最終話 お帰りなさいのソファと、新作映画
あれから時が過ぎても。
基地でのアリスは、変わらず「白い死神」。
戦闘能力も。
判断力も。
精密動作も。
人類最高水準のままです。
そして任務を終え、家へ帰れば。
ぶかぶかのパーカー。
冷やしてあるコーラ。
注文済みのピザ。
そして、新作の恋愛映画。
今夜もアリスは、あのソファで凪を待っています。
演習場の空気が、鋭く震えた。
直後、三十メートル先に並んでいた六つの模擬標的が、ほとんど同時に沈黙する。
俺の端末へ【制圧完了】の表示が灯ったときには、アリスはもう射撃姿勢を解き、こちらへ歩き始めていた。
「……相変わらず速いね」
漏れた声に、隣の担当官が苦笑する。
「それを相変わらずで済ませるのは、お前くらいだ」
「毎回見てるので」
「見慣れていい性能じゃない」
演習場の中央から戻ってくる姿だけを見れば、細身の若い女性にしか見えない。
身長百五十八センチ。顎下で揺れる銀白色の髪。身体へ沿う黒からチャコールグレーの高機能戦闘服。
けれど、その進路にいた軍人たちは、誰に言われるでもなく半歩ずつ道を空けていく。
白い死神。
その呼び名を生んだものは、今も何一つ失われていない。
出力制御も、反応速度も、複数目標への同時処理も規定値の上限近くで安定している。以前なら判断が遅れる可能性のあった曖昧な状況ほど、今のアリスは滑らかに処理していた。
俺の前まで戻ってきたアリスへ、端末の画面を向ける。
「お疲れさま。右脚も問題なし」
「確認しました」
「今日、俺の仕事ほとんどないかも」
「それは凪の業務量低下を意味します」
「そう言われると、少し困るね」
「では、〇・〇二パーセント程度の調整余地を意図的に残しますか」
「故意に?」
「冗談です」
思わず顔を上げた。
「今の、冗談だったんだ」
「成功率を提示してください」
「七十五点かな」
「改善します」
「そこは改善しなくてもいいと思うよ」
「なぜですか」
「アリスらしかったから」
こちらを見る顔は、基地で恐れられている白い死神のままだ。
それでも、口元だけがほんのわずかに緩んだ。
端末には表示されない。
直す必要もない。
その変化を見て、俺も笑った。
*
基地を出るころには、空が薄い藍色へ変わっていた。
帰り道に話したのは、今日の演習結果と明日の予定。それから、冷蔵庫に何が残っていたか。
特別な話は何もない。
でも、その程度の会話をしながら並んで歩く時間が、今では妙に落ち着く。
玄関の認証が開き、アリスが一歩先に部屋へ入った。
「凪」
「ん?」
「ピザは手配済みです」
「いつの間に?」
「帰路で注文しました」
「準備いいね」
「到着予測時刻は十九時二十二分です」
「映画まで計算に入ってる?」
「当然です」
居室へ入ったアリスは戦闘服から着替え、ほどなくして戻ってきた。
見慣れたぶかぶかのパーカー。
長い袖から、指先だけが覗いている。
「やっぱりそれなんだ」
「はい」
「もう他の部屋着もあるよね」
「あります」
「でも、それを着る?」
「これを着たいです」
迷いのない返事だった。
「了解」
アリスは玄関脇の小さなケースへ手を伸ばす。
任務中は安全上の理由で外していたリングを取り出し、左手へ通した。淡い琥珀色の石が照明を拾う。
「帰ると最初につけるようになったね」
「帰宅後の優先事項です」
「パーカーとどっちが上?」
「比較対象が異なります」
「じゃあ、どっちも大事?」
「はい」
否定も訂正もない。
次に視線が向いたのは冷蔵庫だった。
「コーラも冷却済みです」
「それも大事なんだ」
「重要です」
扉を開けると、二本のコーラが棚の中央へきっちり揃えられていた。
「現在温度三・六度。映画開始時点で三・八度になると予測しています」
「そこまで合わせたの?」
「好ましい温度です」
「俺の?」
「私の好みも含みます」
