第28話 ヤキモチの再燃と、恋人の権利
基地で、凪が昔の女性知人と再会しました。
懐かしそうに話す二人。
アリスは何も止めません。
外では、いつも通り冷静です。
けれど帰宅すると。
いつもより近い。
そして今度は、迷わず自分で言います。
「嫉妬しています」
その日、基地での調整は予定より早く終わった。
アリスの右脚駆動系に出ていた微細な偏差は、部品の摩耗ではなく制御値のずれだった。
補正を反映すると、波形は規定値の中央へ綺麗に戻る。
「これで大丈夫。違和感ある?」
「ありません。応答遅延も許容範囲内です」
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
「了解しました」
端末を閉じる。
黒い高機能戦闘服で立つアリスは、基地で見るいつもの姿だった。
任務中なら、俺が異常を言葉にするより早く危険を排除する。わずかな制御値の乱れさえ見逃さない、人類軍最高性能の戦闘アンドロイド。
そんなアリスが、その数分後には俺の笑った回数まで拾っていた。
「凪?」
調整区画を出たところで呼び止められる。
振り返ると、通路の向こうから女性技師が歩いてきていた。
「美月さん?」
「やっぱり凪だ。久しぶり」
城戸美月。
俺が軍の外部委託へ入ったばかりの頃、同じ技術研修を受けていた技師だ。
所属が変わってからはほとんど会っていない。ただ、研修中には同じ端末を覗き込みながら、朝まで試験機のログを追ったこともある。
「ほんと久しぶりですね。こっち戻ってたんですか」
「今週だけ。新型関節制御系の引き継ぎ」
美月さんが俺の顔を見て笑う。
「相変わらず眠そう」
「それは昔からです」
「昔よりひどくない?」
「最近はちゃんと寝てますよ」
「へえ。凪が?」
「その反応は失礼じゃないですか」
「研修中、端末抱えたまま床で寝てた人が何言ってるの」
「あれ一回だけですよ」
「三回」
「……そんなに?」
「三回」
記憶を掘り返してみる。
否定できる材料が出てこなかった。
「美月さんも寝落ちしてましたよね」
「私は椅子」
「寝てたことは同じじゃないですか」
「床と椅子はかなり違う」
笑われて、俺もつられて笑う。
研修室のぬるい缶コーヒーや、深夜に壊れた自販機まで思い出した。
そのとき、視界の端に銀白色の髪が入った。
アリスは半歩後ろに立っている。
会話へ割り込まない。
姿勢も表情も、基地にいるときと変わらない。
美月さんが気づいて会釈すると、アリスも静かに頭を下げた。
「こちらが例のアリス?」
「はい。俺が外部調整を担当してます」
「噂は聞いてる。本当に人間にしか見えないね」
「ありがとうございます」
「凪が担当なら、その辺は安心か。昔から機械の音だけは異常に聞き分けるし」
「だけ、は余計ですよ」
「私生活は壊滅してたでしょ」
「昔の話です」
「今は違うんだ?」
何気ない問いだった。
けれど、俺が答えるより先に美月さんの視線がアリスへ移る。
つられて俺もそちらを見た。
アリスは何も言わない。
ただ、一度だけ俺を見た。
「……まあ、改善しました」
「何その答え」
美月さんがまた笑う。
そのとき、手元の端末が鳴った。
「あ、まずい。夫に頼まれた土産買う時間なくなる」
「結婚したんでしたっけ」
「三年前。写真も見せた」
「たぶんその頃、ずっと寝不足で」
「最低」
「すみません」
「今度会ったらちゃんと覚えててよ」
美月さんは笑いながら手を振り、通路の角へ消えていった。
隣を見る。
アリスも、その背中を見ていた。
「帰ろうか」
「はい」
返事はいつも通りだった。
だから、それ以上は聞かなかった。
*
違和感が形になったのは、帰りの電車だった。
座席には余裕がある。
なのに、アリスの肩が俺の腕へ触れていた。
電車が揺れる。
