第27話 映画を越えた、初めてのデート
「本日は映画開始前に実施しますか。それとも終了後ですか」
「もうキスが選択制なんだ」
恋人になってから、すっかり変わったソファの夜。
そんな二人が迎える、初めての正式なデート。
服も。
行き先も。
食べたいものも。
今日はアリス自身が選びます。
映画の再生画面を開いたところで、指が止まった。
恋人になってからも、俺たちの生活は驚くほど変わっていない。
同じ部屋で朝を迎え、飯を食べる。俺が設備室へ入れば、アリスも近くにいる。夜になればソファへ並び、映画を見る。
手を繋ぐ回数は増えた。
抱きしめることも増えた。
キスもした。
それでも、二人で外へ出るとなれば、基地への移動か生活用品の買い出しばかりだった。
画面には、これから見る恋愛映画の紹介画像が並んでいる。
その一枚では、恋人らしい二人が街を歩いていた。
けれど、それを見たから思いついたわけじゃない。
隣を見る。
アリスは再生ボタンへ指を置いたまま、俺がいつまでも押さないことを不思議そうに待っていた。
「アリス」
「はい」
「今度の休み、二人で出かけない?」
指が止まる。
「外出ですか」
「うん。仕事でも買い出しでもなくて」
言葉にすると、思っていたより照れくさい。
でも、アリスが何かを望むまで待つだけなのは、もう違う気がした。
俺が、アリスと行きたい。
「デート、しない?」
アリスは俺を見る。
問いの意味を解析しているというより、自分の中を確かめているような沈黙だった。
「希望します」
やがて、短く答える。
「私も、凪とデートをしたいです」
胸の奥が軽く跳ねた。
「じゃあ決まりだね」
「はい」
「行き先は、その日に決める?」
「事前計画を作成しないのですか」
「せっかくだから、あんまり決めすぎないで歩いてみたいかな」
「非効率です」
「嫌?」
「いいえ」
アリスは再生ボタンから指を離した。
「それも、してみたいです」
結局、その夜の映画が始まったのは、それからしばらく後だった。
*
次の休日。
俺が出かける準備を終えても、アリスはまだ寝室から出てこなかった。
普段なら、着替えにかかる時間なんて俺よりずっと短い。
ソファへ座って端末を開いてみたものの、同じ画面を何度も上下させるばかりで、内容はほとんど頭に入ってこない。
「凪」
声に顔を上げた。
そのまま、指が止まる。
アイボリーの柔らかなニット。
黒の台形ミニスカート。
脚には薄手の黒いタイツ、足元はショートブーツ。
顎下までの銀白色の髪には、クリスマスに渡した琥珀色の石のヘアピンが留められている。
いつもの機能優先の私服とも、基地の戦闘服とも違う。
なのに、こちらの反応を待つ姿勢だけはいつものアリスで、その組み合わせに余計に目を奪われた。
「……どうですか」
「似合ってる」
「評価が短いです」
「ちゃんと見ると、少し緊張するから」
「なぜですか」
そこを聞かれると困る。
顔を見る。
ヘアピンを見る。
そこまではいい。
視線がそのまま下へ落ちかけ、慌てて顔へ戻した。
「視線移動を確認しました」
「そこまで拾わなくていいかな」
「自動認識です」
「便利なのか困るのか分からないね」
アリスは自分の服へ目を落とし、ニットの裾を指先で整えた。
「この服装は、凪が好むと推定して選択したものではありません」
「うん」
「私が、これを着たいと思いました」
その言葉で、気恥ずかしさが少しほどける。
「それが一番いいと思う」
「ただし、凪の評価も重要です」
「じゃあ、もう一回言うね」
今度は逃げずに見る。
「すごく似合ってる。可愛いよ」
アリスの口元が、ごくわずかに緩んだ。
「記録します」
「そこは記録するんだ」
「重要事項です」
俺に関係する重要事項だけが、最近やけに増えている。
*
外へ出ると、冬の終わりの空気はまだ冷たかった。
玄関を閉めたアリスの髪が、風に揺れる。
駅へ向かいながら、いつもの癖で予定を確認しかけてやめた。
今日は最短経路を選ぶ必要もない。
何時までに何かを終える必要もない。
「最初、どこ行く?」
