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第19話 朝の光と、消せない本音

翌朝。


アルコールは完全に抜けています。


そしてアリスが、朝一番で凪へ告げました。


「昨夜二十二時十四分以降の個人行動ログ、および関連音声記録の削除を希望します」


「離れないでください」も。


「凪の匂いが、一番安心します」も。


どうやら、全部覚えているようです。

 目を覚ましたとき、最初に感じたのは右手の温度だった。


 カーテンの隙間から差し込む冬の朝日が、掛け布団の端を細く照らしている。


 昨夜、少しだけ間を空けて横になったままの距離。


 布団の上で繋いだ手も、ほどけていなかった。


 指の間にある柔らかな感触を意識したところで、隣の瞼が開く。


「おはよう、アリス」


「……おはようございます、凪」


 声はいつも通りだった。


 アリスの視線が俺の顔から下がり、繋いだ手で止まる。


 指先がわずかに動いた。


 離れるのかと思ったけれど、完全にはほどけない。


「現在時刻は?」


「七時十二分」


「エタノール残留値は?」


「検出限界未満です」


「気分は?」


「正常です」


 そこまで確認してから、ようやく目がこちらへ戻った。


「要求があります」


「朝一番で?」


「はい」


「何?」


「昨夜二十二時十四分以降の個人行動ログ、および関連音声記録の削除を希望します」


 妙に具体的だった。


「全部?」


「はい」


「『凪の匂いが一番安心する』も?」


 アリスの動きが止まる。


「……該当箇所を含みます」


「『離れないでください』も?」


「含みます」


「『今日だけですか』も?」


 繋いだ指が、今度こそ少し強張った。


「……含みます」


 声は平坦なのに、視線が俺から外れていく。


 昨夜は、普段なら言葉になる前に止めていたものまで外へ出ていた。


 今朝は、その全部を見えない場所へ戻そうとしているように見える。


「一つ聞いていい?」


「はい」


「ログだけじゃなくて、俺が覚えてることも、なかったことにしたい?」


 返事は来なかった。


 窓の外を車が一台通り過ぎ、その音が遠ざかっても沈黙は残る。


「記憶操作は不可能です」


「技術的な話じゃなくて」


「……理解しています」


「アリス自身は、どうしたい?」


 目は逸れたままだった。


「現時点では、回答を確定できません」


「分かった」


 それなら、今ここで俺が代わりに答えを作る必要はない。


「ちなみに、俺は昨日のアリスを嫌だったとは思ってないよ」


 視線が戻る。


「むしろ、可愛かった」


 掛け布団が一気に鼻先まで上がった。


「アリス?」


「視界遮断を実施します」


「布団で?」


「有効です」


「人類最強の戦闘アンドロイドの回避方法としては珍しいね」


「現在、戦闘状態ではありません」


 即答だった。


 笑いそうになるのを何とか止める。


 しばらくして、布団が少しだけ下がった。


 目だけがこちらを覗く。


「凪」


「ん?」


「昨夜、私は『離れないでください』と何回発言しましたか」


「数えてないよ」


「行動ログ上は三回です」


「じゃあ、三回なんじゃない?」


「……三回」


 布団がまた上がる。


「今、隠れる面積増えたね」


「気のせいです」


「ほとんど目しか出てないけど」


「観測には十分です」


 その状態のままこちらを見続けているのが可笑しくて、今度は口元まで緩んだ。


 可愛い、とはもう言わなかった。



   *



 朝食を終え、納戸を改装した四畳半ほどの設備室へ入った。


 特注サーバーの低い駆動音が、床から足裏へ伝わってくる。


 昨夜のログを端末へ呼び出した。


 エタノール処理そのものに異常はない。


 摂取量はごく少量。


 内部センサーが算出したエタノール相当濃度も、分解速度も規定範囲内に収まっている。


 問題は、その横に並んだ別の波形だった。


「やっぱり、ここだね」


 時系列表示を拡大する。


 エタノール検知の直後。


 潜入任務などで薬物影響下の挙動を再現するための薬理応答シミュレーターが、自動的に補助起動していた。


 そこまでは仕様通り。


 けれど、その直後から。


 最近活性化している高次感情分類系との相互参照が、通常より深くなっている。


「相互参照頻度が規定上限を超過しています」


 アリスが隣から画面を追う。


「うん」


 該当区間を切り出した。


 認知処理。


 運動制御。


 危険判断。


 そこに目立った乱れはない。


 代わりに、普段なら発話や行動の直前に入る比較処理と抑制ゲインだけが大きく下がっていた。


「判断できなくなったというより、止める方だけが弱くなったみたいだね」


「昨夜の発言内容は、アルコールによって新規生成されたものではない可能性があります」


 端末に置いた指が止まる。


「可能性としてはある」


「では――」


「でも、それを『本音だった』とは言えないよ」


 アリスがこちらを見る。


「ログから確認できるのは、抑制が低下していたことまで」


 波形を指す。


「その状態で出た言葉を、今のアリスがどう受け取るかは別だと思う」


「凪は分類しないのですか」


「しない」


「理由は?」


「アリスの言葉だから」


 俺が先に意味を決めれば、それはもうアリスの答えじゃなくなる。


 その先までは口にしなかった。


 アリスも何も言わず、再びモニターへ視線を戻した。



   *



 安全系の設定画面を開く。


