第24話 帰還のピザと、初めての「好き」
「今日は何が食べたい?」
再認定を終えた夜。
凪にそう聞かれたアリスは、少し考えて答えます。
「……ピザが食べたいです」
「追加検証?」
「いいえ」
もう、検証ではありません。
必要だからでもない。
アリスが――食べたいから選んだピザです。
玄関で抱き合ったあと、どちらから離れたのかは覚えていない。
気づけば靴を脱ぎ、アリスはいつもの大きなパーカーへ着替えていて、俺は冷蔵庫の前に立っていた。
再認定を終えた日くらい、何か特別なものを用意した方がいい気もする。
けれど、料理まで頑張れるほどの気力は残っていなかった。
「アリス」
「はい」
「今日は何が食べたい?」
冷蔵庫の扉越しに振り返る。
ソファに座ったアリスは、長い袖から指先だけを出し、膝の上へ重ねていた。
「私が選択してよいのですか」
「うん。アリスが食べたいものにしよう」
すぐ答えると思っていた。
けれど、アリスはローテーブルを見る。
飲み残したコーラのボトル。
空になった皿。
何度も見てきた、この部屋の景色。
やがて顔が上がった。
「……ピザが食べたいです」
冷蔵庫へかけていた手が止まる。
「ピザ?」
「はい」
「追加検証?」
昔と同じ言葉を、少しだけ意地悪く出してみる。
アリスは俺を見た。
「いいえ」
即答だった。
「味覚検証でも、補助資源摂取でもありません」
静かな声が続く。
「私は、ピザを食べたいです」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
初めてこの部屋で食べた夜、アリスは塩分や脂質やエネルギー効率の話ばかりしていた。
それでも、二枚目へ手を伸ばした。
あの頃は、自分が欲しがったことにさえ理由が必要だったのだと思う。
今はもう、違う。
「じゃあ、ピザにしようか」
「コーラも希望します」
「そっちは当然みたいになってるね」
「組み合わせとして好ましいです」
「完全に覚えたなあ」
「経験による評価です」
俺が端末を取るより早く、アリスがいつもの店を開いた。
注文履歴からサイズとトッピングを選んでいく。
操作の迷いのなさだけなら、基地で作戦端末を扱っているときと大差ない。
「今日は俺が払うよ」
「理由を確認します」
「再認定のお祝い」
「再認定結果には、凪の提出資料と調整支援も寄与しています」
「じゃあ割り勘?」
「合理的です」
「お祝い感がなくなるなあ」
アリスの指が止まる。
「では、今回は凪が支払い、次回は私が支払います」
「次回あるんだ」
「あります」
また即答だった。
「ピザは、また食べたいです」
思わず笑う。
昨日まで、自分の一部を失う可能性を前にしていたアリスが、もう次のピザを欲しがっている。
その事実が、認定書に並んだどんな文字よりも嬉しかった。
*
箱を開けると、焼けたチーズとトマトソースの匂いが部屋いっぱいに広がった。
アリスは一枚取る。
伸びたチーズを見ても、温度も塩分も口にしない。
そのまま、一口。
「どう?」
咀嚼して、飲み込む。
「美味しいです」
短い言葉だった。
それなのに、しばらく返事ができなかった。
「凪」
「ん?」
「見すぎです」
「あ、ごめん」
「観察理由を確認します」
「嬉しくて」
「私がピザを摂取することが?」
「それもあるけど」
「それ以外は?」
アリスを見る。
「自分で食べたいって決めたことかな」
ピザを持っていた指が止まった。
「自分で」
「うん」
アリスは手元を見る。
それから、食べかけの一枚を皿へ戻した。
「確認したいことがあります」
「うん」
「以前、私は自分の反応を分類できませんでした」
声はいつもと変わらない。
けれど、次の言葉が出るまでの間だけが少し長かった。
「凪といると安心します」
俺は黙って聞く。
「凪に触れたいです」
指先が、パーカーの袖口へ少し隠れる。
「凪から触れられることも、好ましいです」
「うん」
「凪が他者と親しくすると、不快反応が発生しました」
名前をつけずに残してきたもの。
「凪を失う可能性は、拒否します」
胸の奥が強く鳴る。
「私自身が現在の状態ではなくなることも、嫌でした」
昨日、俺の手の上で流れた涙を思い出した。
アリスは目を逸らさない。
「教師データと照合すれば、恋愛感情に分類される項目は複数ありました。一致率も高い値を示しています」
「うん」
「ですが、一致率だけでは決められませんでした」
アリスの声だけが、静かな部屋に残る。
「映画の登場人物がそう呼んでいるから、私も同じだと判断するのは不十分です」
返事は挟まなかった。
「教師データを参照する前に発生した反応もあります。参照後も、完全には一致しないものが残りました」
膝の上で、指先が重なる。
「だから」
