第22話 天才チューナーの証明
再認定審査。
問われるのは、アリスが積み重ねてきた感情学習の価値。
曖昧な指示への判断。
人間の恐怖や拒否の読み取り。
過剰な攻撃判断の抑制。
凪が証明するのは、「恋愛映画で強くなった」という話ではありません。
人間が合理性だけでは動かないことを、アリス自身が学んできたという事実です。
翌朝、基地の会議室へ入ると、空調の低い音ばかりが耳についた。
長机の向こうには、再認定担当の軍人が三人。壁際の監査端末にはアリスの識別番号が表示され、その横で本人が静かに立っている。
黒に近いチャコールの戦闘服。姿勢に乱れはない。
昨夜、俺の手へ頬を預けたまま涙を流していた姿とは、ずいぶん遠く見えた。
それでも、同じアリスだ。
「では、調整担当から説明を」
促され、端末へ手を伸ばした。
提出した資料は多い。
ただ、今日ここで示すべきものは絞ってある。
「近時適応によって変化した項目のうち、運用上の影響が明確なものを三点提示します」
訓練記録を開く。
「一つ目は、曖昧な指示に対する判断精度です」
状況変化によって、命令文をそのまま実行する方が危険になる場合。
複数の命令目的が衝突し、その場で優先順位を組み直す必要がある場合。
以前のアリスも、与えられた条件から最適解を導く能力なら圧倒的だった。
今はそこへ、人間側の意図や反応まで判断材料として組み込まれている。
「二つ目。非戦闘員の拒否、恐怖反応の検出」
映像を切り替えた。
訓練参加者は口では「大丈夫」と答えている。
しかし足は半歩だけ後退し、声が強張り、視線は出口へ逃げていた。
以前なら補助情報として処理されていた小さな反応を、現在のアリスは判断条件へ加えている。
「三つ目は、過剰出力選択率です」
複数期間のグラフを重ねる。
「制圧速度、命中精度、脅威判定速度に低下はありません。その一方で、必要以上の出力を選択する割合は下がっています」
正面の軍人が資料へ目を落とした。
「高次感情学習が、運用性能へ正の影響を与えているという主張か」
「少なくとも、現在の変化を劣化として一括処理するのは適切ではないと考えます」
「原因は恋愛映画か?」
「映画そのものではありません」
そこは迷わなかった。
「人間が、合理性だけで行動するわけではないと学習したことです」
次の記録を表示する。
「言葉では承諾していても、身体は拒否していることがある。怖くても笑うことがある。本人自身が理由を説明できない反応もある。以前はノイズになり得たものを、今のアリスは意味のある情報として扱える」
「結果として、人間を含む環境への適応能力が上がった」
「はい」
「感情分類系を現状のまま維持する、技術的な理由はあると」
「あります」
短い沈黙のあと、別の担当者が記録を保存した。
俺は次の資料を開く。
今度は性能グラフではない。
自律自己モデル形成領域へのアクセス監査記録。
画面中央に、最初の夜から何度も見てきた表示が出る。
PROTECTED AREA。
DIRECT WRITE:DENIED。
「もう一点あります」
三人の視線がこちらへ集まった。
「現在のアリスに形成されている価値判断が、俺の調整によって直接書き込まれたものかどうかです」
監査履歴を展開する。
「俺には、自律自己モデル形成領域へのDIRECT WRITE権限がありません」
監査担当がログを拡大した。
「直接書き込み試行、ゼロ」
「はい」
「保守系からの迂回アクセスもなし。周辺調整履歴にも、自己モデルへの強制誘導に該当する変更は認められない」
「その通りです」
「軍側の通常運用権限でも、内部への直接指定はできない?」
「できません」
「メーカー側も同様」
「はい」
担当者の視線が、俺からアリスへ移る。
「では、現在形成されている対人優先順位や価値判断は、外部から設定されたものではないと?」
隣を見る。
アリスも俺を見ていた。
昨日、理由を完全には分類できないまま、それでも今の自分でいたいと言った。
映画より俺を見ることを選び、涙を止めないことまで自分で決めた。
「あれは、俺が作ったものじゃありません」
自分でも驚くほど、言葉はまっすぐ出た。
「アリス自身が経験して、自分で形成したものです」
アリスの目が、わずかに動く。
それ以上は言い足さなかった。
技術的に示せるところまでは示した。
その先にあるものまで、俺が代わりに定義する必要はない。
正面の軍人が資料を閉じた。
「技術審査は以上とする」
壁際の表示が切り替わる。
「現行学習状態を維持したまま、午後の実地評価へ移行する。最終判定は、その結果を含めて行う」
「了解しました」
アリスの声が、静かな会議室へ響いた。
*
廊下へ出てしばらく歩いたところで、隣から声がした。
「凪」
「ん?」
「先ほどの発言は、技術的判断ですか」
「どの部分?」
「現在の価値判断は、私自身が形成したものだという発言です」
「そこは技術的にもそうだよ」
「技術的にも」
「うん」
アリスがこちらを見る。
視線が重なる。
「……そうですか」
それだけ言って、また前を向いた。
何か続くのかと思ったけれど、言葉はなかった。
俺も聞かない。
ただ、その横顔だけが妙に頭へ残った。
*
午後の実地評価は、評価用装備と環境データの同期に時間がかかることになった。
開始まで三時間あまり。
