第29話 永遠のメンテナンス契約
恋人になって、数か月。
ある日、凪の胸ポケットには小さな箱が入っていました。
中にあるのは。
第15話で贈ったヘアピンと同じような、淡い琥珀色の石を使ったリング。
いつものソファ。
いつもの二人。
そこで凪は――アリスへ、これから先の話をします。
恋人になってから、数か月が過ぎた。
朝の冷気にはまだ冬の名残があるのに、基地へ向かう途中の街路樹には、小さな芽が混じり始めている。
春が近い。
そんな季節になっても、俺の仕事は変わらなかった。
その日の調整にも、異常らしい異常は何もない。
人工筋繊維の応答。
関節制御。
熱循環系。
感覚フィードバック。
画面を流れる数値はどれも規定値へ綺麗に収まり、補正を必要とする箇所は見当たらなかった。
「これで大丈夫。今日は早く終われそう」
「確認しました」
黒い高機能戦闘服のまま、アリスが隣から端末を覗き込む。
その横顔へ目を向けた途端、調整値ではなく、自分の胸ポケットが気になった。
内側に、小さな箱が入っている。
朝、家を出る前に確認した。
電車へ乗る前にも触った。
基地へ着いてからも、たぶん二回は確かめている。
落としていない。
壊してもいない。
それなのに、気づけばまた指が向かっていた。
「凪」
「ん?」
「本日、胸部左側への接触回数が通常より多いです」
ポケットへ伸びかけていた手が止まる。
「……分かる?」
「視認可能です」
「そうだよね」
「異常がありますか」
「ないよ。俺の方の問題」
「生体状態の診断を希望しますか」
「たぶん、アリスには診断できないかな」
アリスが俺を見る。
「理由は?」
「俺にも、まだうまく説明できないから」
しばらく視線が重なる。
それ以上は追及されなかった。
「了解しました」
短い返事に、少しだけ肩の力が抜ける。
端末を終了しようとしたところで、画面の右端へ通知が出た。
【高度自律人格・担当技術者選任確認】
「ああ、これ今日だったんだ」
「何ですか」
「再認定後の手続きだよ。自己決定資格が正式に継続されたから、今後の調整担当をアリス自身が選べる」
画面をアリス側へ向ける。
俺の名前と、軍の認定を受けた複数の代替技師。
継続。
変更。
選任保留。
どれを選ぶかは、もう運用側だけでは決められない。
「俺を選ばなくても大丈夫だからね」
「凪」
「うん」
「なぜ、その説明が必要なのですか」
「一応。俺は恋人でもあるから」
口にしてから、少しだけ照れくさくなった。
「恋人でいることと、調整担当として俺を選ぶことは、別々に選べた方がいいと思って」
アリスは候補者一覧を見る。
一度、上から下まで確認した。
そのまま迷わず、俺の名前へ触れる。
【専属調整担当:凪】
【継続を希望する】
確認欄も選択された。
「決めるの早いね」
「比較は完了しています」
「技術的に?」
「それも含みます」
画面から俺へ視線が移る。
「私の身体調整を任せる相手として、凪を希望します」
胸の奥が、思っていた以上に熱くなった。
「ありがとう」
「ただし」
「うん?」
「恋人であることを理由として選択したわけではありません」
「そこは分けてるんだ」
「重要です」
わずかに間を置く。
「ですが、凪だから選択したことは事実です」
今度は俺が返事に困った。
アリスは何事もなかったように承認ボタンへ触れる。
【本人同意:確認】
【担当技術者選任:完了】
表示が閉じた。
胸ポケットの箱が、さっきより少しだけ重く感じられた。
*
帰宅すると、アリスはいつものぶかぶかのパーカーへ着替えた。
長い袖の中へ両手を半分隠し、俺より先にソファへ座る。
キッチンからコーラを二本持って戻れば、背もたれへ身体を預けたまま、当然のように俺の場所を空けていた。
最初にこの部屋へ来た夜。
座っていいと言っても、アリスは背筋をほとんど直角にしたままだった。
今では、俺が座る前から隣が空いている。
「凪」
「何?」
「今日は映画を先に選択しますか」
「その前に、ちょっと話していい?」
アリスがこちらを見る。
「はい」
「少し長くなるかも」
「問題ありません」
隣へ座る。
すぐに肩が触れた。
いつもの距離。
いつもの温度。
