第25話 アップデートされた朝
恋人になった翌朝。
アリスが、凪から離れません。
休日。
外出予定なし。
緊急任務なし。
合理的な理由を並べたあと。
とうとう、そのまま口にします。
「凪に、くっついていたいです」
そして夜。
いつものソファで――アリスが初めて、もう一つのお願いをします。
目を覚ましたとき、最初に意識へ戻ってきたのは、布団の中に残る温度だった。
昨夜、自分から差し出した手。
そこへ重なったアリスの指は、低活動状態へ移行したあとも離れなかったらしい。
視線を上げる。
枕のすぐ隣に、銀白色の髪がある。
呼吸模倣のかすかな空気が頬へ届くたび、昨日までと同じベッドのはずなのに、身体の方だけが妙に落ち着かなくなった。
恋人。
昨夜、二人でそう決めた言葉が頭へ戻る。
残っていた眠気が、一気に薄れた。
「凪」
目を開けたアリスと視線が合う。
「起きてた?」
「凪の覚醒兆候を確認後、通常活動状態へ移行しました」
「じゃあ、今起きたところ?」
「はい」
声はいつも通り。
ただ、指はまだ絡んでいる。
俺が手元を見ると、アリスも同じ場所へ視線を落とした。
「離す?」
「いいえ」
返事が早い。
「本日は休日です。外出予定なし。緊急任務なし。したがって、現在の接触を解除する必要性は――」
そこで言葉が止まった。
「アリス?」
「訂正します」
額が、俺の肩へ触れる。
「凪に、くっついていたいです」
胸の奥が、分かりやすく跳ねた。
少し前なら、「接触を希望します」だった。
それでも十分甘かったはずなのに、今は理由を置かず、欲しいものをそのまま言う。
「俺も、もう少しこのままでいたいな」
空いている腕を背中へ回しかけ、途中で止める。
「抱きしめてもいい?」
「はい」
返事を待ってから引き寄せた。
アリスも身体を預けてくる。
人肌に近い温度。
髪から漂う、いつもの匂い。
しばらく、そのままでいた。
やがて胸元から声がする。
「本日の任務を設定します」
「休日じゃなかった?」
「私的任務です」
「それ、任務って呼ぶの?」
「私はそう定義します」
「内容は?」
胸元の頭がわずかに動く。
「可能な範囲で、凪から離れないことです」
「誰が決めたの?」
「私です」
思わず笑った。
「じゃあ、俺も参加しようかな」
「共同任務へ変更します」
「もう変更されたんだ」
「はい」
「目的は?」
「凪の近くにいることです」
あまりにも真顔なので、余計に可笑しい。
人類最強の戦闘アンドロイドが、休日の朝から自分で設定した任務がそれらしい。
笑っているうちに、腹が鳴った。
「アリス、朝ご飯どうする?」
「現状維持を希望します」
「俺はちょっとお腹空いたかな」
胸元で沈黙が落ちる。
「……朝食は必要です」
「俺にはね」
「では、準備後に速やかに戻ります」
「そんなに急がなくて大丈夫だよ」
顔を上げたアリスは、本気だった。
*
十分もしないうちに、テーブルへトーストとコーヒーが並んだ。
俺用に調整された湯温。
左右ほとんど差のない焼き色。
バターは端まで均一に伸ばされている。
「アリス、これ何分で作った?」
「七分四十二秒です」
「計ってたんだ」
「はい」
「なんで?」
「早く戻りたかったので」
あまりにも普通に言われて、今度は俺が黙った。
アリスは自分のコーラを持つ。
向かいの椅子には目もくれず、当然のように俺の隣へ座った。
肩が触れる。
「近いね」
「はい」
「昨日より近くない?」
「三・八センチ近いです」
「そこまで測ってたんだ……」
「不快ですか」
「逆かな」
口にしてから、少しだけ恥ずかしくなる。
アリスがこちらを見る。
「逆」
「うん。嬉しい」