ネイビーのコート越しに、人肌に近い温度が伝わってきた。
姿勢を変えてみる。
離れた肩が、しばらくするとまた触れる。
「アリス」
「はい」
「今日は近いね」
「認識しています」
「わざと?」
「はい」
そこは迷わないらしい。
「何かあった?」
アリスは正面を見たまま、膝の上で指を組み直した。
「現在、回答を整理しています」
「分かった」
なら、急がせなくていい。
「言葉になったら教えて」
「はい」
次の駅で何人か降り、車内はさらに空いた。
それでも肩は離れない。
電車を降りれば、今度は指先が俺のコートの袖へ触れた。
家までの道も空いている。
はぐれる理由はない。
それでも、その指は離れなかった。
*
帰宅すると、アリスはいつもの大きなパーカーへ着替えた。
俺が冷蔵庫からコーラを二本持って戻る。
ソファでは、アリスが俺の座る場所を空けて待っていた。
ただし、狭い。
「そこ?」
「はい」
「今日、距離近めだね」
「意図的です」
「やっぱり」
腰を下ろすと、すぐ肩が触れた。
パーカーの袖から出た指が、今度は俺の手首へ添えられる。
「どれくらい近くしてるの?」
「通常時より十二ミリです」
「そこは測ってるんだ」
「姿勢自由度を維持できる範囲で最大限接近しています」
「かなり本気だね」
「はい」
笑いそうになった。
でも、手首に触れる指は離れない。
映画を選ぶために持ってきた端末をローテーブルへ置く。
待つ。
アリスが自分で言葉を見つけるまで。
やがて、肩に触れていた身体がこちらを向いた。
「凪」
「ん?」
「嫉妬しています」
まっすぐな言葉だった。
前には、名前すら分からなかった感情だ。
「分かったんだね」
「はい」
アリスは自分の胸元へ視線を落とした。
「今日、美月さんと凪が会話している間、不快反応が発生しました」
「うん」
「凪の笑顔を七回確認しています」
「数えてたの?」
「自動認識です」
「美月さんのも?」
「九回です」
「そっちまで……」
「会話時間は四分十二秒でした」
「完全に記録されてるね」
「はい」
声は冷静だ。
ただ、俺の手首に触れる指だけが、少し強い。
「美月さんが既婚者であることも認識しました」
「うん」
「凪との会話内容にも、恋愛的接近を示す要素は確認されていません」
「そうだね」
「したがって、対人関係上の脅威評価は低いです」
そこまで言って、アリスが俺を見る。
「ですが、不快反応は消失しませんでした」
可愛い。
一瞬そう思った。
でも、それより先に聞く。
「つらかった?」
「軽度です」
「今も?」
「残っています」
「美月さんと、もう話さないでほしい?」
アリスは黙った。
手首へ残る指の圧だけが、答えを考えていることを伝えてくる。
「いいえ」
やがて、首を振った。
「業務上必要な会話を制限する理由はありません」
それから、一度言葉を切る。
「業務以外でも、凪の交友関係を私が制限することは適切ではないと判断します」
「恋人だからって?」
「はい」
アリスの声は静かだった。
「私が凪の恋人であることは、凪の他者との関係を管理する権限ではありません」
思わず息を止める。
「嫉妬していることと、凪の行動を制限することは、分けて扱うべきです」
前に同じような不快反応を示したとき、アリスはその正体すら分からなかった。
今は、自分で名前をつけられる。
嫌だとも言える。
それでも、その嫌さを理由に俺の選択まで奪おうとはしない。
「アリス」
「はい」
「じゃあ、俺にしてほしいことはある?」
目が合う。
「それを検討しています」
「うん」
「確認があります」
「何?」
「恋人は、自分が不安な場合、相手へ安心を求めてもよいのですか」
「いいと思うよ」
「恋人の権利ですか」
少し考える。
「権利って言うと、相手が必ず応じなきゃいけないみたいになるかな」
