27.棄教
ハンスには、セリの出自を伏せて出奔することとその行先だけを告げることにした。
なるべく人目をさけて、かつ密会と思われないよう、ユスラは彼を教会に呼び出した。ミサのない日は、司祭に代わって役場の職員が管理しているため、訪れる者はごくわずかだ。
ユスラは本を借りに来たていで、集会室で彼と落ち合った。
セリが何者でもあろうと、ハンスは変わらず親しくしてくれるだろう。やがて来るであろう ロザリオ教会の追求は、当然ハンスにも向く。彼を巻き込むわけにはいかない。
ハンスは最後まで落ち着いて聞いていた。だからこそ、彼の返答にユスラは驚いた。
「俺も行くよ。ここにいたって所詮は便利なポーター止まり、次へ上るにはいい頃合いだ。」
ハンスの目を見ればひと目で本気だと分かる。明日出立すると言えば、それに合わせて来るだろう。だからこそユスラは強く反対した。
「いけません。ハンスはここに残ってください」
「なんでだよ。」
「この先仕事をしていくつもりがあるなら信用を稼げといったのはあなたでしょう?いつか大きな商船を買うというあなたの夢を、邪魔したくありません。」
ハンスはユスラから目をそらすと、小さくため息をついた。
「しょうがないだろ。その仕事を投げうってでも守ってやりたいくらいあんたに惚れたんだから。」
「ハンスさん…。」
知らなかった、とは言えない。けれど彼の気持ちを受け容れることもできない。
「セリと付き合ってるのか?」
ユスラは黙って首を横にふった。
「なら俺を選べ。セリのことも一緒に面倒みる。2人のことは絶対引き離さないって約束する。だから、俺と一緒にこの町を出て3人で暮らそう。」
「いけません。」
「なんでだよ。あいつより俺のほうがずっと頼りになるし役に立つだろう?」
まるでセリがお荷物みたいな言い方はしないでほしい。ユスラはその一言をぐっと飲み込んだ。それだけハンスも真剣に考え手を尽くしてくれているのだ。
誰のことも傷つけずにいられたらいいのに。そう思いながら、心のどこかでハンスを利用しようとしていないかと心が翳る。
「ごめんなさい…。ハンスに同じだけの気持ちを返すことができません。私の人生は、セリのために使うと決めたので。」
返せたのは、それだけだった。
「セリの次でもいいって言ってもか?」
少しかすれた声に、頷くことはできなかった。ハンスは自分を落ち着かせるために、ふーっと深く息を吐いた。
「分かったよ。うん、分かってた。そういうユスラだから惹かれたんだ。」
「ごめんなさい。」
「謝るなって。俺が勝手に惚れたんだ。もし出ていくまでに気が変わったら声をかけて欲しい。気持ちが俺に向かなくてもいい。必要としてくれるのを待ってるから。」
ポンとハンスの大きな手がユスラの頭に置かれた。
ハンスの気持ちを知ってしまった以上、強くて優しいこの手は離さなくてはいけない。ユスラは必死で泣くのをこらえて彼と別れた。
*
出立の日が近づいて、屋敷の食糧庫はほとんど空に近かった。
ハンスがここまで食材を届けることはもうない。わずかな荷物をまとめて、いつでも出ていけるように整頓された屋敷は、来たとこと同じようにがらんとしていた。
ふたりの行先は、ゴーグを経由して3日ほど西へ進んだ所にある国境沿いの街、ロスタンに決めた。
果樹園が集まっているため季節労働者の需要が多く、果実加工場では運が良ければ正式雇用してもらえる。流れ者が住み着くにはうってつけだ。
ゴーグで馬車を乗り換えて、そこから先は個人の馬車持ちとの交渉次第だろう。
ある夜、ユスラは屋敷に残っていた小さな空き缶に、セリが岬で拾ってきた小さな松ぼっくりを入れた。
「何をしてるの?」
テーブルに置かれた見慣れないものに興味を示してセリが近寄ってきた。素直な好奇心に、屋敷にきたばかりの内面が幼かった頃を思い出してユスラは穏やかな気持ちになる。
「本来ならばキャンドルを使用するのですが、ここでは 高価なのでこれで代用です。」
マッチで火をつけると、油分が多く含まれている実はゆっくりと燃えはじめた。
「セリ、ひとつ私のわがままに付き合ってくれますか?」
「そんなの、いくらでも付き合うよ。」
「私がこれまでの信仰を棄てても?」
「僕を棄てないのならなんでもいい。地獄にだって付き合うよ。」
とうにセレストの面影なんてないのに。薄暗がりの中、小さな炎ひとつをたよりにそう言って笑うセリの顔は、恐ろしいほど美しかった。
ユスラはセリの隣に座った。手をとって額を合わせ、それからゆっくりと息を吐いた。
光は尽き 祈りは絶えた
迷える魂は道なき道を 荒れ野の果てまで彷徨い続ける
いばらと蛇を踏み 落日をゆく者よ これより先の安息はない
されど我らは祈ろう かそけき安寧が 死が訪れんことを
汝らが祈りの家に戻るまで
エルヴェーダ・エルヴェーダ
ユスラはゆっくりと額を離すと、深く息を吐いて火を消した。ただのまね事だ、それでも手が震えている。松ぼっくりの焦げた匂いが、煙とともに部屋に漂った。
「今のは?」
「棄教を打ち明けた信徒に、司祭が最後にかける一節です。実際に聞いたのは数回ですが、2度と口にすることはないでしょう。文字通りエルヴェーダです。」
心臓が異様な早鐘をうっていた。信仰を棄てた自分には、神の裁きが下るかもしれない。
そんな不安が喉元までせりあげてくる。ユスラは両手で首元を押さえた。
セリはユスラの手をそっとほどいた。共犯者の顔で、黙ってただ首を横に振って。
それで、充分だった。
ふたりはその夜、見えない疵をかばい合うように寄り添って、同じベッドで眠った。




