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第26話 失敗オムライスと、ハートの意味

人類最強の演算能力。


完璧な計測精度。


精密な動作制御。


そんなアリスが苦戦しているもの。


それは――オムライス。


「弱火」


「適量」


「半熟」


人間のレシピは、曖昧すぎます。


それでもアリスは言います。


「作りたいです」


凪のために。

 昼前、キッチンから聞き慣れない音がした。


 油のはぜる音。


 続いて、金属製のボウルがカウンターへ置かれる。


 ソファから顔を上げると、アリスがコンロの前に立っていた。


 いつものぶかぶかのパーカーは、袖を肘の近くまできっちり折ってある。髪も片側だけ耳へかけられ、カウンターには切り揃えられた玉ねぎと鶏肉、それから炊きたてのご飯。


「何してるの?」


「昼食を作ります」


「それは見れば分かるかな。急にどうしたの?」


 アリスは手元の端末へ視線を落とした。


 表示されているのは、オムライスのレシピ。


 一つではない。


 三種類のレシピが並び、分量や加熱時間の違いまで比較されている。


「以前の失敗を、未修正のまま残しています」


 その言葉で、風邪を引いた日の鍋が頭へ浮かんだ。


「お粥?」


「はい」


「まだ気にしてたんだ」


「あれは成功例ではありません」


「俺は嬉しかったけどね」


「味覚評価と調理精度は別です」


「そういうところは変わらないなあ」


「変更の必要性を認めません」


 迷いのない返事だった。


 俺が笑っている間にも、フライパンから少し強い音が続いている。


「アリス、火ちょっと強くない?」


「弱火です」


「うちのコンロ、弱火でも結構強いんだよね」


 表示と炎を見比べる。


「規格値との差異を確認しました」


「古いからね」


「補正します」


 すぐに火力を落とした。


 戦闘時なら一瞬で状況へ適応する人類最強のアンドロイドが、今は古いコンロの癖へ本気で対応している。


「無理して作らなくても大丈夫だよ」


 卵を混ぜていた手が止まった。


 アリスがこちらを見る。


「無理はしていません」


「うん」


「作りたいです」


 短い返事。


 そのまま、もう一言続いた。


「凪が食べるものを、私が作りたいです」


 胸の奥が少し熱くなる。


 前のお粥には、具合の悪い俺を回復させるという目的があった。


 今日は、頼んでもいない。


 俺も元気だ。


「じゃあ、お願いしようかな」


「はい」


「必要になったら呼んで。俺が全部やったら、アリスが作ったことにならないから」


「了解しました」


「ただ、このコンロの癖だけは教えるよ」


「お願いします」


 アリスが少し横へずれる。


 その隣に立ち、二人で古いコンロの火を見た。


 世界最高水準の戦闘演算を積んだアンドロイドと、弱火の癖について話している。


 かなり贅沢な性能の使い方だった。



   *



「適量という表現は不正確です」


 ケチャップのボトルを持ったまま、アリスがわずかに眉を寄せていた。


「料理のレシピって、そういうの多いよ」


「大さじ単位で指定すべきです」


「好みで変わるからね」


「では、凪の好みを数値化します」


「今日一回で?」


「継続観測すれば可能です」


「そこまでしなくても大丈夫だよ」


「再現性は重要です」


 いつかコーヒーの温度を詰めていたときと、ほとんど同じ顔だった。


「ケチャップライスは、もうかなり美味しそうだよ」


「外観評価ではなく、味覚評価が必要です」


「そこはあとでちゃんとする」


 玉ねぎも鶏肉も、怖いくらい均等に切られている。


 火の入り方にもほとんどむらがない。


 問題は、卵だった。


「半熟の定義を確認したいです」


「それが難しいんだよね」


「加熱時間で指定してください」


「火力とかフライパンで変わるから」


「では、表面温度と中心温度を計測します」


「料理でそこまでやる人、あんまりいないかな」


「誤差を減らせます」


「少しくらい違っても、美味しいよ」


 アリスの視線が止まる。


「誤差を許容するのですか」


「家で作る料理なら、毎回ちょっと違うくらいでもいいんじゃない?」


 フライパンを見る。


「一回だけ、数字を見ないでやってみる?」


「目視のみですか」


「そう。表面を見て、今だと思ったところで止める」


「判断基準が曖昧です」


「うん」


「成功率が低下します」


「たぶんね」


 フライパンと俺を見比べる。


「凪は、それでよいのですか」


「アリスが作ってくれるなら、それでいいよ」


 しばらく俺を見たあと、アリスは端末の温度表示を閉じた。


「……実行します」


 卵液がフライパンへ落ちる。


 じゅ、と柔らかな音が広がった。


 黄色が端からゆっくり固まっていく。


 アリスは温度表示を見ない。


 箸で中央を一度だけ寄せ、表面を見つめる。


 いつもなら一瞬で終わるはずの判断に、今日は少し時間がかかった。


「……今です」


 火を止める。


 ケチャップライスへ卵を滑らせる。


 あと少し。


 そう思ったところで、端が折れた。


「あ」


 俺より先に声を漏らしたのは、アリスだった。


「破損しました」


「ちょっとだけね」


「左右非対称です」


「オムライスだから大丈夫だよ」


「外観評価が低下します」


「俺は、それくらいの方が好きかも」


 アリスがこちらを見る。


「根拠は?」