なのに、胸の中だけがいつもと違う。
ポケットへ手を入れかけて、やめた。
先に箱を見せたら、言葉にするべきものまで物へ預けてしまいそうだった。
「アリス」
「はい」
まっすぐ見られた途端、頭の中で考えてきた台詞が全部よそ行きに思えた。
もっと格好よく言うつもりだった。
順番も考えていた。
でも、今ここにいるアリスへ伝えるなら、たぶんそんな言葉じゃなくていい。
ソファの上に、パーカーの袖から指先だけが出ている。
その手へ、自分から指を伸ばした。
触れる。
アリスも自然に絡めてくる。
「俺、これからもアリスの隣にいたい」
アリスは黙って聞いている。
「調子が悪い日があったら、一緒に原因を探したい。俺が気づけることもあると思うし、逆にアリスに助けてもらうことも、きっとある」
絡んだ指が、わずかに動いた。
「映画も見たいし、ピザも食べたい。アリスが作る、ちょっと形の崩れたオムライスもまた食べたい」
「次回は改善します」
「そこは改善するんだ」
「改善可能です」
笑ってしまった。
「じゃあ、少しくらい崩れててもいいよ」
「検討します」
「うん」
張っていたものが少しほどける。
それでも、次の言葉は笑わずに伝えたかった。
「喧嘩する日もあると思う」
「可能性はあります」
「意見が合わないことも?」
「発生し得ます」
「俺が間違うこともある」
「高確率であります」
「そこはもう少し優しくてもよくない?」
「事実です」
また笑いが漏れた。
それから、絡んだ手を見る。
「それでも、終わりにしたくないんだ」
今度は、アリスも何も挟まなかった。
「何年経っても一緒に暮らしたい。帰ったらアリスがいてほしいし」
一度、息を吸う。
「俺も、アリスの帰る場所にいたい」
指を握る。
同じだけ、握り返された。
制度のことは調べてある。
高度自律人格には、人間の婚姻に相当する生活伴侶登録を、本人の意思で申請する資格が認められている。
残っているのは、制度の問題じゃない。
俺がどうしたいか。
アリスがどうしたいか。
「俺は、アリスとこれから先も一緒にいたい」
胸の奥がうるさい。
それでも、もう迷わなかった。
「アリスも同じなら――俺と、これから先を一緒に選んでほしい」
言い終える。
部屋が妙に静かになった。
アリスがどう答えるかは、俺には決められない。
だから待つ。
絡んだ指をほどかないまま、もう片方の手をポケットへ入れた。
小さな箱を取り出す。
アリスの視線が落ちる。
「新しい調整部品ですか」
「違うよ」
「予備センサー?」
「もっと違う」
「では――」
「開けてもいい?」
「はい」
蓋を開く。
中には、細いリングが一つ。
飾りは大きくない。
淡い琥珀からシャンパンゴールドへ、光の加減で色を変える小さな石が留められている。
クリスマスに渡したヘアピンを思い出しながら選んだ色だった。
アリスはリングを見る。
次に、自分の髪へ触れた。
今日も留めている、琥珀色のヘアピン。
「近い色です」
「うん。合わせた」
「意図的ですか」
「もちろん」
視線がリングへ戻る。
「これは、何を示すものですか」
喉が乾く。
それでも、言葉には詰まらなかった。
「プロポーズ」
アリスの動きが止まる。
リングを見る。
俺を見る。
繋いだ手へ目を落とす。
「凪は、私との永続的共同生活契約を希望しているのですか」
「一緒に暮らしたいのは、そうだよ」
「では、契約を――」
そこまで言って、アリスが自分から止まった。
俺は何も言わない。
続きを待つ。
やがて、リングへ向いていた視線が戻ってきた。
「訂正します」
「うん」
「契約ではありません」
絡んだ指へ力が加わる。
「教師データでもありません」
静かな声が続く。
「命令でもありません」
目を逸らさない。
「今日、調整担当として凪を選択したこととも、別です」
胸が大きく鳴った。
「はい」
「私は、自分の意思で」
アリスが俺の手を握る。
「これから先も、凪を選びます」
胸の奥に張りつめていたものが、一気にほどけた。
何日も言葉を考えていたのに、返せたのは短かった。
「俺も、アリスを選ぶよ」
「はい」
「これからも」
「はい」
繋いだ手は、どちらからも離れなかった。
*
