第18話 アルコールエラーと、本音の甘え
夕食後。
凪が開けた一本の缶チューハイ。
アリスはアルコールを分解できます。
けれど疑似神経系への影響データは十分ではありません。
「じゃあ、やめとく?」
少しの沈黙。
「……一口だけ希望します」
その一口で。
普段なら止めていた言葉が、少しだけ外へ出やすくなります。
缶チューハイを開けたのは、夕食を片づけたあとだった。
プルタブを起こすと、炭酸の抜ける小さな音に続いて柑橘の匂いが立つ。
仕事のない夜くらい一本だけ飲もうと思って、冷蔵庫へ入れていたものだ。特別な理由はない。
ソファの隣では、アリスがいつもの大きなパーカー姿で映画を選んでいた。
「それは何ですか」
「チューハイ。お酒だよ」
アリスの視線が、俺の手にある缶へ向く。
「エタノール濃度は?」
「五パーセント」
「低濃度です」
「アリス基準だとそうなるんだ」
「通常摂取量であれば、内部処理は可能です」
「飲めるの?」
「可能です」
即答だった。
けれど、視線は缶から離れない。
最近は、こういう沈黙の意味も少し分かるようになってきた。
「飲んでみたい?」
アリスはすぐには答えなかった。
「アルコール自体の分解は可能です。ただし、疑似神経系および情動シミュレーション系への影響データが不足しています」
「じゃあ、やめとく?」
缶を自分の方へ戻す。
その動きを目が追った。
「……少量を希望します」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ一口だけ。変な感じがしたら、そこで終わりね」
「了解しました」
新しいグラスへ、底が隠れる程度だけ注いだ。
透明な液体の中を細かな泡が上っていく。
アリスは一度香りを確かめ、ごく少量を口へ含んだ。
飲み込む。
すぐには次へ進まない。
「どう?」
「甘味、酸味、炭酸刺激。エタノールを検出」
「味の感想は?」
「柑橘系香料は好ましいです」
「お酒そのものは?」
「判定を保留します」
もう一口飲むのかと思ったが、グラスはローテーブルへ戻された。
「本当に一口で終わりなんだね」
「希望量は達成しました」
「ならいいけど」
俺も缶へ口をつける。
アリスは何事もなかったように、映画の選択画面へ戻った。
*
違和感に気づいたのは、映画が始まって十分ほど経ってからだった。
近い。
アリスが隣に座ること自体は、もう珍しくない。
肩が触れそうな距離を自分から選ぶこともある。
それでも今日は、気づけばパーカーの袖が俺の腕へ重なり、そのまま離れなかった。
「アリス」
「はい」
「少し近くない?」
「通常時との差分ですか」
「うん。いつもより近い」
顔を向ける。
焦点は合っている。
返事にも遅れはない。
姿勢制御にも乱れはなかった。
ただ、普段なら距離を詰めた理由を数値や目的と一緒に返してくるところで、その説明が出てこない。
「気分悪くない?」
「ありません」
「アルコールの処理は?」
「進行中です」
「認知とか動作に異常は?」
「認知機能、運動制御、状況判断に異常を確認していません」
「じゃあ――」
映画へ視線を戻しかけたところで、袖を引かれた。
「凪」
「ん?」
「もう少し近くに来てください」
今度は俺が止まる。
「今でも結構近いよ?」
「不足しています」
「どれくらい?」
「接触面積の増加を希望します」
いかにもアリスらしい言い方なのに、意味だけは分かりやすかった。
「……抱きしめてほしい?」
「はい」
返事が速い。
胸の奥が跳ねる。
嬉しくないはずがない。
でも、ローテーブルの上には、さっきアリスが口をつけたグラスが残っている。
「その前に確認させて」
「はい」
「お酒の影響、本当にない?」
「通常状態との差異は存在します」
「どこに?」
「抑制処理です」
「判断力じゃなくて?」
「はい。判断能力は基準範囲内です」
少しだけ眉を寄せる。
摂取量は本当にわずかだった。
それなのに、分解処理の進行量に対して、抑制側の変化だけが大きい。
「自分でも、いつもより言葉や行動を止めにくい感じはある?」
「はい。抑制ゲインの低下を確認しています」
「分かった」
一口にしては出方が妙だ。
原因を追うのは明日でいい。
今は、これ以上飲ませないことの方が先だった。
俺も缶をテーブルへ置く。
「抱きしめるのは大丈夫だよ」
「はい」
「でも、少しでも嫌になったり、変だと思ったらすぐ言って」
「了解しました」
腕を広げる。
アリスはほとんど迷わず身体を寄せてきた。
髪が顎の下へ触れ、パーカー越しの温度が胸へ重なる。
両腕が俺の背中へ回った。
強くはない。
ただ、いつもより身体を預ける割合が大きかった。
「アリス?」
「はい」
「今日は積極的だね」
「抑制処理の低下と整合します」
「そこは自覚あるんだ」
「あります」
声も思考も明晰だった。
だからこそ、慎重でいたかった。
別人になったわけじゃない。
普段なら言葉にする前に一度止めていたものが、今日はそのまま外へ出やすくなっているだけなのかもしれない。
その言葉が本心なのかどうかを、俺が今決める理由にはならなかった。
*
映画は流れ続けていた。
画面の中では登場人物が何か話している。
けれど内容は、ほとんど頭へ入ってこない。
アリスが胸元へ頬を寄せたまま動かないせいで、意識がそちらへ引かれ続けていた。
「眠い?」
「低活動状態への移行予定時刻ではありません」
