第20話 再認定通知と、消したくないもの
軍から届いた、再認定通知。
そこに記されていたのは。
アリスが積み重ねてきた感情分類や近時学習を、過去の状態へ戻す可能性。
そして初めて明かされる――【自律自己モデル形成領域】。
誰にも直接書き換えられない、アリス自身の「自己」が形成される場所です。
その可能性を前に。
凪は一つだけ尋ねます。
「アリスは、どうしたい?」
通知が届いたのは、昼休みが終わる少し前だった。
基地の調整区画で端末を閉じようとしたところへ、軍内回線の認証音が鳴る。
差出人は再認定管理部門。
件名だけなら、定期的な適合確認と大差ない。
開いた瞬間、指が止まった。
少し離れた場所では、午前の演習を終えたアリスが待機している。
黒に近いチャコールの戦闘服。首元で揃った髪。呼吸模倣の周期にも姿勢制御にも、目立った乱れはない。
「凪?」
「うん。ちょっと確認してる」
画面へ視線を戻し、項目を一つずつ追った。
再認定実施通知。
対象個体、アリス。
追加審査項目として並んでいるのは、高次感情分類、対人優先順位の変化、近時適応データの統合状態。
どれも、ここ数か月の調整で俺自身が見てきた変化だった。
その下にある一文で、胸の奥が重くなる。
「認証済み復元点へのロールバック候補……」
「私のですか」
「うん」
アリスが一歩だけ近づいた。
「目的は?」
「長期安定性の確認。変化量が規定値を超えてるから、必要なら以前の認証状態へ復元できるようにしておくみたい」
読み上げながら、文面の冷静さと自分の中に生まれた違和感が噛み合わなかった。
異常認定ではない。
廃棄命令でもない。
未知の変化が長期運用へどう影響するか確かめ、問題があれば既知の安定状態へ戻す。
軍の判断としては理解できる。
それでも。
戻す。
その言葉だけが妙に残った。
「実施された場合、どの範囲が復元対象になりますか」
「今見てる」
添付された技術資料を開く。
保護階層の構造図が表示された。
中央に記された正式名称を見て、息が止まる。
【自律自己モデル形成領域】
「これ……」
「はい」
アリスも画面を見る。
初めて自宅の設備室で診断した夜の表示が、頭の中へ蘇った。
PROTECTED AREA。
DIRECT WRITE:DENIED。
あのとき確認できたのは、それだけだった。
「この領域だったんだ」
「私の通常診断系からも、内部編集権限は分離されています」
資料をスクロールする。
長期潜入。
単独任務。
未知環境への適応。
そこで得た経験から価値判断や優先順位、行動傾向を形成し、以後の判断へ反映する自己学習領域。
外部から人格を書き込む場所ではない。
経験を受け取った個体自身が、その経験を次の判断へ結びつけていくための場所だった。
「軍側の通常権限でも、ここへ直接書き込めない」
「はい」
「メーカー側も?」
「同様です」
「俺も」
「凪にDIRECT WRITE権限はありません」
「うん」
最初に見たあの表示は、ただのアクセス制限ではなかった。
俺が調整できるのは、その外側だ。
入出力系。
人工筋肉。
安全制御。
認証された周辺システム。
アリスが何を大切だと判断するのか。
誰のそばにいたいと感じるのか。
そこへ直接答えを書き込む権限は、俺にはない。
画面を追っていた指が止まる。
けれど、安心するにはまだ早かった。
「ロールバック候補は、中心領域じゃない」
構造図の外側へ表示を移す。
近時適応層。
高次感情分類。
関連学習データ。
自律自己モデル形成領域と相互参照しながら、現在の行動判断へ使われている周辺層。
「ここは認証済み復元点へ戻せる」
「はい」
「中心そのものを書き換える処置ではない。でも、最近形成された反応や学習の一部は失われる可能性がある」
口にした瞬間、画面の文字が生活の中の出来事へ変わった。
手を繋ぎたいと言ったこと。
自分で選んだ服。
俺のために淹れたコーヒー。
ケーキに初めて使った『好き』。
頬へ触れたこと。
最短ではなく、俺と一緒に進む方を選んだこと。
昨日、分からない状態を継続すると決めたこと。
全部が消えるとは書いていない。
けれど、どこまで残るとも書いていない。
「実施は確定ですか」
「まだ候補。再認定の結果次第」
「必要であれば受諾します」
返事に迷いはなかった。
基地でのアリスらしい声だった。
合理的で、冷静で、運用上必要なら自分自身も条件へ合わせる。
「了解」
その場では、それ以上何も言わなかった。
*
帰宅しても、通知の文面は頭から離れなかった。
戦闘服からいつものパーカーへ着替えたアリスは、ソファに座っている。
長い袖から指先だけが覗いていた。
ローテーブルには飲みかけのコーラ。
テレビには、途中で止めた映画。
見慣れた部屋だった。
なのに今日は、一つ一つが妙に目につく。
「凪」
「ん?」
「先ほどから同一画面を三回開閉しています」
「見てたんだ」
「操作履歴から確認可能です」
「それ、監視って言わない?」
「状態確認です」
「かなり近いと思うけど」
軽く返しても、胸の奥に残った重さは消えなかった。
端末を閉じ、アリスの隣へ座る。
「基地では、必要なら受けるって言ってたよね」
「はい」
「軍の判断に理由があることも分かってる」
「では、問題はありません」
「うん」
一度、そこで言葉を切った。
「でも、それとは別に聞きたい」
アリスがこちらを見る。
「軍がどうしたいかじゃなくて、アリスはどうしたい?」
視線が止まった。