「指輪、つけてもいい?」
「はい」
アリスが左手を差し出す。
細い指へリングを通した。
淡い琥珀色の石が、部屋の灯りを拾う。
アリスは左手を持ち上げ、角度を変えながら確かめた。
「適合しています」
「そこはちょっと自信あった」
「私の身体寸法データを使用しましたか」
「整備記録を私用には使ってないよ」
すぐに視線が戻る。
「では、どのように?」
「普段手を繋いだときとか、見た感じで予想した」
「誤差は?」
「店で調整できるようにはしてあるよ」
「合理的です」
「こういうところだけは調整担当だからね」
アリスはもう一度リングを見る。
表情は大きく変わらない。
それでも、親指が何度も石の脇を撫でていた。
「気に入った?」
「はい」
即答だった。
「好ましいです」
「よかった」
「非常に」
追加された二文字に、今度は俺の方が止まる。
「そこまで?」
「はい」
リングを見ていた左手が下がった。
次の瞬間、アリスが身体を寄せてくる。
腕が背中へ回る。
パーカー越しの温度が胸へ重なった。
俺も抱き返す。
「凪」
「何?」
「未来という概念は、以前は予測対象でした」
「うん」
「任務継続率、損耗率、部品寿命、作戦成功率。将来は、計算する対象でした」
肩口から静かな声が聞こえる。
「現在は違います」
「どう違う?」
「希望する対象です」
背中へ回る腕に、少し力が加わった。
「次の休日も」
「うん」
「次の季節も」
「うん」
「その先も」
そこで言葉が止まる。
「凪と同じ場所にいたいです」
俺も抱く腕へ力を返した。
「俺もだよ」
「長期継続を希望します」
「俺も。かなり長期で」
「期間の指定は?」
「しなくていいかな」
アリスが顔を上げる。
「不確定です」
「うん」
「故障、環境変化、任務変更その他の変数を含みます」
「そうだね」
未来を正確に知る方法なんてない。
「分からない先も、一緒に選んでいきたい」
アリスが俺を見る。
やがて、額がもう一度肩へ戻った。
「希望します」
背中へ回った腕は、そのまま離れなかった。
*
その日の映画は、いつもより遅く始まった。
コーラは少しぬるくなっていた。
普段なら最適温度から外れたと報告するアリスも、今日は何も言わない。
ソファへ並び、俺の肩へ身体を預けたまま、ときどき左手を持ち上げている。
画面の光が当たるたび、リングの石が淡く色を変えた。
「アリス」
「はい」
「映画、ちゃんと見てる?」
「視聴しています」
「さっきから指輪ばっかり見てない?」
「並行処理です」
「便利だなあ」
「凪」
「ん?」
左手が下りる。
そのまま、俺の手を探した。
指輪のある指が、俺の指へ絡む。
「これは、外してはいけませんか」
「外したいときは外していいよ」
「任務時も?」
「危ないなら外した方がいいと思う。アリスが決めていい」
「了解しました」
リングへ一度だけ目を向ける。
「では、必要な場合は外します」
「うん」
「帰宅後は再装着します」
「うん」
「私がそうしたいので」
思わず笑った。
「分かった」
俺も指を絡め直す。
アリスが画面へ視線を戻す。
映画の中では、主人公たちが未来について話していた。
しばらくして、隣から声がする。
「凪」
「何?」
「明日の朝食について希望があります」
「急に現実的だね」
「重要です」
「何がいい?」
「ピザが残っています」
「朝から?」
「はい」
「じゃあ、一緒に食べようか」
「希望します」
未来の話をした直後に、次に決めたのは明日の朝のピザだった。
アリスの肩が、俺へ少し深く預けられる。
繋いだ手の中で、琥珀色の石が静かに光っていた。
「俺は、これからもアリスの隣にいたい」
映画も見る。
ピザも食べる。
調子が悪い日は、一緒に考える。
喧嘩する日だってあるかもしれない。
それでも、ずっと一緒にいたい。
最初は「契約ですか」と聞いたアリス。
けれどすぐに訂正します。
「契約ではありません」
「教師データでもありません」
「命令でもありません」
そして。
「私は、凪を選びます」
「俺も、アリスを選ぶよ」
繋いだ手には、琥珀色のリング。
次回、最終話。
二人はまた、あのソファで新しい恋愛映画を見ます。