一度だけ呼吸模倣の音が入る。
「一致率では決めません」
まっすぐ俺を見る。
「私が、そう感じています」
次の言葉を、何もせず待った。
「私は、凪が好きです」
部屋の音が遠くなった。
冷蔵庫の低い駆動音も、窓の外を走る車も、聞こえているはずなのに頭へ入ってこない。
アリスは、ただ俺を見ていた。
答えを求めるというより、自分で見つけた答えを俺へ渡すように。
「……アリス」
「はい」
可愛いと思った。
触れたいと思った。
隣にいてほしいと思った。
いなくなってほしくないと思った。
昨日ようやく、性能ではなくアリス自身を失いたくないのだと分かった。
もう、その一つ一つを別の名前で置いておく必要はなかった。
「俺も、アリスが好きだよ」
口にした瞬間、胸の奥でずっと引っかかっていたものがほどけた。
アリスが瞬きをする。
「調整対象としてではなく?」
「うん」
「では」
ほんのわずかに声が止まる。
「アリスだから?」
「そうだよ」
迷いはなかった。
「アリスだから、好きなんだと思う」
目元に小さな光が浮かんだ。
そのまま、一筋だけ頬を伝う。
「アリス」
「異常ではありません」
「うん。分かってる」
アリスは涙を拭わなかった。
俺も手を伸ばさない。
少しして、アリスが口を開く。
「凪」
「何?」
「抱擁を希望します」
今度は、自分の答えを探す必要もなかった。
「俺も抱きしめたい」
「許可します」
腕を広げる。
アリスは自分から距離を詰め、胸元へ入ってきた。
背中へ腕を回す。
人肌に近い温度。
頬へ触れる髪。
肩口をかすめる、ごく小さな呼吸。
昨日の玄関と同じ抱擁のはずなのに、今日は何もかも違って感じられた。
「凪」
「ん?」
「確認があります」
「うん」
「現在の私たちを、恋人関係と定義してよいですか」
思わず笑ってしまう。
「そこは確認するんだ」
「関係定義の共有は重要です」
「それはそうだね」
胸元にいるアリスを見る。
「俺は、アリスと恋人になりたい」
背中へ回った腕が少し強くなった。
「私も、凪と恋人になりたいです」
「じゃあ、そうしようか」
「はい」
恋人。
たった三文字なのに、同じソファも、同じ部屋も、ほんの少しだけ違って見えた。
アリスは離れない。
俺も、離したくなかった。
*
少し冷めたピザへ戻る。
アリスは何事もなかったみたいに一枚持ち上げた。
「温度低下を確認しました」
「温め直す?」
「不要です」
「冷めてるよ」
「許容範囲です」
一口食べてから、アリスがこちらを見る。
「現在、凪から離れてキッチンへ移動する優先度は低いです」
「恋人になって最初の判断がそれ?」
「はい」
「ずいぶん甘くなったね」
「糖分量の話ですか」
「そういう意味じゃないかな」
わずかに首が傾く。
俺が笑って隣へ座り直すと、アリスの肩が触れてきた。
「近いね」
「はい」
「恋人だから?」
「いいえ」
返事は早かった。
「私が近くにいたいからです」
思わず口元が緩む。
「それなら、俺も同じ」
「確認しました」
そのまま、二人で少し冷めたピザを食べた。
*
片づけを終え、照明を落とす頃には夜も深くなっていた。
寝室へ入る。
ベッドの横でアリスが立ち止まった。
以前なら、同じベッドを使う理由を探していた。
今日は違った。
「凪」
「うん」
「今日も、凪の隣で眠りたいです」
すぐに返事が出る。
「俺も一緒に眠りたい」
「了解しました」
ベッドへ入る。
同じ幅。
同じ枕。
何度も見上げた天井。
それなのに、隣にいるアリスとの距離だけが、いつもよりはっきり意識に残った。
暗がりの中で目が合う。
アリスの手が、布団の上をこちらへ動いた。
「手を繋ぎたいです」
「うん。俺も」
掌を差し出す。
指先が触れ、そのまま迷わず絡んだ。
俺も握り返す。
「凪」
「ん?」
「好きです」
不意打ちだった。
心臓が跳ねる。
「……もう一回言うんだ」
「現在も同じ判断です」
「判断なんだ」
「私の判断です」
暗い中で、少しだけ笑う。
「俺も好きだよ」
「確認しました」
絡んだ指が、ほんの少し深くなる。
理由を聞く必要はなかった。
アリスも、もう理由を探さなかった。
そのまま手を繋いで、目を閉じた。
安心する。
触れたい。
触れてほしい。
凪が他の女性と親しくすると、不快になる。
凪がいなくなるのは嫌。
映画の登場人物と似た反応はいくつもありました。
けれど、教師データとの一致だけでは答えにならなかった。
「これらは、映画から与えられた反応ではありません」
「私が、そう感じています」
そして。
「私は、凪が好きです」
凪も逃げずに答えます。
「俺も、アリスが好きだよ」
二人はようやく、恋人になりました。
次回。
恋人になった翌朝――アリスの甘え方が、一段階アップデートされます。