「候補は三つあります」
「アリスが選んでいいよ」
「凪に希望はありますか」
「あるけど、今日はアリスが行きたいところを知りたいかな」
歩調は変わらない。
ただ、視線が駅前の案内表示へ移った。
「書店へ行きたいです」
「本?」
「以前視聴した映画の原作小説を読みたいです。映像との差異にも興味があります」
「教師データとして?」
「いいえ」
返事は早かった。
「読みたいです」
「じゃあ、書店にしよう」
「はい」
大型書店へ入ると、アリスは恋愛小説の棚の前で思った以上に長く足を止めた。
何冊か手に取る。
冒頭を読む。
棚へ戻す。
また別の一冊を開く。
以前なら、登場人物の言動から対人反応を拾い出していたのかもしれない。
今日は何も言わない。
やがて、一冊だけを胸元へ抱えた。
「それにするんだ」
「はい」
「どうして?」
「文章が好ましいです」
「いいね」
「はい」
それだけで決めた。
会計へ向かう途中、今度は雑貨の棚の前で足が止まる。
文房具や小さなポーチに混じって、金属製の栞が並んでいた。
アリスが見ているのは、琥珀色の小さな石が埋め込まれた一本。
髪に留めたヘアピンと、よく似た色だった。
「気になる?」
「はい」
「欲しい?」
栞を見たまま答える。
「実用上は、現在所持している紙製の栞で十分です」
「うん」
「追加購入の必要性は低いです」
「それでも見てるね」
「はい」
視線が栞へ戻る。
やがて、自分から手を伸ばした。
「購入します」
「決めたんだ」
「はい」
「理由は?」
琥珀色の石を指先で確かめる。
「これが欲しいです」
思わず笑った。
「じゃあ、それにしよう」
「自分で購入します」
「うん」
アリスは栞と本を持ってレジへ向かった。
戻ってくるなり、買ったばかりの栞を本へ挟む。
直後、指先が位置を修正した。
「そこまで合わせる?」
「中心から〇・八ミリずれていました」
「そこはいつものアリスだね」
「問題がありますか」
「ないよ。むしろ安心した」
栞をもう一度だけ確認する。
今度は、その位置を動かさなかった。
*
書店を出てしばらく歩いたところで、アリスの視線が一軒のカフェへ留まった。
大通りから外れた、小さな店だった。
「入りたい?」
「はい」
「じゃあ入ろうか」
窓際の二人席へ座る。
俺はコーヒー。
アリスはメニューを眺め、ミルクティーと小さな焼き菓子を選んだ。
「コーラじゃないんだ」
「今日は、こちらを飲みたいです」
「いいね」
湯気の向こうで、アリスがカップへ口をつける。
「どう?」
「好ましいです」
「ミルクティー?」
「はい」
そこで終わると思った。
けれど、カップを置いたアリスが俺を見る。
「この場所に凪といることも、好ましいです」
持ち上げかけたコーヒーが止まった。
「そういうの、不意打ちで言うよね」
「不適切でしたか」
「逆。嬉しい」
「確認しました」
それ以上は何も足さず、またミルクティーを飲む。
しばらくして、焼き菓子の皿が俺の方へ滑ってきた。
「凪」
「ん?」
「一口、食べますか」
「俺に?」
「はい」
皿へ視線を落とす。
「共有したいです」
「じゃあ、もらおうかな」
一片を口へ運ぶ。
バターの香りと、控えめな甘さ。
「美味しいね」
「はい」
「アリスが選んだの、当たりだった」
残った焼き菓子を見てから、アリスが言う。
「次回も選択候補に含めます」
「次回?」
「次のデートです」
今度は俺が止まる番だった。
「もう次もある前提なんだ」
「私は希望しています」
最初に誘ったのは俺だった。
その続きを、アリスの方から当然みたいに置かれる。
「俺も、また行きたい」
「では、次回があります」
「決定なんだ」
「相互希望を確認しました」
そう言って、アリスは残りのミルクティーを飲んだ。
俺はカップへ口をつけながら、もう次はどこへ行こうか考えていた。
*
店を出てからは、予定を決めなかった。
大通りを外れ、静かな道へ入る。
気になったショーウィンドウの前で足を止め、満足すればまた歩く。
目的地がないせいか、いつもよりアリスの視線がよく動いていた。