「補正案を出すね」


「説明を希望します」


「薬理応答シミュレーター側だけ変更する」


 設定項目を一つずつ表示する。


「エタノール検知時に模擬的な抑制低下が起きても、高次感情分類系との相互参照が一定値を超えないよう上限を設ける」


「感情学習データへの変更は?」


「しない」


「関連行動ログは?」


「補正には使わない。削除するかどうかも別の話」


「凪の権限だけで実行可能ですか」


「安全系の調整範囲には入ってる」


 そこで操作から手を離した。


「でも今回は、アリス自身の反応に関わる変更だから。勝手にはやらないよ」


「私が拒否した場合は?」


「現状維持」


「安全性が低下しても?」


「軍への報告や強制措置が必要な状態なら、そのことは説明する。でも今回はそこまでじゃない」


 アリスは変更内容を上から読み直していく。


「選択権は私にありますか」


「この範囲なら、あるよ」


 画面へ向けられていた視線が止まる。


「安全補正を希望します」


「感情学習側は触らない?」


「はい」


「分かった」


 次に、昨夜の個人行動ログを表示した。


「こっちは?」


 朝一番では、削除を希望していた。


 音声記録。


 接触履歴。


 発話前処理。


 昨夜の時間帯が、そのまま残っている。


「今も削除したい?」


 アリスは画面を見続けた。


 すぐには答えない。


「……保持してください」


 朝とは違う答えだった。


「今は見たくない?」


「はい」


「でも、消すのも違う?」


 こちらへ視線が向く。


「……その表現が適合しています」


「分かった」


 ログ画面を閉じる。


 消さない。


 けれど、今は見ない。


 それ以上、理由を聞く必要はなかった。



   *



 補正実行前の確認画面をアリス側へ向ける。


「最終確認して」


「確認済みです」


「問題は?」


「ありません」


「じゃあ、適用していい?」


「はい。実行を許可します」


 承認を受けてから処理を走らせた。


 状態表示が順番に更新され、相互参照の上限値が反映される。


 前後差分にも異常はない。


「これで、昨日みたいな干渉はかなり起きにくくなると思う」


「再現確認は必要ですか」


「もう一度アルコールを摂取して試すってこと?」


「はい」


「しない」


 即答した。


「理由は?」


「安全補正が目的だから。昨日の状態をもう一回作る必要はないよ」


「確認しました」


「それに」


「はい」


「昨日の言葉を確かめたいなら、普通の状態で話せばいい」


 アリスは何も返さなかった。


 閉じたばかりのログ画面があった場所を、しばらく見ていた。



   *



 昼前には、いつものソファへ戻っていた。


 昨夜ほとんど頭に入らなかった映画を、最初から流し直す。


 アリスは大きなパーカー姿で俺の隣に座っている。


 距離は昨夜ほど近くない。


 でも、離れてもいなかった。


 映画の中では、朝のキッチンで恋人同士が向かい合っている。


 短い会話のあと、二人がキスをした。


 その瞬間。


 隣から視線を感じた。


「凪」


「ん?」


「映画では、朝にもキスをしています」


「そうだね」


「交際関係にある二者間で、反復例が多く確認されます」


「そこまで集計してるんだ」


「比較対象として保存しています」


 そこで言葉が止まった。


 画面へ戻る気配はない。


 俺から続きを作らずに待った。


「キスは、親密性を示す行動として適合しています」


「うん」


「凪との接触に対する拒否反応もありません」


「うん」


「過去には、頬への接触も実行しています」


「そうだね」


 アリスは自分の指先を見る。


「ですが、それだけでは実行理由として不足しています」


 胸の奥に入っていた力が、少し抜けた。


「じゃあ、今はしなくていいんじゃないかな」


「教師データ上で適切でも?」


「映画の二人と俺たちは別だから」


「比較結果を採用しなくても?」


「採用するかどうかも、アリスが決めていいよ」


「私が」


「うん」


 アリスは画面へ戻った。


 映画の中では、もう別の場面が始まっている。


 しばらくして、パーカーの袖から出た指先がソファの上を動いた。


 俺の手のすぐそばで止まる。


 触れない。


 俺も動かなかった。


「凪」


「ん?」


「先ほどの件ですが」


「うん」


「分からない状態を継続します」


「分かった」


「非効率ではありませんか」


「効率はよくないかもね」


「それでも?」


「急がなくていいよ」


 アリスがこちらを見る。


 そのまま少し考え、


「……了解しました」


 と答えた。


 映画へ視線が戻る。


 ソファの上では、二人の指先の間にわずかな隙間が残っている。


 その距離は、最後まで縮まらなかった。


 離れていくこともなかった。

最初は、昨夜の記録を消したがったアリス。


けれど最後には。


「……保持してください」


消す方を、やめました。


そして恋愛映画で見た「朝のキス」。


教師データなら理由はいくつも見つかります。


それでもアリス自身が望んでいるのかは、まだ分からない。


だから――しない。


「分からない状態を継続します」


二人の指先の距離は、最後まで縮まりませんでした。


離れてもいませんでした。


次回。


軍から、一通の再認定通知が届きます。

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