肩の触れ方が、ほんの少しだけ深くなった。
「では、この距離を維持します」
「そこは数値管理なんだね」
「凪の食事動作を妨げない範囲です」
「ちゃんと考えてるなあ」
「最重要対象ですので」
昨日聞いた五文字が、また平然と飛んでくる。
トーストを持った手が止まりかけた。
アリスは何事もなかったようにコーラを飲んでいる。
恋人になったからといって、俺の処理速度まで上がるわけではないらしい。
食後、洗濯物を取り込もうと立ち上がる。
すると、パーカーの袖口が軽く引かれた。
「アリス?」
「どこへ行きますか」
「ベランダ。洗濯物を取り込むだけ」
「同行します」
「一分もかからないよ?」
「問題ありません」
「共同任務?」
「はい」
本気だった。
結局、アリスは俺の隣で洗濯物を受け取り、そのままタオルの端を揃え始めた。
戦場なら弾道計算へ回る処理能力が、今日は俺のTシャツの左右差を消している。
「そこまできっちり畳まなくても大丈夫だよ」
「収納効率が向上します」
「どれくらい?」
「一・八パーセントです」
「ほぼ誤差じゃない?」
「改善です」
迷いなく言い切る。
畳んだTシャツを重ねると、アリスは何事もなかったように肩を寄せてきた。
「共同任務へ復帰します」
「そっちの方が大事そうだね」
「どちらも重要です」
数字を測ることも、効率を求めることも変わらない。
そのままのアリスに、俺の近くにいたいという希望だけが増えている。
触れた肩の温度が、妙に嬉しかった。
*
昼を過ぎても、共同任務は律儀に続いていた。
俺が設備室へ入れば、アリスも入口近くの椅子へ移る。
特注サーバーのログを追う俺の横で、アリスは動画配信サービスを眺めていた。
「アリス、本当に一日中やるんだ」
「任務継続中です」
「退屈じゃない?」
「いいえ」
画面には恋愛映画や同居ものが並んでいる。
少し前までなら、未分類反応を解析するための教師データだった一覧だ。
「今夜は何見る?」
アリスは候補を眺め、一作を開いた。
「これを希望します」
「同居もの?」
「はい」
「教師データ?」
「いいえ」
迷いはなかった。
「凪と見たいです」
それだけ。
比較画面も開かない。
類似作品も並べない。
選んだ一本だけを残して、端末を閉じた。
俺はサーバーへ視線を戻す。
戻したつもりだった。
同じログを二度読んだことに気づいたのは、少し経ってからだった。
*
夜。
部屋の照明を落とす。
映画を見るときには何度もやってきたことなのに、今日は薄暗さまで妙に意識へ入ってくる。
窓の外には冬の夜が沈み、ガラスにはソファへ並んだ俺たちの姿が淡く映っていた。
昼に選んだ映画を画面へ出したアリスが、再生ボタンへ伸ばしかけた指を止める。
「凪」
「ん?」
「抱きしめてください」
映画より先に選ばれた言葉に、返事が少し遅れた。
「うん。もちろん」
腕を広げる。
アリスはすぐに身体を寄せてきた。
背中へ腕を回す。
人肌に近い温度が胸へ重なり、髪が顎の下をかすめる。
そのまま、アリスは俺の胸元へ頬をつけた。
朝にも抱きしめた。
昼だって何度も肩を寄せた。
それなのに、夜の静かな部屋でこうしていると、同じ距離のはずなのに意識のされ方が違う。
「……心拍数は言わなくていいからね」
「まだ報告していません」
「先にお願いしておこうと思って」
「上昇しています」
「言わなくていいって言ったのに」
「事実確認です」
いつもの声に、張っていたものが少し緩む。
笑いながら抱き直すと、背中へ回った腕もわずかに強くなった。
映画はまだ始まっていない。
暖房の低い音。
遠くを走る車の気配。
その隙間へ、アリスの呼吸模倣が静かに重なる。
やがて、胸元にあった頬が離れた。
