26.旧聖女
「ユスラさんたちが住んでる屋敷はな、今から60年前、ある方のために建てられたんじゃ。」
老いた灯台守はしゃがれた声でゆっくりと語る。
「貴族の別荘だったと聞いています。」
「表向きはな。やってきたのは1人の青年と年老いた下女だけじゃった。ある青年を見捨てるためだけに、わざわざこんな辺鄙なところに1から家を建ておった。彼はロザリオからやってきた。非常に美しい見た目をしていたが、ここに来た時には正気を保つのもやっとというほど心を病んでいたらしい。
器というのが役目を終えた聖女のことだと知ったのは、ずいぶん後になってから。ここではただ『うつわ様』と呼ばれていたそうじゃ。」
ユスラの全身から熱が引いていくようだった。
セリがロザリオを離れると聞いた時、なぜファヴェルなのだろうと思っていた。どこか僻地の修道院だって良かったのに、と。
「当時この灯台には若い夫婦が住み込みで雇われていてな。妻とそう歳のかわらん気の毒な青年のことを夫婦はずいぶん気にかけてやったらしい。」
「ゲオルクさんのご両親も灯台守だったのですね。」
ゲオルクは黙って首を横にふった。
「灯台守の夫婦はなかなか子どもに恵まれない。そのうち2人で仲良く暮らすのも悪くないかと思ってたところへ名前も持たぬ青年がやってきた。
妻は彼を気の毒に思い、年老いた下女では行き届かないこともあるだろうと世話をかってでた。なにしろずいぶん美しかった。羽虫が光に寄っていくように、妻は青年の屋敷へ通い詰めるようになった。
その後のことは、想像に難くはないだろう?灯台守が妻の過ちに気付いた時には、産み月まで100日を切っておった。その頃のうつわ様はほとんど狂人で父親の自覚どころか、自分の子ができたと認識していたかもわからない。
灯台守は悩んだ末、天からの贈りものとして生まれた赤ん坊を夫婦の子として育てることにした。子どもはゲオルクと名付けられた。」
遠くでデイルが楽しそうに吠えて、海風がわずかな木々を揺らしていく。
寂しいとはいえのどかで落ち着いたこの岬で、そんなことがあったなんてユスラには信じられなかった。信じたくなかったが、ゲオルクが抱える独特な孤独がどこからきたのか、ようやく理解できた。
「その…元聖女の方は。」
「儂が生まれる直前に、崖から身を投げて死んだよ。ほら、ちょうどあのベンチの先から。儂が父親からすべてを聞かされたのは、15の冬のことじゃった。」
ゲオルクは灯台と屋敷の間にあるベンチを指さした。もしかしたらあれは、彼の死を悼むために置かれたものなのかもしれない。
「子どものころ、町へ下りる度に住民が儂をみてフギノコと指をさして眉をひそめた。意味はわからずとも自分が好かれていないことくらいわかる。
辛かったよ。何が一番堪えたかってなぁ。父親が儂を見る目に同情しか含まれていなかったことじゃ。恨んだり、邪魔者扱いしてくれた方がどんなにマシだったか。
父は、生まれた子に罪はないといつも言っておった。とっくに悪くなった食べ物を、まだ食べられると吐き気をこらえて無理して食べるようなもんじゃ。こんなものが食えるかと、さっさと捨ててしまえばよかったものを。」
悲しい記憶が残る場所で、不義の子と後ろ指をさされながら何十年も暮らしてきた。ゲオルクのこれまでを思ってユスラは苦しくなった。
「町を出ようとは思わなかったのですか?」
「子どものころから船乗りに憧れていたから、ふた親そろっていればとっくに出て行っただろうな。
母親が自殺したのは儂が5歳のころじゃった。器の青年と同じ場所から身投げして、それも結局遺体は上がらなかった。血は繋がっておらんでもなぁ、かたくなに墓を作らなかった父親を置いて自分だけこの町から出ていくなんて、できなかったよ。
40を過ぎたころ、病で父を亡くしてようやく自由になれたと思ったが、外の世界に出ていくには年を取りすぎていた。船乗りは儂にとって憧れではなく、とうの昔にここから見守る存在になっていたんじゃ。それから今まで犬と2人暮らしというわけだ。」
男の聖女という存在によって人生を狂わされた人が、セリ以外にもいたのだというやりきれなさにユスラは言葉を詰まらせた。
聖女が救済する世界で、男の聖女は誰に救ってもらえば良かったのか。どんな慰めの言葉も彼には届かないだろう。
これは告解だと分かっていても、聞くことしかできない自分がもどかしくてユスラはぎゅっと両手に力をこめた。