閉めかけた冷蔵庫の扉が止まる。
「アリスの好きな温度なんだ」
「はい」
ただの炭酸飲料だ。
生存に必要なわけでも、任務効率を上げるわけでもない。
それでも今のアリスは、人類軍最高性能の演算能力を、自分が好きな温度のコーラを飲むために使っている。
「じゃあ、それが一番いいね」
「同意します」
「新作映画も?」
「準備済みです」
「完璧だね」
「当然です」
アリスは俺より先に、ソファへ向かった。
*
最初にこの部屋へ来た夜。
ソファへ座っていいと言っても、アリスは背筋をほとんど直角に保ち、両手を太腿の上へ揃えていた。
今は違う。
先に腰を下ろした途端、背もたれへ自然に身体を預ける。
長い袖から片手を出し、隣の座面を二度叩いた。
「凪」
「何?」
「こちらへ」
「今行くよ」
届いたピザとコーラをローテーブルへ置き、隣へ座る。
すぐに肩へ重みが乗った。
アリスが身体を預けている。
パーカー越しの人肌に近い温度も、左手のリングも、もう珍しいものではない。
なのに、こうして隣にいることだけは、いまだに嬉しい。
「映画、これでいい?」
「はい。私が選択しました」
「恋愛ものだね」
「問題がありますか」
「全然」
再生する。
照明を落とした部屋へ、画面の光が広がった。
スピーカーから低い音が流れ、古いソファの背がかすかに震える。
アリスは分析表示を出さない。
登場人物が言葉に詰まっても映画を止めず、視線を逸らしても一致率を尋ねない。
ただ、画面を見ている。
やがてピザへ手を伸ばした。
熱いチーズが少し伸びるのを待ち、一口食べる。
「どう?」
「好ましいです」
「温度?」
「味です」
「成分分析は?」
「必要ありません」
もう一口。
「美味しいので食べています」
思わず笑った。
「うん。それでいいね」
「はい」
俺も一枚取る。
アリスは食べなくても、主動力には何の問題もない。
でも、自分で注文し、自分が食べたいから口へ運ぶ。
理由は、それだけで足りていた。
コーラの蓋が開く。
一口飲んだアリスへ聞く。
「温度は?」
「三・八度です」
「予測通り?」
「はい」
「満足?」
「しています」
「よかった」
アリスはボトルを置き、また画面へ戻る。
映画の中で誰かが笑った。
少し遅れて、隣の口元も柔らかく緩んだ。
*
映画が半分を過ぎたころ。
膝の近くに置いていた俺の手へ、アリスの指先が触れた。
そのまま離れず、指の間へ入ってくる。
俺も絡めて握った。
画面では、長くすれ違っていた二人が、ようやく同じ場所へ戻ってきたところだった。
「凪」
「ん?」
「分かったことがあります」
アリスは映画を止めない。
「何?」
「以前は、快適、好ましい、安心、嬉しいという反応を、個別に分類していました」
「うん」
「恋愛作品から、分類基準を探したこともあります」
絡んだ指へ、少しだけ力が加わる。
「ですが、現在は必要ありません」
「分類が?」
「はい」
そこで、ようやくこちらを見る。
「分けなくても、分かります」
俺は続きを待った。
アリスの視線が、ゆっくり部屋を巡る。
食べかけのピザ。
水滴の浮いたコーラ。
何度も座って少し沈んだソファ。
自分で選んだ映画。
ぶかぶかのパーカー。
左手のリング。
そして、繋いだ手。
視線が俺へ戻る。
「これが、幸せなのですね」
胸の奥へ、静かな熱が広がった。
「アリスは、そう思う?」
「はい」
迷いはなかった。
「じゃあ、それがアリスの答えだね」
「はい」
今度は向こうから聞かれる。
「凪は?」
「俺も幸せだよ」
すぐに答えられた。
肩へ預けられていた重みが、少しだけ深くなる。
「私もです」
それ以上は何も足さず、二人で画面へ戻った。
*
映画の終盤。
主人公たちがようやく同じ気持ちを伝え合っていた。
以前なら、アリスは台詞の意味や行動の合理性を尋ねていたかもしれない。
今日は何も聞かない。