返事はすぐには来ない。
俺も待つ。
分からないなら、分からないままでいい。
答えが出るまでの時間を、俺が埋める必要はない。
「復元が実施された場合」
やがて、アリスが口を開いた。
「現在保持している高次感情分類の一部が失われる可能性があります」
「うん」
「凪との生活に関連する近時適応データも、対象となる可能性があります」
「うん」
「全記録が失われるわけではありません」
「分かってる」
言葉が途切れる。
アリスの視線がテーブルへ落ちた。
停止した映画。
コーラ。
俺のマグカップ。
自分のパーカーの袖。
それらを順番に確かめるように、目が動いていく。
「以前であれば」
声が少し低くなった。
「運用上必要であれば、復元を受諾していました」
「今は?」
袖口から出た指先が、ごく小さく動く。
「……消したくありません」
胸の奥が強く鳴った。
アリスはまだこちらを見ていない。
「現在の反応を、完全には分類できていません」
「うん」
「教師データとの一致率も十分ではありません」
「うん」
「ですが」
顔が上がる。
「消したくありません」
二度目は、はっきりしていた。
俺は何も足さなかった。
好きだから。
大切だから。
怖いから。
どんな言葉にも、今は置き換えなくていい。
「分かった」
それだけ答える。
「じゃあ、その希望を前提に考える」
「希望を?」
「アリスは今の状態を残したい。それを条件に、ロールバック以外の選択肢がないか確認する」
「軍の判断と対立する可能性があります」
「対立させるつもりはないよ」
端末を開き直す。
「今の変化が不安定化じゃないって、データで示す。判断材料を増やすんだ」
「確証は?」
「まだない」
「成功率は?」
「これから調べる」
「非効率です」
「そうかもね」
それでも、アリスが今の自分を残したいと口にした。
その事実は、検討条件から外せなかった。
*
納戸を改装した設備室へ移ろうとして立ち上がる。
袖が引かれた。
振り返る。
アリスの指が、俺のパーカーの袖口を掴んでいた。
「アリス?」
「はい」
「どうしたの?」
「現在、離す予定はありません」
理由を先回りせず、そのまま待つ。
「この接触を希望します」
「分かった」
隣へ座り直し、膝の上に端末を置いた。
「これなら作業できるね」
「はい」
「問題は、コーヒー取りに行けないことだけど」
「優先順位を下げてください」
「コーヒーの?」
「はい」
「判断早いね」
「現在の私には、こちらの方が重要です」
即答されると反論しづらい。
「じゃあ、あとでいいか」
「妥当です」
「アリスに言われると、なんか納得しにくいな」
返事はなかった。
袖を掴んだ指も離れない。
端末へ視線を戻す。
「まず、ロールバック候補になった理由を分解する」
「はい」
「次に、近時適応が性能低下につながってないことを示す。できれば改善してる項目も拾いたい」
「該当候補があります」
「どれ?」
「曖昧指示下での優先順位決定。非戦闘員の拒否反応認識。過剰出力選択率の低下」
「やっぱりそこだよね」
ログを開いた。
最近の演習データを並べると、確かに傾向が出ている。
曖昧な指示への対応。
人間の表情や拒否反応の読み取り。
必要以上に強い手段を選ばない判断。
感情学習が戦闘能力を削っているとは、単純には言えない。
むしろ、以前より良くなっている部分さえある。
数値を拾っている途中で、袖口の感触が少し強くなった。
「凪」
「ん?」
「確認があります」
「何?」
「これは命令ですか」
「何が?」
「私を現行状態のまま維持するための作業です」
キーボードへ置いていた指が止まる。
「違うよ」
「軍からの指示でもありません」
「うん」
「では、なぜ実施しますか」
すぐには答えなかった。
技術者としてなら、いくらでも理由を並べられる。
学習状態の連続性。
現行性能の維持。
未知変化を消去ではなく評価によって扱う合理性。
どれも嘘ではない。
それでも、最初に浮かんだのは別の言葉だった。
「アリスが、消したくないって言ったから」
アリスが俺を見る。
「その希望を、最初から無かったことにしたくない」
「それは、調整担当としての判断ですか」
胸の奥がわずかに詰まる。
答えを急がず、自分の中を探した。
「調整担当としても、検証する価値はあると思ってる」
「それだけですか」
今度は、すぐに返せなかった。
何かがある。
でも、それをまだ正確に言葉へできない。
分からないものへ、無理に名前をつける必要はない。
「……今は、それだけじゃない気がしてる」
「分類できませんか」
「うん」
アリスは俺を見たまま少し黙った。
「分からない状態を継続しますか」
昨日と同じ言葉だった。
思わず、少しだけ笑う。
「そうする」
「確認しました」
袖口を掴む指は、そのままだった。
俺も画面へ戻る。
提出材料は、まだ足りない。
残せる保証もない。
それでも、最初の一行は決まった。
現行学習状態における長期安定性および性能寄与評価。
袖を掴まれたまま、俺は提出資料を書き始めた。
基地では、
「必要であれば受諾します」
そう答えていたアリス。
けれど凪の部屋で、自分自身の希望を尋ねられると。
長い沈黙のあと。
「……消したくありません」
軍がどう判断するかではない。
必要かどうかでもない。
アリス自身が、今の自分を残したいと選びました。
そのまま凪のパーカーの袖を掴んで離さないアリス。
次回は、再認定前夜。
二人が最初に見た恋愛映画を、もう一度見ます。




