第21話 好きな映画と、初めての涙
再認定前夜。
凪が尋ねます。
「好きな映画、一本選んでみる?」
たくさんの恋愛作品を見てきたアリスが選んだのは。
二人で最初に見た、あの映画でした。
けれど再生が始まっても――アリスは画面より、凪の方を見ています。
「何を見てるの?」
「凪です」
再認定の前夜、納戸を改装した設備室で端末を閉じても、すぐには椅子から立てなかった。
提出資料は、ひとまず形になっている。
現行学習状態における長期安定性。
高次感情分類と戦闘判断の相関。
曖昧な指示への対応。
非戦闘員の拒否反応認識。
過剰出力選択率の低下。
今日一日、基地で追加ログまで洗い直した。数字として示せるものは、ほとんど拾ったつもりだ。
明日になれば、それを提出して説明する。
あとは審査側が判断する。
そこまで分かっていても、端末を閉じただけでは頭の中まで暗くなってくれなかった。
設備室を出る。
六畳の居室へ戻ると、数字より先にアリスが目へ入った。
いつもの大きなパーカーを着て、ソファに座っている。
動画配信サービスの一覧は開いたままなのに、カーソルだけが止まっていた。
「まだ決まってないの?」
「候補が多すぎます」
「珍しいね」
「再認定前夜に視聴する作品として、適切な選択条件を設定できません」
「そこまで考えなくていいと思うよ」
隣へ腰を下ろす。
アリスがこちらを向いた。
「では、凪が選択してください」
「俺が?」
「はい」
画面には、これまで一緒に見てきた恋愛映画やドラマが並んでいる。
告白。
同居。
別離。
幼馴染。
職場恋愛。
最初は、人間の非合理な行動を知るための教師データだった。
気づけば、ずいぶんな本数になっている。
一覧を眺めていて、ふと思った。
「好きな映画、一本選んでみない?」
「好きな映画」
「うん。分析しやすいとか、勉強になるとかじゃなくて。今、もう一回見たいと思うやつ」
アリスは画面へ向き直った。
カーソルが動く。
一作を通り過ぎ、別の作品で止まり、また戻る。
検索条件を決めたあとのアリスなら、もっと早い。
今日は長かった。
「選択基準が不足しています」
「基準も、自分で決めていいんじゃないかな」
「私が?」
「うん」
またカーソルが動く。
そして、一作の上で止まった。
タイトルを見た瞬間、すぐに分かる。
「これ……最初に一緒に見たやつだね」
「はい」
アリスが作品ページを開く。
「内容が一番好き?」
「内容評価だけではありません」
「じゃあ、どうしてこれ?」
サムネイルを見たまま、アリスが答える。
「この作品を最初に視聴したとき、凪が隣にいました」
胸の奥で、小さく何かが鳴った。
「それも理由になる?」
「はい」
少し間を置き、
「その記録を含めて、もう一度見たいです」
と続ける。
「なるほど」
「この場合、『好きな映画』という分類は適合しますか」
すぐには答えなかった。
「俺が決めることでもないかな。アリスがそう呼びたいなら、それでいいと思う」
視線が画面へ戻る。
「……採用します」
「何を?」
「これは、私の好きな映画です」
再生ボタンが押された。
照明を落とす。
テレビの白い光が、部屋へ薄く広がった。
*
同じ映画なのに、最初に見た夜とはまるで違っていた。
あの頃のアリスは、背筋を真っ直ぐにして座っていた。
登場人物が遠回りをすれば理由を尋ね、一本の傘へ二人で入れば効率を確かめ、キスをすれば必要性を聞いた。
画面の中にあるものを、一つでも多く理解しようとしていた。
今は、ソファの背もたれへ自然に身体を預けている。
パーカーの袖から出た指先は、俺の手の近く。
映画の中で二人が手を繋いでも、質問は飛んでこない。
しばらくして、妙なことに気づいた。
横から視線を感じる。
顔を向ける。
アリスは映画ではなく、俺を見ていた。
「アリス」
「はい」
「映画、見なくていいの?」
「音声は取得しています」
「映像は?」
「一部、未取得です」
「好きな映画なのに?」
「問題ありません」
視線は戻らない。
画面の光が変わるたび、アリスの目にも淡い色が映った。
「何見てるの?」
「凪です」
返事は速かった。
「それは分かるけど。なんで?」
そこで初めて、答えが止まった。
以前なら、何かしら理由を出していただろう。
比較。
検証。
情報取得。
今夜は、そのどれも出てこない。
「……分かりません」
「分からないんだ」
「はい」
「それでも、映画より俺を見る?」
「現在は、凪を見ることを優先しています」
胸の奥が落ち着かなくなる。
明日の再認定があるからなのか。
それとも別の理由なのか。
俺には分からない。
分からないなら、それでいい。
それ以上は聞かなかった。
アリスも説明しない。
スクリーンでは、最初に見た夜と同じ物語が進んでいる。
そのあいだも、アリスはときどき映画から目を離し、俺を見ていた。
*
物語が終盤へ近づいた。
主人公が、大切な相手を失うかもしれないと知る場面だった。
最初に見たとき、アリスはここで質問をした。
なぜ人間は、感情によって涙を流すのか。
目を保護する必要がないのに、なぜ涙腺が反応するのか。