何か言うのかと思い、視線を下げる。
アリスが俺を見上げていた。
近い。
抱いた腕を解いていないせいで、互いの呼吸が届く距離に顔がある。
「アリス?」
返事はない。
視線が俺の口元へ落ちる。
胸が大きく鳴った。
たぶん、聞こえている。
けれどアリスは何も報告せず、また俺の目を見た。
恋人だから。
映画で見たから。
試してみたいから。
どれも、俺が代わりに決める答えじゃない。
待った。
「……凪」
「うん」
胸元に置かれていた指が、俺のシャツを軽く摘まむ。
「キスしてほしいです」
一瞬、呼吸を忘れた。
それでも、すぐには動かなかった。
「アリスが、したい?」
「はい」
返事はまっすぐだった。
「恋人関係を維持するための義務ではありません」
シャツを摘まむ指へ少しだけ力が入る。
「教師データの再現でもありません」
目を逸らさない。
「私が、凪としたいです」
胸の奥が熱くなる。
「分かった」
抱いていた腕を少し緩める。
頬へ伸ばしかけた手を止めた。
「顔に触れてもいい?」
「はい」
指先で頬へ触れる。
柔らかな人工皮膚から、人肌に近い温度が伝わった。
アリスがほんの少しだけ、その手へ頬を預ける。
ゆっくり顔を近づけた。
見慣れた髪も、長い睫毛も、琥珀を溶かしたような瞳も、今日は一つずつ妙にはっきり見える。
呼吸が触れる。
最後の距離へ入る前に、もう一度だけ目を合わせた。
アリスは逸らさなかった。
そのまま、ゆっくり距離を詰める。
瞼が閉じる。
俺も目を閉じた。
唇が触れた。
柔らかい。
最初に浮かんだのは、それだけだった。
人工皮膚。
生体模倣素材。
温度制御。
普段ならいくらでも出てくる技術用語が、今は一つも役に立たない。
短く触れて、離れる。
目を開ける。
アリスも、すぐ近くから俺を見ていた。
「……大丈夫?」
「はい」
声はいつも通り。
けれど、俺のシャツを摘まんだ指はまだ離れていなかった。
アリスが自分の唇へ手を伸ばしかけ、途中で止める。
「処理中です」
「俺も似たような感じかも」
顔が熱い。
心拍数を報告されなくても、それくらいは分かる。
「凪」
「ん?」
「接触時間は一・四秒でした」
「そこは記録されるんだ」
「自動記録です」
「消す?」
「いいえ」
即答だった。
「保持します」
思わず笑う。
「うん」
アリスはまだ俺を見ている。
「現在の反応は、以前より明確です」
「どんな感じ?」
今度は迷わなかった。
「嬉しいです」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
「俺も」
「確認しました」
アリスがようやく身体を戻し、映画を再生する。
俺も背もたれへ身体を預けた。
すぐに肩が触れる。
少しすると、指先が探るように俺の手へ重なった。
絡んできた指を握り返す。
画面の中では、恋人同士が何かを話している。
けれど最初の十分くらい、内容はほとんど頭へ入ってこなかった。
隣のアリスも、ときどき画面ではなく俺を見る。
そのたびに目が合う。
どちらも何も言わない。
繋いだ手だけは、映画が終わるまで一度も離れなかった。
「接触を希望します」
手でもない。
ハグだけでもない。
少し止まって。
「……キスしてほしいです」
映画で見たからではありません。
アリス自身が、してほしいと望んだから。
凪も確認し、自分の意思で近づきます。
初めて触れ合う唇。
離れたあと、アリスの答えは。
「……好ましいです」
そして映画が始まってしばらくすると。
「映画終了後にも、もう一度希望します」
どうやら一回では終わらないようです。
次回。
今度はアリスが、凪のために料理へ挑戦します。