基地内で待機することもできたが、アリスの自宅が軍認証済みの外部調整拠点になっているため、再招集までそこで待機して構わないと許可が出た。
玄関の鍵を閉めた音を聞いた瞬間、肩から力が抜ける。
アリスは戦闘服からいつもの大きなパーカーへ着替え、ソファへ座った。
俺も上着を脱ぎ、二つのマグカップをローテーブルに置く。
会議室では、ずっと数字とログを見ていた。
ここへ戻ると、目に入るものが違う。
飲みかけのコーラ。
映画用のリモコン。
ソファの背に畳まれた薄い毛布。
評価資料には一行も出てこないものばかりだ。
それなのに、この部屋へ戻った方がずっと息をしやすかった。
コーヒーへ手を伸ばしかけたところで、アリスがまだ自分のカップへ触れていないことに気づく。
「凪」
「ん?」
「質問があります」
「うん」
まっすぐこちらを見ている。
「私を残したい理由は、性能だけですか」
指が止まった。
会議室なら、すぐ答えられた。
曖昧な指示への判断精度。
拒否や恐怖の認識。
過剰出力の抑制。
どれも事実で、どれも今日説明したばかりだ。
なのに、目の前のアリスへ返す答えとしては、どれも違った。
視線の先に、ソファがある。
最初は、命令されなければ座る場所すら選べなかった。
今では俺の隣へ来る。
ピザを食べる。
コーラを飲む。
映画を見る。
必要がなくても手を繋ぐ。
熱を出した夜には、俺の手を握っていた。
クリスマスに渡したヘアピンを、自分のものだと確かめた。
昨夜は、涙を流しながら今の自分でいたいと言った。
どれも性能評価には載らない。
それなのに、ロールバックという文字を見たとき、頭に浮かんだのは数字じゃなかった。
「……違う」
声にすると、アリスがわずかに首を傾ける。
「何が違いますか」
「性能だけじゃない」
喉が乾いた。
マグカップへ逃げることもできた。
でも、今は目を逸らしたくなかった。
「俺が失いたくないのは、性能じゃない」
一度、息を吸う。
「アリスだからだよ」
心臓が強く鳴った。
口にした言葉が、自分の耳から戻ってきて胸へ落ちる。
アリスは動かなかった。
「私だから」
「うん」
「高性能機体だからではなく?」
「違うよ」
「軍の最重要戦力だからでもなく?」
「それも違う」
「白い死神だからでも?」
「それはもっと違うかな」
「軍内では識別性の高い呼称です」
「そこは譲らないんだ」
「事実です」
張り詰めていたものが少しだけ緩み、笑いが漏れた。
けれど、アリスの視線はまだ俺から外れない。
「現在の私ですか」
昨夜の声が蘇る。
――今の私でいたいです。
「うん」
今度は迷わなかった。
「今、ここにいるアリス」
アリスの目が、ほんのわずかに揺れる。
「凪」
「何?」
「心拍数が上昇しています」
「そこは報告しなくていいかな」
「計測自体は常時可能です」
「計測は仕方ないとして、口には出さないでほしい」
「理由を確認します」
「恥ずかしいから」
「羞恥反応」
「分類もしなくて大丈夫」
「了解しました」
アリスはようやくマグカップへ手を伸ばした。
一口飲んでから、またこちらを見る。
「ただし、記録は保持します」
「消してはくれないんだ」
「重要度が高いためです」
「何の?」
「凪に関する記録です」
心臓が、また余計な音を立てた気がした。
けれど今度は、アリスは何も言わなかった。
さっきの頼みを守っている。
そんな小さなことまで、今日は妙に目につく。
何かもう一つ、ここから先へ続く言葉がある気はした。
でも、まだ掴めない。
今は、それでよかった。
*
早めの昼食を済ませても、再招集までは少し時間が残っていた。
俺がソファへ座ると、アリスも端末を持って隣へ来る。
「追加教師データを選択しました」
「このタイミングで見るの?」
「空き時間の有効利用です」
端末を覗いた。
三本。
全部、同居恋愛ものだった。
「かなり偏ってない?」
「現在の比較条件に近い作品を優先しています」
「比較条件?」
「凪との生活です」
迷いのない返事だった。
「俺たちが比較対象なんだ」
「はい」
アリスは一本目を選びかけ、そこで指を止めた。
「訂正します」
「何を?」
端末からこちらへ顔を上げる。
「凪は、比較対象だけではありません」
思わず黙る。
「では?」
「現在の私における最重要対象です」
返事が出なかった。
「凪?」
「……聞こえてるよ」
「応答遅延を確認しました」
「ちょっと処理してただけ」
「私と同様ですね」
「そこ一緒にするんだ」
「事実です」
何事もなかったように、アリスが再生ボタンを押す。
映画が始まった。
肩が触れそうな距離。
ソファの上で、パーカーの袖から出た指先が俺の手の近くまで動いてくる。
触れはしない。
俺も動かなかった。
最重要対象。
軍用機らしい、妙に硬い五文字だった。
なのに、画面の中で恋人同士が何を話しているのか、しばらく頭に入ってこなかった。
凪にも、軍にも。
アリスの自己モデルへ、直接「好き」を書き込むことはできません。
今ある感情は、アリス自身が経験から作ったもの。
そして帰宅後。
アリスが凪へ尋ねます。
「私を残したい理由は、性能だけですか」
凪は、すぐには答えられません。
けれどもう分かり始めています。
失いたくないのは、高性能な機体ではなく――アリス。
そんな凪へ、アリスはさらりと言います。
「現在の私における最重要対象です」
次回。
最終再認定が始まります。