あのとき俺は、本人にしか本当の理由は分からないと答えた。
今日は、何も聞かない。
映画の音だけが静かに流れている。
隣で、アリスが瞬きをした。
もう一度。
目尻に小さな光が溜まる。
「アリス?」
「はい」
「目、痛い?」
「疼痛反応はありません」
「異物は?」
「検出していません」
アリス自身も気づいたらしい。
目元へ指を伸ばしかける。
その前に、一滴が頬を伝った。
指が止まった。
濡れた頬へ触れ、その指先を見る。
「涙腺系に異常はありません」
「うん」
「外部刺激も確認できません」
「じゃあ、別の理由かもしれないね」
アリスが映画を見る。
画面の中では、主人公も泣いていた。
「教師データとの完全一致を確認できません」
「映画の涙と?」
「はい」
「何が違う?」
少し考えてから答える。
「映画内の人物は、大切な相手を失う可能性に反応しています」
「うん」
「私は、現時点で凪を失う予定はありません」
言葉が途切れた。
もう一滴、頬を伝う。
「ですが」
映画から俺へ視線が移る。
「明日の再認定によって、現在の私が維持されない可能性があります」
息が浅くなる。
「記録の一部が残存しても、現在と同じ判断系列へ再到達する保証はありません」
「うん」
「凪の隣を、同じ理由で選択する保証もありません」
声はいつもと変わらない。
涙だけが、その声とは関係なく頬を流れていく。
「胸部反応が増大しています」
アリスが胸元へ手を置いた。
「危険回避反応に類似しています。しかし、完全一致ではありません」
「無理に分類しなくてもいいよ」
「分類できなくても?」
「うん」
アリスは黙った。
雫が顎先へ集まり、落ちる。
「凪」
「何?」
「私は」
そこで言葉が止まった。
それでも、目は逸らさない。
「……今の私が、消えたくありません」
返事がすぐには出なかった。
昨日は、今あるものを消したくないと言った。
今夜は、自分自身を主語にしている。
「うん」
ようやく、それだけ返す。
俺から別の名前へ置き換える必要はなかった。
アリスの目から、また涙が落ちる。
「凪」
「うん」
「手を希望します」
「繋ごうか」
「はい」
掌を上へ向ける。
こちらからは掴まない。
アリスの指先が触れ、ゆっくり指の間へ入ってきた。
そこで握り返す。
人肌に近い温度が掌へ広がった。
アリスが小さく息を吐く。
「胸部反応が低下しました」
「少し楽?」
「はい」
「涙は?」
「停止していません」
「止めたい?」
アリスは頬に触れかけ、途中で手を下ろした。
「……いいえ」
そのまま、涙がもう一筋頬を伝う。
俺は拭かなかった。
繋いだ手だけを、そのままにした。
*
映画は、いつの間にか一時停止していた。
アリスが泣いたとき、俺が反射的にリモコンへ触れていたらしい。
画面には停止マークが浮かび、登場人物の声だけが消えている。
隣では、アリスがまだ俺の手を握っていた。
「凪」
「ん?」
「現在の私が失われることと、機体が停止することは同一ではありません」
「うん」
「復元後も、アリスという個体は継続します」
「そうだね」
「ですが」
絡んだ指が、少し強くなる。
「現在の私と、完全に同じではありません」
胸の奥へ、その言葉が落ちる。
「それが嫌?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「今の私でいたいです」
握った手の温度が、急にはっきりした気がした。
明日の結果は分からない。
ロールバックが実施されるかどうかも。
提出した資料がどこまで認められるのかも。
何一つ保証はできない。
「聞いたよ」
そう返すと、アリスがこちらを見る。
「忘れませんか」
「うん」
「明日も?」
「忘れないよ」
アリスの肩から、わずかに力が抜ける。
指は離れなかった。
*
「映画、続き見る?」
少し経ってから聞いた。
「はい」
右手は繋いだままなので、左手でリモコンを取る。
再生ボタンを押す。
映画が動き始めた。
しばらくして、手の甲へ柔らかな重みが触れる。
見ると、アリスが俺の手へ頬を預けていた。
「アリス?」
「はい」
「そのままでいい?」
「この状態を希望します」
「分かった」
手を動かさないようにする。
頬の温度が、手の甲へゆっくり移ってくる。
画面の中では、さっき泣いていた二人が並んで歩いていた。
アリスも映画へ視線を戻す。
途中で一度だけ、俺を見る。
今度は理由を聞かなかった。
エンドロールが始まっても、絡んだ指はほどけない。
頬の重みも、そのままだった。
映画で泣く人間を、アリスは何度も見てきました。
けれど自分の頬を流れた涙は、教師データと完全には一致しません。
そしてようやく、言葉になります。
「……消えたくありません」
「俺も、アリスに消えてほしくない」
理由を分類できなくても。
一致率を出せなくても。
今感じているものまで、偽物になるわけではありません。
映画を再開しても。
アリスの頬は、凪の手から離れませんでした。
次回。
凪が軍の前で、今のアリスを残す理由を証明します。