笑う場面では、ほんの少し笑う。
切ない場面では、繋いだ指へ力が入る。
登場人物がキスをしても、こちらを見ない。
ただ映画を見ている。
しばらくして、小さな声がした。
「この作品は、好ましいです」
「どこが?」
「全部を説明する必要がありますか」
思わず横を見る。
「いや。ないね」
「では、説明しません」
「それもありだね」
「はい」
アリスはまた画面へ向き直った。
教材でも、教師データでもない。
ただ、二人で見たいから見る。
それだけで、この夜には十分だった。
*
エンドロールが流れ始めた。
最後の一切れになったピザへ、俺とアリスの手がほとんど同時に伸びる。
「あ」
互いに止まった。
「アリス、どうぞ」
「半分にします」
「食べたいなら全部いいよ」
「共有したいです」
「じゃあ半分にしようか」
俺が切ろうとすると、アリスが箱を押さえる。
「左右の重量差を二パーセント以内に調整可能です」
「ピザを半分にするだけだよ?」
「公平性は重要です」
「そこは分析するんだ」
「必要です」
結局、見た目ではほとんど差の分からない二切れができた。
片方を渡す。
「ありがとう」
「はい」
食べ終わるころには、エンドロールも終盤へ差しかかっていた。
アリスは空になった箱を見てから、俺へ視線を戻す。
「凪」
「何?」
「次回の新作映画も予約可能です」
「もう次?」
「希望します」
「俺も見たいな」
「では、予約します」
端末へ伸ばしかけた手が途中で止まった。
代わりに、俺の手を取る。
指輪のある左手が、指の間へ絡んだ。
「予約は?」
「後で実施します」
「珍しいね」
「現在はこちらを優先します」
「手?」
「はい」
アリスが俺を見る。
「凪」
「うん」
「明日の朝もピザを希望します」
「もう残ってないよ」
「では、別のものを選びます」
「何がいい?」
「明日の朝、決めます」
笑ってしまった。
「分かった」
「凪も選択してください」
「うん。一緒に決めよう」
「はい」
明日の朝に何を食べるかは、まだ決まっていない。
次に見る映画も、これから選ぶ。
そのくらいでよかった。
アリスの指が、俺の指を少し強く握る。
俺も握り返した。
「凪」
「何?」
「帰宅時の挨拶を実施していませんでした」
「そういえば、そうだね」
アリスが身体を起こす。
真正面から俺を見る。
「おかえりなさい、凪」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
「ただいま」
繋いだ手を離さないまま、俺も返す。
「アリスも、おかえり」
「はい」
柔らかなパーカーの袖。
左手のリング。
空になったピザの箱。
まだ少し冷たいコーラ。
見終えたばかりの恋愛映画。
俺が指を握り返すと、アリスはただ、嬉しそうに笑った。
― 完 ―
最初は、命令がなければソファに座ることさえできなかったアリス。
ピザは「追加検証」。
コーラは「継続」。
恋愛映画は「教師データ」。
凪へ触れたい理由も、自分では分かりませんでした。
今は違います。
自分でピザを選び。
好きな温度のコーラを用意し。
見たい映画を選び。
自分から凪の隣を空けて待っています。
そして、かつて一つずつ分類しようとしていた感情を。
もう分ける必要はないと知りました。
「これが、幸せなのですね」
恋愛映画も、もう教材ではありません。
二人で見たいから見る。
それだけです。
そして映画の途中。
「映画終了後、キスを要求します」
少し考えて。
「訂正します」
「キスしてください」
さらにもう一度。
「お願いです」
命令ではなく。
教師データでもなく。
自分で望んで、自分で選ぶ。
人類最強の「白い死神」は今日も凪の隣で。
ただ、嬉しそうに笑っています。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




