザ。
コーラ。
そして、甘いケーキ。
アリスにとって初めてのクリスマス。
凪からのプレゼントは、ブロンズの瞳を思わせる淡い琥珀色の石がついたヘアピンです。
「必要だからじゃないよ。似合いそうだと思ったから」
その夜。
アリスの中で、また一つ「必要ではないもの」が増えていきます。
玄関を開けた瞬間、部屋の奥に小さな光が見えた。
見慣れた六畳の居室。そのローテーブルの端に、昨日まではなかった卓上ツリーが置かれている。
高さは三十センチほど。
緑の枝へ巻かれた細い電飾が、暖色の光をゆっくり点滅させていた。
「……これ、アリスが?」
靴を脱ぎながら聞く。
ソファにいたアリスが顔を上げた。
「はい」
今日も俺のパーカー姿だ。
長い袖から覗いた指先には、銀色の小さな星形オーナメントが挟まれている。
「季節行事における室内装飾の事例を確認しました」
「それでツリー?」
「居住面積を考慮し、卓上型を選択しました」
「かなり現実的だね」
「大型の設置は通行効率を低下させます」
そう言いながら、アリスは星をツリーの先端へ取り付けた。
一度離れて全体を見る。
また近づき、ほんのわずかに角度を直す。
もう一度離れる。
「傾斜角〇・八度以内です」
「クリスマスツリーって、そこまで精密じゃなくても大丈夫だと思うよ」
「視認上の左右差が発生します」
「アリスが気になるなら、それでいいけど」
「はい。この配置を採用します」
どうやら満足したらしい。
基地では複数の移動標的を一瞬で処理する演算能力が、今日は三十センチのツリーの星を真っ直ぐにするために使われている。
その落差がおかしくて、コートを脱ぎながら笑った。
*
夕食は、結局いつものピザになった。
せっかくだからクリスマスらしい料理でも、と一度は考えたものの、俺の料理能力ではイベント感より事故率の方が高い。
そう説明すると、アリスは迷いなく頷いた。
「既知の成功率を優先する判断は合理的です」
「そこまで即答されると、ちょっと傷つくね」
「事実確認です」
「そうだね」
ローテーブルにはピザとコーラ。
その横に、帰りに買ってきた小さなケーキが二つ並んでいる。
ショートケーキとチョコレートケーキ。
最初の頃なら、糖質や脂質、主動力への寄与率を先に口にしていた。
今も見れば数値は分かるのだろう。
それなのに今日は、二つのケーキを見比べたまま、なかなか手を伸ばさない。
「どっちにする?」
「選択が必要ですか」
「両方食べてもいいけど」
「では、半分ずつを希望します」
「そう来たか」
皿を二枚出し、それぞれを半分に分ける。
アリスは最初にショートケーキへフォークを入れた。
柔らかなスポンジ。
白いクリーム。
小さく切った苺。
それらを一緒に口へ運ぶ。
飲み込んだあと、いつもの分析が始まるのかと思って待っていた。
「どう?」
「甘味強度は高値です」
「うん」
「脂質量も――」
言葉が途切れた。
アリスはフォークの先に残ったクリームを見る。
それも口へ運び、もう一度皿へ視線を落とした。
「……好きです」
反射的に顔を上げる。
「ケーキが?」
「はい」
「どのへんが?」
「再度摂取したいと判断しています」
理由の説明になっているようで、なっていない。
それでも今は、その方がよかった。
「じゃあ、来年も買おうか」
「来年?」
「クリスマス、また来るから」
「当然です」
「そうなんだけど」
「同一店舗での再購入を希望します」
「覚えておくよ」
アリスのフォークが、今度はチョコレートケーキへ向かう。
「こちらとの比較も必要です」
「好きって言った直後なのに、急に研究っぽく戻るね」
「嗜好判定と比較は両立します」
「アリスらしいな」
本人は気にした様子もなく、真剣な顔でチョコレートケーキを一口食べた。
その横で、小さなツリーの光だけがゆっくり明滅していた。
*
食後、作業室に隠しておいた小さな紙袋を持ってきた。
「アリス」
「はい」
「これ」
差し出しても、すぐには受け取らない。
紙袋を見て、それから俺を見る。
「内容物は?」
「開けてみて」
「必要物品ですか」
「必要ではないかな」
「では?」
「クリスマスプレゼント」
「私へ?」
「うん」
アリスの視線が、もう一度紙袋へ落ちる。
「受領理由を確認できません」
「似合いそうなものを見つけたから」
「機能上の利点ではなく?」
「うん」
「環境適応試験のためでもなく?」
「違うよ」
少し考えてから、言葉を足した。
「俺が、アリスに持っててほしいと思っただけ」
「凪が?」
「俺が」
店で買ったときより、口にする方がよほど恥ずかしい。
アリスはしばらく動かなかった。
やがて、長い袖から指先を出して紙袋を受け取る。
中から小箱を取り出し、蓋を開けた。
細い銀色の台座に、小さな石が一つ。
淡い琥珀とシャンパンゴールドの間のような色が、室内灯を拾って光る。
「装飾品です」
「ヘアピンね」
「石材は?」
「人工石だと思う。詳しくは分からない」
「琥珀系の色調です」
「うん。アリスの目に少し似てると思って」