アリスは黙って聞いている。
「でも、不安だとか、こうしてほしいって伝えるのはいいと思う」
「要求ではなく、希望として?」
「うん」
手首に触れている指へ、自分の手を重ねる。
「俺だって、アリスに安心させてほしい日があると思うし」
「その場合は、伝えてください」
「そうする」
「私も伝えてよいですか」
「もちろん」
アリスは重なった手を見た。
「では」
今度は迷わない。
「今日は、凪に近くにいてほしいです」
「うん」
「可能であれば、抱擁も希望します」
胸の奥が柔らかくなる。
「俺も抱きしめたい」
アリスの身体がこちらを向く。
俺も腕を広げた。
そのまま胸元へ入ってくる。
背中へ腕を回すと、パーカー越しの温度が近づいた。
額が肩口へ触れる。
映画は始めない。
コーラも開けない。
しばらく、どちらも話さなかった。
「アリス」
「はい」
「美月さんと話したのは楽しかったよ」
胸元で、身体がわずかに動いた。
「はい」
「昔の知り合いだから」
「認識しています」
「でも、それとアリスが大事なのは別の話だよ」
腕の中が静かになる。
「俺が恋人になりたいって思ったのは、アリスだから」
背中へ回っていた腕に、少しだけ力が加わった。
「現在も?」
「うん」
「変更ありませんか」
「ないよ」
額が、もう少し深く胸元へ預けられる。
「確認しました」
その声は、さっきより少しだけ小さかった。
「楽になった?」
「はい」
短い間を置く。
「かなり」
「よかった」
背中を撫でようとして、手を止める。
「撫でてもいい?」
「希望します」
ゆっくり背中を撫でた。
一度。
もう一度。
アリスは回数を報告しない。
胸元へ身体を預けたまま、腕の力だけが少しずつ緩んでいった。
「凪」
「何?」
「訂正があります」
「うん」
「先ほど、恋人の権利という表現を使用しました」
「そうだったね」
「権利ではありませんでした」
顔が上がる。
「希望を伝えられることが、重要です」
「俺もそう思う」
「そして」
アリスの手が俺の手を探した。
指が重なる。
「凪が応じるかどうかも、凪が選択します」
「うん」
「今日は、応じました」
「俺もそうしたかったからね」
アリスは俺を見つめた。
やがて、口元が柔らかく緩む。
「それが、嬉しいです」
「俺も嬉しいよ」
今度こそ映画を再生しようと、端末へ手を伸ばす。
繋いだ手は、そのまま。
「映画、見る?」
「はい」
「何か見たいのある?」
「あります」
「どれ?」
アリスが画面へ視線を移した。
「嫉妬が原因で恋人同士が喧嘩する作品です」
「今日それ選ぶの?」
「はい」
「教師データ?」
「いいえ」
返事は即座だった。
「比較でもありません」
「じゃあ、どうして?」
アリスは画面を見たあと、また俺の肩へ身体を預けた。
「今の私なら、以前とは違う感想になると思います」
「それは気になるね」
「凪も見たいですか」
「うん。一緒に見ようか」
「了解しました」
再生ボタンを押す。
画面の中では、恋人同士がまだ互いの気持ちを言えずにすれ違っている。
隣では、アリスが俺の手を握っている。
しばらくして、指先が一度だけ動いた。
俺も握り返した。
今夜は、それで十分だった。
以前は、名前すら分からなかった不快反応。
今のアリスには分かります。
「私の嫉妬です」
けれど、嫉妬したからといって凪を縛ろうとはしません。
代わりに。
自分がどうしてほしいのかを伝えます。
「今日は、いつもより多くキスしてほしいです」
一回目。
映画を再生しようとすると。
「凪」
「何?」
「『いつもより多く』です」
二回目。
「満足した?」
「現時点では」
――現時点、らしいです。
次回。
今度は凪の方から、二人の未来について答えを出します。




