29.炎上
セリがゲオルクを連れて戻ってきた。
話をきいた灯台守は髭に手を添えながら渋い表情で切り出した。
「海から逃げるしかない。幸い海は凪いでおる。南へむかって夜通し漕げば朝にはリージュの外れに着くはずじゃ。そこから馬車を乗り継げばロスタンまで道はある。裏の入江から出れば、見つかることはないじゃろう。運を天に任せることが大きすぎるがな。」
すでに日没を迎えて辺りは薄暗い。この季節のファヴェル湾が比較的穏やかとはいえ、海の知識がほとんどないユスラとセリが舟を出すには、あまりにも厳しすぎた。
「私たち、海を渡り切ってから棄教するべきでしたね。」
ユスラの場違いな冗談に、セリがふっと笑った。
教会で育ち、教会しか知らなかった2人が信仰を棄てた。それがどれほどの意味を持つのか。ハンスはしばらく絶句していた。
棄教したなら、丸腰で海を渡ることなんて彼らにとってはなんでもないのだろう。イザイに捕まってしまえば、逃げ出すことは不可能。なら答えはひとつだった。
「俺の舟を使ってくれ。前に3人で乗っただろう?」
「でも、あれは…。」
「一緒に行くことができななら、せめてこれくらいはさせてくれ。餞別じゃない。これは貸しだ、いいな?」
「わかりました。一生かけてでも必ずお返しいたします。」
「そんないい舟じゃねぇよ。」
今度はハンスが笑う番だった。
「決まりじゃな。リージュまでこの灯台の光は届く。灯光を背に南へ向かって進めばいい。お前さんたちならきっと大丈夫じゃ。」
ユスラはセリの服を借りて少年を装った。とうとうこの屋敷を去ることになって、しばらく悩んでから声をあげた。
「ゲオルクさん。大変申し訳ないのですが、この家を燃やしてもいいでしょうか?」
逃げ延びる確率は少しでもあげておきたかった。ここで2人が死んだと思ってくれれば儲けものだろう。とはいえ、ゲオルクの気持ちを思えば無理にとはいえなかった。彼が嫌がればすぐに意見を取り下げるつもりだったが、灯台守はためらうことなく深く頷いた。
「かまわんよ。儂もそれがいいと思う。」
「ありがとうございます。」
ユスラは屋敷に入ると、缶にはいった油を床に撒きはじめた。それから以前セリが大量に拾ってきた松ぼっくりも、ばらまいていく。
マッチに火をつけると、それを床に落とした。火はあっと言う間に屋敷の中を明るく照らし、やがてじわじわと壁紙やカーテンを焦げつかせてはめくりあげていった。
勢いよく燃え始めた屋敷を、4人はしばらく呆然と見つめていた。
「ユスラとセリは自由を求めてこの町へやってきた。しかしイザイの追求で先がないと悲観した2人は屋敷に火を放った。あんたたちは、儂の忠告も聞かずにこの家から出てこなかった。それでいいかな。」
「はい。」
「あとのことは任せなさい。」
「なにからなにまで…ありがとうございます。大好きです、どうかお元気で。」
ユスラはゲオルクに抱きついた。その横で、セリが言葉を継いだ。
「力を還してくださってありがとうございました。」
「それに関して礼を言うのは儂のほうじゃ。じゃがまあ、これで手打ちということにしておこう。元気でな。」
名残惜しそうにゲオルクの手を握るユスラを、セリが引き離した。
「行くぞ、ユスラ。火事に気付いた住民がここに来る前に舟を出すぞ。」
ゲオルクにも灯台守としての仕事が残されていた。誰にも、別れを惜しむ暇などなかった。
ハンスの先導で、3人は岬の長い階段を降りると北の雑木林を抜けて、いつかの小さな入江にやってきた。いくつもの足音と怒号が、岬へ登って行くのが聞こえた。薄暗い中を早足できたので、転倒したユスラの腕には血が滲んでいた。それでもかまわず、繋いであった舟に荷物を積み込んだ。
「くそっ、こんなことならもっと手入れしておけばよかった。」
2人をのせた舟の係留ロープを解きながら、ハンスが苛立っていた。ユスラはそんな彼の肩を優しく叩いた。
「ハンスさん、充分よくしていただきました。この借りはいつかかならずお返しいたします。」
しゅるり、ロープが舟から外れて。あとは桟橋に立つハンスが船べりにかけている手を離せばそれで終わりだった。ハンスは一度深呼吸をすると、まっすぐユスラを見つめた。
「やっぱなし。」
「え?」
次の瞬間、ユスラはしゃがみこんだハンスの腕におさまり、キスをされた。
同意もなく奪われたはずなのに、結婚式の誓いのキスのように、それは正しく美しい口づけだった。
ハンスの瞳には、こみあげてきた涙とともにユスラへの愛情がたたえられていた。
「これで貸し借りなしだ。悪く思うなよ、セリ。…ユスラを頼む。」
ぐっと袖で目元をぬぐったハンスはもう、自分の方を見てはいなかった。
突然のことなのに、セリはひどく落ち着いていた。もしかしたらハンスの気持ちに気付いていたのかもしれない。それはユスラが触れていい話ではないと、黙って2人を見守るだけだった。
「分かった。ありがとう、ハンス。君と友達になれて良かった。」
「ばーか。そこは恋敵だろ。」
「うん。でも、世界で初めてできた友達だよ。」
「だったら便りのひとつでも寄こせよ。」
必ず、と頷いたセリの強さに、ハンスは満足そうに船べりを足でけり出した。




