30.祝福
日没を迎えた海は、黒々とうねっていた。南の方角にすすめば間違いなく対岸があるのに、今は何も見えない。
星を頼りにすすむしかなくて、荒波ひとつで転覆しそうな小さな木舟を、ユスラとセリは漕ぎ進める。
背後に見える岬の一部だけがくっきりと明るかった。屋敷はものすごい勢いで燃えているのだろう。
不規則にうねる炎の傍らには、きっとハンスがいる。2人が屋敷の中から出てこなかったと吹聴するために。
灯台にはゲオルクがいて、今この時も海をゆく者たちを導いている。まっすぐ海上を伸びてゆく強い灯光、それがどんなに心強いことか。
ユスラは二度と会えないかもしれない人たちを思って、胸を詰まらせた。
ふと隣を見ると、セリも静かに屋敷を見つめていた。
あの屋敷を捨てていなければ、セリは岬で短い生涯を終えるはずだった。
この選択は間違っていない。いないのだけれど。これからどうしたらいいのだろうという不安がいくつもいくつもこみあげてきた。
この身ひとつでロスタンに行くと決めただけ。
そんなよるべのなさにくじけそうになっていると、セリが前に向き直った。
「ねぇ、何かいる。」
指さした先には、海面から何か黒い坊主頭のようなものがいくつも浮かんでいた。それが消えたり、素早く動いたりしている。
海には様々な怪異があって、だから国教とは別に船霊信仰が根付いたのだと、ユスラは本で読んだことを思い出した。
怪異にはいくつも種類があるが、かならず生者を海の底に沈めるという共通点がある。
黒い坊主頭は少しずつこちらに向かってくる。祈りの言葉を繰ろうにも、ユスラにもうその資格はない。
セリにもらったネックレスの石をぎゅっと握っていると、セリが舟べりから海面に向かって手を差し出した。
こんな状況なのに、その横顔ははっとするほど平静だった。もしかして憑りつかれてしまったのだろうか。ユスラがセリを呼ぶと、人差し指を口にあててそれに応えた。
怖い。せっかく逃げたのに、海に引きずり込まれてしまうのか。こつん、と底に何かがぶつかる音がして舟が揺れてびくりと体を震わせる。
セリは海面に手を入れて水しぶきをあげた。それにつられた坊主頭がひとつ、舟のすぐそばで顔を見せた。
「これは…。」
月明りに照らされたのは、大きな魚のような生き物だった。つるりとした頭につぶらな瞳。
「イルカだね。実物は初めてみたよ。」
セリはそう言って嬉しそうにイルカの頭を撫でた。
「そんな風に触って、噛みつかれたりしないんですか?」
鋭い歯は、ユスラの手首なんて簡単に食いちぎってしまいそうだったが、セリは落ち着いていた。
「大丈夫。悪意はないよ。興味があって寄ってきただけみたい。」
不思議と、セリには彼らの言葉が分かるようだった。それにイルカたちもセリに近付きたくて仕方ないようにも見える。
一頭のイルカが短く鳴いて、ゆるりと尾びれを返して海面に出した。他のイルカたちも、みなセリを見上げている。
「陸地の近くまで案内してくれるみたいだ。」
意思の疎通がとれたと理解したのか、イルカたちは次々と全身を表した。
舟が転覆しない距離で、何度も高くジャンプしてみせる。
鈍色の海獣たちは月明りに照らされて、息をのむほど美しかった。まるでそう、祝福だとユスラは思った。
セリはオールを漕ぎながらゆっくりと舟歌を口ずさんだ。
ファヴェルでも、今は年配の漁師しか知らない古い歌だ。どこで知ったのか、長年連れ添ってきた歌のようにセリに馴染んでいる。
軽やかなメロディなのに、どこか物悲しい。イルカたちも、並走しながらうっとりと聞き入っていた。
二人はイルカたちに先導されながら夜通し海を渡った。
夜明けの気配が世界を縁取っていく頃になると、ようやく陸地が見えた。
イルカたちは一定の距離で留まると、それより先には決して来なかった。ここでお別れということらしい。
「君たちのおかげで助かったよ。ありがとう。」
セリの謝礼に応えるように、イルカたちは次々とジャンプをしてはもときた沖へと帰っていった。
二人はリージュ海岸にたどり着き、茂みに舟を隠すと森を抜けて街道へでた。
国境沿いの街ロスタンへ続くこの街道からは、乗合馬車もあちこち出ている。中継地として宿屋もいくつか並んでおり、よそ者が紛れ込んでも誰も気にしない雑多さが心地よかった。
無事に海を渡った安心感から、ユスラは馬車に乗り込むとすぐに眠気に襲われた。
「少し眠るといいよ。着いたら起こしてあげる。」
ファヴェルに来た時と逆だなと思いながら、ユスラはセリにもたれかかる。甘い眠気に身をゆだねて目を閉じた。
これにて第二部終幕です。
あと少しで最終話となります、引き続き応援よろしくお願いいたします。