「じゃあ、どうしたの?」
「確認しています」
「何を?」
少し間が空く。
「凪の匂いです」
息が止まりかけた。
「俺の?」
「はい」
「何か変?」
「いいえ」
胸元で、呼吸模倣のための微かな空気が動く。
「凪の匂いが、一番安心します」
返事が出なかった。
洗剤。
シャンプー。
この部屋。
説明に使えそうなものなら、いくつもある。
けれど『一番』とついた途端、それだけで片づける気にはなれなかった。
「今の言葉、映画とかから?」
「照合していません」
「言ってから探したわけでもない?」
「はい」
胸の奥が強く鳴る。
それでも、意味を先に決めるのはやめた。
「凪」
「ん?」
「抱擁強度が低下しています」
考え込んだせいで、背中へ回した腕が緩んでいたらしい。
「これくらい?」
少しだけ力を戻す。
「適切です」
「苦しくない?」
「問題ありません」
「じゃあ、このままでいようか」
「はい」
俺も離れたいとは思わなかった。
そのことまで否定する必要はない。
「凪」
「何?」
「離れないでください」
「うん」
「継続を希望します」
「分かった」
少しだけ間が空く。
「凪」
「ん?」
「今日だけですか」
言葉が止まった。
腕の中にいるアリスは、たぶん普段ならそこまで続けなかった。
だからこそ、この先は今決めるべきじゃない。
「アリス」
「はい」
「その続きは、明日聞いてもいい?」
「なぜですか」
「今、お酒の影響があるから」
「判断能力は維持されています」
「うん。それは分かってる」
背中へ回した手を動かさず、ゆっくり続けた。
「でも、抑制はいつもと違うんだよね」
「はい」
「だったら、今夜の言葉を使って、俺たちの関係を先へ進めたくない」
アリスは黙った。
「明日、いつもの状態に戻って、それでも話したいと思ったら聞かせて」
胸元の温度は、そのままだった。
「……了解しました」
「ありがとう」
「ただし」
「うん」
「現在の抱擁は継続を希望します」
思わず笑った。
「それは分かってるよ」
髪が胸元で小さく揺れた。
*
映画が終わる頃には、グラスの炭酸はほとんど消えていた。
アリスが摂取したのは、本当に一口だけだ。
俺の缶も、異変に気づいてから一度も手をつけていない。
「明日、ログ見ようか」
「推奨します」
「やっぱり一口にしては反応が大きい?」
「エタノール処理量と抑制系変動量の相関が、既知データから逸脱しています」
「だよね」
「情動シミュレーション系を含めた確認が必要です」
その言葉が少し引っかかった。
ただ、今ここで端末を開いて診断を始めるより、完全に代謝が終わった状態で比較した方がいい。
「じゃあ、それは明日」
「はい」
「そろそろ寝ようか」
「了解しました」
腕をほどく。
一瞬、背中へ回っていたアリスの手が残ったものの、俺が立ち上がると素直に離れた。
「歩行に問題は?」
「ありません」
「一応聞いただけ」
「凪を抱えた状態でも移動可能です」
「そこまで元気なら安心した」
「実施しますか」
「しなくて大丈夫」
人類最強の兵器に抱えられて寝室へ運ばれる自分を想像して、首を振る。
洗面台へ向かうと、アリスも隣へ来た。
いつもより近い。
けれど、今度は袖を掴んでこなかった。
俺が歯を磨き終えるまで、隣で静かに待っている。
「凪」
「ん?」
「終了後、手を繋ぐことを希望します」
口の中の歯磨き粉を吐き出してから答えた。
「うん。それならいいよ」
「確認しました」
それ以上は求めてこなかった。
*
同じベッドへ入る。
ここはもう、素面の状態で二人が選んだことのある場所だった。
だから今夜、新しいことは増やさない。
少し余白を残して横になり、布団の上へ右手を出す。
「手、これでいい?」
「はい」
アリスの指先が触れる。
そのまま指の間へ入り、俺も握り返した。
それだけだった。
今夜は、それで十分だと思った。
「凪」
「何?」
「現在も、凪の近くにいたいという希望があります」
「うん」
「アルコールの影響下でも、その希望は記録されています」
「そうだね」
「有効性を判定しますか」
握った手の向こうから、まっすぐ聞かれる。
「今日はしないよ」
「理由は同一ですか」
「うん。明日のアリスにも聞きたいから」
少しだけ沈黙が落ちた。
「……了解しました」
「そのとき、同じ答えじゃなくても大丈夫だからね」
「異なる可能性も許容しますか」
「もちろん」
「確認しました」
指は離れない。
しばらくすると、アリスの瞬きの間隔が長くなっていった。
「低活動状態へ移行します」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい、凪」
声が途切れる。
俺も目を閉じた。
今夜聞いた言葉を、なかったことにはしない。
でも、答えにもしない。
絡んだ指の温度だけを残して、その続きは朝へ預けた。
判断力は正常。
ただ、自制のフィルターだけが少し弱くなったアリス。
「近くに来てください」
「抱きしめてください」
「離れないでください」
そして。
「凪の匂いが、一番安心します」
凪は、その言葉を今夜の答えにはしません。
いつものアリスに戻った明日、もう一度本人に選んでもらうために。
今夜聞いた言葉は、消さない。
でも、決めつけない。
絡んだ指の温度だけを残し、その続きは朝へ預けました。
次回。
素面に戻ったアリスの第一声は――「記録削除を要求します」。