「アリスが作った感じがするから」


 視線が、崩れた卵へ戻る。


 指先が一度だけ動いた。


 形を整えようとしたのだと思う。


 でも、その手は皿へ触れる前に止まった。


「……修正は不要ですか」


「うん。そのままがいい」


 アリスは折れた端を見つめる。


「了解しました」


 手が下がる。


 崩れた卵は、崩れたまま残った。



   *



 完成したオムライスを前にしても、アリスはまだ座らなかった。


「何か忘れた?」


「最終工程があります」


 冷蔵庫からケチャップを取り出した時点で、何をするのか分かった。


 黙って見ている。


 ボトルの先端が卵の上を動く。


 右に曲線。


 反対側にも曲線。


 二本が下でつながり、少し角張ったハートになった。


「……それは?」


「好意を示す記号です」


「うん。見れば分かるかな」


「恋愛作品で頻出します」


 そこで、アリスは皿へ視線を落とした。


「ですが、模倣を目的としていません」


「じゃあ、どうして?」


 ハートを見たまま答える。


「使いたかったので」


 それ以上、理由を聞く必要はなかった。


「ありがとう」


「味覚評価はまだです」


「そこはこれからだね」


 スプーンを入れる。


 卵には少し火が入りすぎたところと、柔らかいところが混じっている。


 ケチャップライスも、俺が作るものより少し甘い。


 一口。


 卵のあとから、トマトの酸味と玉ねぎの甘さが広がった。


「美味しい」


 アリスの視線がすぐ上がる。


「客観評価ですか」


「俺の感想」


「改善点は?」


「あるけど、美味しいが先かな」


「順序に意味がありますか」


「あるよ」


 もう一口食べる。


 ハートの端が、スプーンで少し崩れた。


「アリスが俺のために作ってくれたのも嬉しい」


 返事はなかった。


 代わりに、向かいにあった椅子が引かれる。


 アリスはそれを俺の隣まで運び、座った。


 肩が触れる。


「近いね」


「凪が嬉しいと回答したため、追加観測を――」


 途中で止まる。


「アリス?」


「訂正します」


 少しだけ、肩の触れ方が深くなった。


「私が近くにいたいです」


 思わず笑う。


「うん」


 俺も少しだけ寄った。


 アリスは離れない。


「次は、もっと綺麗に作れそう?」


「はい。コンロの火力特性を学習しました」


「数字を見ないんじゃなかった?」


「数値情報を禁止されたわけではありません」


「そこは使うんだ」


「改善可能な点は改善します」


「じゃあ、この崩れたところは?」


 皿を指す。


 アリスは食べかけのオムライスを見る。


「今回は、修正しません」


「どうして?」


 今度は答えが少し遅れた。


「凪が、この状態を好ましいと評価しました」


「うん」


「それに」


 折れた卵へ視線を落とす。


「私も、残したいです」


 スプーンを持った手が止まった。


「分かった」


「はい」


 皿の上からハートも崩れた卵もなくなるまで、俺は全部食べた。



   *



 食器を片づけ、ソファへ戻る。


 俺が端末へ手を伸ばしたところで、パーカーの袖から出た指先が袖口を軽く引いた。


「凪」


「ん?」


「報酬を希望します」


「報酬?」


「本日の調理行為に対するものです」


「何がいい?」


 アリスは迷わず俺を見る。


「キスしてください」


 昨日ほど驚かなかった。


 でも、心臓は正直だった。


「それがいいの?」


「はい」


「アリスがしたい?」


「はい。希望します」


「分かった」


 身体を向ける。


 アリスもこちらを向いた。


「顔に触れても大丈夫?」


「はい」


 頬へ手を添える。


 その手へ、アリスが少しだけ顔を預けた。


 ゆっくり距離を詰める。


 唇が重なる。


 短く、柔らかく。


 離れると、アリスは俺を見たままだった。


「どう?」


「好ましいです」


「それならよかった」


 頬から手を下ろす。


 アリスはもう一度を求めなかった。


 代わりに、そのまま俺の肩へ寄りかかる。


「凪」


「何?」


「次回も料理を作りたいです」


「うん。楽しみにしてる」


「改善点を反映します」


「完璧にしなくてもいいよ」


「なぜですか」


 昼の皿を思い出す。


「今日みたいなのも、好きだから」


 アリスは黙った。


 俺の袖を掴んでいた指が、ゆっくり手の方へ移動してくる。


 指先が触れた。


 掌を返す。


 すぐに指が重なった。


「次は何作る?」


「未定です」


「ハートは?」


 肩に触れていた頭が、少しだけこちらへ向く。


「その時、使いたければ使います」


 絡んだ指に、わずかに力が加わった。


「うん」


 俺は映画の一覧を開く。


 アリスは肩を寄せたまま、今夜見る一本を選び始めた。

完成したオムライスは、少し不格好。


その上には、ケチャップのハート。


「好意を示す記号です」


そして一拍。


「使いたかったので」


凪の「美味しい」と「嬉しい」を受け取ったアリスは、報酬を希望します。


「キスしてください」


一度、キス。


短く離れると。


「……不足しています」


恋人になった「白い死神」は、追加要求まで覚えました。


次回。


二人は初めて、恋愛映画をお手本にしないデートへ出かけます。

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