第17話 同じベッドと、数センチの距離
深夜二時。
アリスが凪へ、一つの希望を伝えます。
「今夜は最初から、同一寝具の使用を希望します」
以前にも同じベッドで眠ったことはありました。
けれど今夜は違います。
眠気でも。
効率でもありません。
「凪の近くで休止したいです」
アリスが、自分の意思で選びます。
ゲーム機の電源を落としても、俺とアリスはしばらくソファに残っていた。
時計は二時を回っている。
テレビは暗く、部屋には暖房の低い運転音だけが残っていた。
――現実でも、凪の隣にいることを希望します。
さっき聞いた言葉が、まだ耳の奥に残っている。
俺も、アリスが隣にいるのは嬉しい。
そう返したところまで思い出していると、隣から声がした。
「凪」
「ん?」
「本日の低活動状態について、希望があります」
「うん。何?」
アリスがこちらを向く。
クリスマスに渡したヘアピンは、まだ髪に留められていた。淡い琥珀色の石が室内灯を小さく返している。
「今夜は最初から、同一寝具の使用を希望します」
意味を理解するまで、わずかに時間がかかった。
「……同じベッドで休みたいってこと?」
「はい」
返事に迷いはない。
以前、同じベッドで朝を迎えたときは、半分眠っていた俺の返事がきっかけだった。
だから次からは、二人とも起きているときに確認する。
そう決めている。
今夜は違う。
俺も起きている。
アリスも、最初から自分の希望として口にした。
「アリスが、そうしたい?」
「はい」
「休止効率がいいから、とかじゃなくて?」
「効率上の利点は存在します」
そこで、少しだけ言葉が途切れた。
「ですが、主理由ではありません」
「じゃあ、理由は?」
「凪の近くで休止したいです」
真正面から言われると、こっちの方が困る。
嫌だからではない。
むしろ逆だった。
嬉しい。
そう思っていることを、もう曖昧な返事で隠す必要もない気がした。
「俺も、アリスが隣にいる方がいいよ」
口にした途端、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
「凪も希望していますか」
「うん」
「私が希望したことへの許可ではなく?」
「それだけじゃないよ」
自分の中を確かめる。
「俺自身が、一緒にいたいと思ってる」
アリスは黙って俺を見た。
やがて、
「確認しました」
とだけ返す。
いつもの平坦な声だった。
*
歯を磨き、水を飲み、窓の鍵を確かめる。
普段なら意識もしない寝る前の手順が、今夜は妙に長く感じられた。
「凪」
「ん?」
「歯磨き時間が通常平均より二十三秒延長しています」
「測ってたんだ」
「行動差分を確認しました」
「ちょっと考え事してただけ」
「体調異常ではありませんか」
「大丈夫だよ」
洗面台の鏡越しに見る。
アリスはすでにヘアピンを外していた。
首元で揃った髪。
大きなパーカー。
基地で『白い死神』と呼ばれている存在が、俺の後ろで当たり前のように寝る準備をしている。
見慣れてきたはずなのに、今夜は妙に意識してしまう。
「凪」
「今度は何?」
「心拍数も基準値より上昇しています」
「それは今日は放っておいてもらえると助かるかな」
「原因解析は?」
「しなくて大丈夫」
「技術者として非合理的です」
「自分のことくらい、分からないままでもいい日があるんだよ」
アリスが少し黙る。
「凪も、分からない状態を許容するのですか」
「するよ」
「……了解しました」
自分で言ってから、少し可笑しくなった。
分からないなら、急いで決めなくていい。
何度もアリスへ言ってきたことを、今度は自分に返している。
*
照明を落とした。
先に壁側へ入ったアリスの隣へ、俺も身体を滑り込ませる。
一人で使うには十分なベッドも、二人で横になれば急に狭くなる。
持ち上がった掛け布団がゆっくり落ち着き、二人分の輪郭を作った。
アリスが横を向く。
俺も同じように身体を向けた。
枕の上で、互いの顔が向かい合う。
間にあるのは、ほんの数センチ。
触れてはいない。