基地なら最短経路を選ぶ。
任務なら無駄な移動を嫌う。
今日は、曲がる必要のない角で足を止めた。
「アリス?」
「こちらを歩きたいです」
視線の先には、少し遠回りになる並木道がある。
「結構遠くなるよ」
「認識しています」
「効率悪いけど、大丈夫?」
「今日は効率を優先していません」
「じゃあ、行こう」
「はい」
横断歩道を渡り、並木道へ入る。
人通りは多くない。
はぐれる心配もない。
それでも、隣を歩く手が気になった。
最初に手を繋いだ夜は、はぐれ防止だった。
その後は、アリスの方から握ってくることも増えた。
今日は、俺が繋ぎたい。
「アリス」
「はい」
右手を差し出す。
「手、繋ぎたいんだけど。アリスは?」
アリスは差し出した手を見る。
それから俺へ視線を戻した。
「私も繋ぎたいです」
指先が触れる。
こちらから指を絡めると、アリスも握り返した。
人肌に近い温度が掌へ移る。
そのまま歩き出す。
人混みはない。
離れたって迷わない。
アリスの指は、俺の指から離れなかった。
*
夕方。
駅へ戻るころには、空が薄い橙色へ変わっていた。
アリスは買った本の袋を片手に持ち、もう片方の手を俺と繋いでいる。
「今日、どうだった?」
「好ましい一日でした」
「点数つける?」
「数値化は不要です」
「珍しいなあ」
歩く速度が緩んだ。
俺も合わせる。
「本日の行動では、恋愛作品のデータをほとんど参照していません」
「うん」
「映画も好きです。今後も視聴を希望します」
「それはよかった」
「ですが」
アリスがこちらを見る。
「今日は必要ありませんでした」
夕方の光が、瞳の中へ淡く映る。
「書店へ行きたいと思ったことも、あの栞を欲しいと思ったことも、ミルクティーを選んだことも、遠回りをしたことも」
繋いだ手に力が加わる。
「すべて、私がしたいことです」
胸の奥が静かに熱くなった。
「うん」
それだけ返す。
「凪」
「何?」
「私は、今日のデートが好きです」
好き。
今度は、人でも食べ物でもなく、自分で選んだ一日へ使った。
「俺も好きだよ」
「次回も希望します」
「うん。また行こう」
「了解しました」
歩き出すと思った。
けれど、アリスはその場に止まったままだった。
繋がった手に引かれ、俺も足を止める。
建物の隙間から差す夕方の光が、髪の端と琥珀色のヘアピンを柔らかく照らしていた。
「凪」
「うん」
「もう一つあります」
「何が?」
「今日、私がしたいことです」
アリスが一歩近づく。
何をしようとしているのか分かった。
それでも、俺からは動かない。
アリスが俺の顔を見る。
「キスしてもいいですか」
「うん」
ほんの少し、背伸びをする。
唇が重なった。
短く触れて、離れる。
手は、繋がったまま。
アリスは近い距離から俺を見上げていた。
「……驚きましたか」
「少し」
「不快でしたか」
「全然」
笑いながら握った手へ力を返す。
「嬉しいよ」
「私もです」
アリスの口元が、柔らかく緩んだ。
「帰ろうか」
「はい」
二人でまた歩き出す。
しばらくして、隣から声がした。
「凪」
「ん?」
「次の休日も空いていますか」
思わず横を見る。
「もう次のデート?」
「希望します」
「早いね」
「問題がありますか」
「ないよ」
「では、次回の行き先を決めます」
「今決める?」
「いいえ」
アリスは前を向いた。
「その時、行きたい場所を決めます」
思わず笑った。
「うん。それがいいね」
繋いだ手に、もう一度だけ力が加わった。
自分で選んだ服。
自分で入りたいと思った店。
自分で歩きたいと思った道。
今日のアリスは、ほとんど恋愛作品を参照しませんでした。
「映画も好きです。ですが今日は必要ありませんでした」
そして。
「これは、私がしたいことです」
その言葉のあと。
もう一つ、自分でしたいことを選びます。
今度は、アリスの方から。
「キスしてもいいですか」
初めての、自発的な唇へのキス。
次回。
かつて名前すら分からなかった感情――嫉妬が、もう一度やって来ます。