石を見ていた指先が止まった。
「私の瞳に?」
「光が当たったときの色が、少し近いかなって」
本人を見ながら言うのは、やっぱり落ち着かない。
アリスは小さな石の表面を指でなぞった。
「必要ではなくても、贈るのですか」
「そういうものもあるよ」
「判断基準は?」
「渡したいと思うかどうか、かな」
「今回は」
「渡したかった」
アリスは何も言わなかった。
けれど、小箱を閉じることもしない。
「着けてみる?」
「自分で装着可能です」
「それは分かってる」
「では?」
「俺が着けてもいいかなと思っただけ。嫌なら自分で大丈夫だよ」
アリスはヘアピンと俺を見比べる。
それから、小箱をこちらへ差し出した。
「……お願いします」
受け取る。
右側の髪へ指を入れた。
昨日、寝癖を直したときと同じ柔らかさが指先へ戻ってくる。
首元で揃う髪を少しだけまとめ、こめかみの上へヘアピンを留める。
銀色の髪の中で、淡い琥珀色が小さく光った。
「できた」
手を離し、正面から見る。
想像していたより、ずっと似合っていた。
「どうですか」
「似合ってる」
「評価が短いです」
「厳しいね」
「情報量が不足しています」
思わず笑った。
もう一度、きちんと見る。
「綺麗だと思う」
今度はアリスが止まった。
瞳の色と、そのすぐ近くの小さな石が、同じ光を拾っている。
「……評価を受領しました」
「うん」
アリスがヘアピンへ指を添えた。
「これは、私の所有物ですか」
「もちろん。もうアリスのものだよ」
「私のもの」
「うん」
石を確かめるように、一度だけ撫でる。
「継続使用を希望します」
「好きなときに使っていいよ」
「はい」
ヘアピンから離れた指先が、そのまま膝へ戻った。
*
残ったケーキを食べながら、映画を流した。
途中で、アリスの口元に白いクリームがつく。
ほんの少しだけ、唇の横。
「アリス、クリームついてる」
「認識しています」
「気づいてたんだ」
「はい」
「取らないの?」
「映像視聴を優先しています」
「そこに優先順位つけるんだね」
「緊急性はありません」
そう言って、また画面を見る。
クリーム一滴の位置まで把握できる感覚器官を持っているのに、映画の続きを優先して放置しているらしい。
少し可笑しくて、ティッシュを一枚取った。
「俺が取ってもいい?」
アリスの視線がこちらへ戻る。
「はい」
返事を待ってから身を寄せる。
ティッシュを唇の横へ近づけたところで、思っていたより顔と顔の距離が近いことに気づいた。
昨日は髪を撫でた。
その前には抱きしめた。
それでも、正面から顔を近づけるのは別だった。
呼吸模倣の微かな空気が指へ触れる。
クリームをそっと拭った。
「取れたよ」
「確認しました」
離れようとした。
その前に、アリスが動いた。
ほんの少し、こちらへ身体が寄る。
柔らかなものが頬へ触れた。
一瞬だった。
すぐに離れる。
俺は動けなかった。
アリスも、その姿勢のまま止まっている。
「……アリス?」
「はい」
「今の、キス?」
「接触形態としては該当します」
声はいつも通りなのに、返事だけがわずかに遅かった。
「映画の再現?」
アリスが画面を見る。
そこでは登場人物が、テーブルを挟んで話している。
「いいえ」
「前に見た映像を参考にした?」
少し間が空いた。
「行動発生後に類似データを照合しました」
胸の奥が強く鳴る。
「じゃあ、先にやったんだ」
「はい」
「真似しようと思ったわけじゃない?」
「はい」
それ以上、すぐには聞けなかった。
アリスが自分から俺に触れたいと言ったことはある。
でもこれは、何をするかを決めてから理由を用意したわけでもなかった。
「なんでやったかは、分かる?」
アリスは答えを探すように黙った。
こめかみのヘアピンが、テレビの光を小さく返す。
「……現時点では説明できません」
「分かった」
「原因を特定しますか」
「急がなくていいと思う」
「未分類のまま保持しますか」
「うん」
俺の頬へ視線が移る。
「凪に不快反応はありますか」
「ないよ」
「接触行動を撤回する必要は?」
「俺はないと思う」
「……了解しました」
理由はまだない。
名前もない。
それでも、起きたことまでなかったことにする必要はない。
映画を再開する。
画面では、もう別の場面が始まっていた。
隣では琥珀色の小さな石が、ツリーの光を時々拾っている。
頬に触れた場所だけは、エンドロールまで妙にはっきり残っていた。
ケーキを食べたアリスが、初めて嗜好として口にした言葉。
「……好きです」
そして凪から贈られたヘアピン。
さらに――。
頬へ触れた、アリスからの短いキス。
映画を真似したわけではありません。
先に身体が動き、あとから教師データを照合しました。
「なんでやったかは、分かる?」
「……分かりません」
答えは、まだ先でいい。
凪の頬には、その柔らかな感触だけが残りました。
次回。
アリスの動画履歴が、恋愛作品だらけになっていることが発覚します。