それなのに、ソファで隣に座っているときとはまるで違った。
シーツに残る洗剤の匂い。
暖房の弱い風。
すぐ近くで動く、呼吸模倣の微かな空気。
目を閉じても、そこにアリスがいることだけは分かりそうだった。
「凪」
「ん?」
「緊張反応を確認しています」
「うん」
「距離を拡大しますか」
「しなくて大丈夫」
「緊張していても?」
「緊張してるのと、嫌なのは別だから」
アリスの視線が少し動いた。
「俺は、この距離がいいよ。アリスは?」
「私も現在位置を希望します」
「分かった」
それだけ確認して、肩の力を少し抜く。
眠気に押されてこうなったわけじゃない。
効率だけを理由に選んだわけでもない。
今夜は二人とも起きたまま、自分でここを選んでいる。
それだけで、同じベッドなのに前とはまるで違って感じられた。
会話が途切れる。
静かな部屋の中で、アリスの呼吸模倣が一定の間隔で続いている。
生きるために必要な呼吸ではない。
それでも、すぐ近くで空気が動くたびに妙に落ち着く。
視線を下げた。
布団の上に出たアリスの手が、俺のすぐ近くにある。
指先同士なら、少し伸ばすだけで届く。
触れたい。
そう思った。
今度は、それを別の理由へ言い換えようとはしなかった。
「アリス」
「はい」
「手、繋いでもいい?」
アリスは俺の手を見る。
それから、自分の手を少しだけ前へ動かした。
「はい」
俺は掌を開く。
掴まずに待った。
アリスの指先が触れる。
少し位置を変え、そのまま指の間へ入ってきた。
そこで初めて握り返す。
力は弱い。
人工皮膚の下にある高密度人工筋繊維も、最大出力も、今は頭へ浮かばなかった。
ただ、アリス自身がこの手を選んだことだけが分かる。
「強くない?」
「適切です」
「よかった」
息を吐く。
さっきまでうるさかった心臓が、少しずつ静かになっていく。
「凪」
「ん?」
「心拍数が低下しました」
「やっぱり見てたんだ」
「観測可能です」
「そうだったね」
小さく笑った。
「手は、このままでいたい?」
「はい」
「俺も」
今回は、その二文字が素直に出た。
アリスの指が、ほんの少しだけ俺の指へ沿った。
*
しばらくすると、アリスの瞬きの間隔が長くなってきた。
低活動状態へ移行する前の変化だ。
「アリス」
「はい」
まだ返事は来る。
「休止できそう?」
「はい」
「じゃあ、そろそろ静かにするね」
「凪」
「何?」
絡んだ指は、そのままだった。
アリスは一度だけ俺たちの手を見て、それから顔を上げる。
「確認しておきたいことがあります」
「うん」
「現在の行動は、教師データの再現ではありません」
暗い部屋の中で、その言葉だけが静かに届いた。
「うん」
「参考データとの類似は存在します」
「でも、それを再現したかったわけじゃない?」
「はい」
握った指先が、わずかに動く。
「私が、ここにいたいです」
胸の奥へ、その言葉がゆっくり落ちた。
前なら、アリスが望むならそれでいい、とだけ返していたかもしれない。
でも今夜は違う。
「俺も、アリスにここにいてほしい」
アリスが俺を見る。
「凪が希望していますか」
「うん。俺が」
しばらく視線が重なる。
「……確認しました」
それ以上の説明はなかった。
必要もなかった。
「おやすみ、アリス」
「低活動状態へ移行します」
「うん」
目を閉じかけたところで、小さな声が続く。
「……おやすみなさい、凪」
「おやすみ」
やがて、すぐ近くの呼吸模倣がゆっくり一定になっていく。
絡んだ指は、離れない。
俺もその手を握ったまま、目を閉じた。
数センチしかない距離。
背中へ触れるアリスの額。
そして今度は、凪の方から後ろへ手を伸ばします。
「俺も、手を繋いでいたいんだけど。いい?」
「……はい」
さらに。
「私が、ここにいたいです」
凪も、アリスの希望を受け入れるだけでは終わりません。
「俺も、アリスにここにいてほしい」
絡んだ指は、そのまま。
二人は初めて、互いの希望で同じベッドに眠りました。
次回。
アリスが、初めてお酒を一口だけ飲みます。