「こんな老いぼれに元聖女の血が流れとるなんてと思うだろうが。」
ゲオルクはそう言って静かにシャツのボタンをはずした。右の鎖骨のあたり、皺だらけの皮膚にくっきりと聖痕が刻まれていた。
「消えてくれと、何度も願ったよ。」
「…同じ痣を、大司教ネイス様の腕に見た事があります。特別な力を宿す人にあらわれるのだと教わりました。」
ゲオルクは鼻をならして自嘲する。
「特別な力?たまに天に還れず地上にとどまっている死者の姿がみえるくらいで、何の役にも立たんさ。フギノコとして後ろ指をさされ、父親の心を曇らせたままこの灯台で一生を終えていく。
だけどなぁユスラさん。この歳になってあんたたちがやってきた。セリに会った瞬間、すぐに器だとわかった。
あれは不思議な感覚じゃった。なにしろむしょうに懐かしくてな。ずっと乗りたかった船にやっと乗れた気がしたよ。自分は何のために生まれてきたのかと、ずいぶん悩みもしたがね。ようやくわかった。」
ガラス玉のようなゲオルクの瞳に、涙が滲んだ。きっと今が、彼にとっての大きな転換期なのだろう。でも一体なにが?ユスラには皆目見当もつかなかったが、ゲオルクは気にすることなくセリを呼んだ。
「セリ、ちょっとこっちへ来てくれんか?」
「話は終わったのかな。」
「いや、これで終わる。すまんが、そこに膝をついて座ってくれんか。」
ゲオルクは、言われた通りに跪いたセリの頭に手をかざした。よく日焼けして、一日も休むことなく働いてきた灯台守の手だ。
やがてゲオルクは低い声で何かを詠唱しはじめた。聞いたことのない歌が、波紋のようにあたりの空気をふるわせていく。
何かは分からないが、これは間違いなく聖女信仰に関わるものだ。似たような文節を高位聖職者の葬儀で聞いたことがある気がして、ユスラは不安になった。それでも、絶対に邪魔をしてはいけないと背筋を伸ばして2人を見守った。
やがてゲオルクの聖痕が光って2人を包み、セリの体のなかに光が吸い込まれていった。
この暖かさを、ユスラは良く知っていた。かつて聖女セレストが巡礼者のためのミサで放っていた光によく似ている。
「なんだろう、体がふわふわしてすごく温かい。」
「ゲオルクさん、今のは一体…?」
「誰に教えられたものでもないが、物心ついたころから不思議と口をついてでる祈りの一節じゃ。昔この町にいた司祭に聞いても知らんと突き放されたが、この時のために授けられていたのだろうなぁ。」
ゲオルクは深い感動に包まれているように見えた。長年使われることのなかった祈りの言葉が、灯台守の深い孤独をゆっくりと溶かしていくようだった。
「セリ、聖女の血に遺された力を、器のお前さんに還した。お前さんは儂よりうんと長生きするだろう。この先なんでもいいから歌を大切にしなさい。聖女でも器でもなくなっても、歌はお前さんのことを守ってくれる。」
セリの最期が遠ざかっていったことで、ユスラの手は震えていた。
「ゲオルクより長く生きるなんて想像つかないな。しわくちゃのお爺さんになって、誰だかわからなくなってるかもよ。」
ゲオルクは声をあげて笑った。寡黙な彼がこんなに笑うのを、ユスラは初めてみた。
「それでいい。人の世に埋もれて老いていく。それがどれだけ幸せなことか、お前さんにはまだ分からんだろうがな。この齢で、儂はようやくただの人になれた。」
いろんな感情がまじりあってこらえきれなくなったのだろう。ゲオルクの目からとうとう涙がこぼれた。
「すまんが、少し疲れたようじゃ。小屋に戻って休むとするよ。」
ユスラは咄嗟に、セレストとの最期のやり取りを思い出した。
「大丈夫ですか。私、付き添います。」
眠ってしまったら二度と目を覚まさないのではないか。ユスラはゲオルクに付き添おうとしたが、彼はそれをやんわりと退けた。
「心配せんでも死にゃあせんよ。真っ当な寿命がまだそれなりにあるはずだ。しばらくは、デイルと共に失った力を惜しむとするさ。」
「わかりました。私にできることはありませんか?」
「そうさな。信仰を捨てる前に、最後に儂の長い年月に祈りを捧げてくれたら嬉しいよ。」
「わかりました。ゲオルクさんのこれからの人生が明るいものであるように、セリと心からの祈りを捧げます。」
「ありがとう。出ていく日が決まったら知らせてくれ。餞別を用意しておこう。」
ゲオルクの顔はすっきりしていた。
その夜ユスラは安寧を願う祈祷の文節を口頭でセリに分け与えると、長い長い祈りを、ともにゲオルクのために捧げた。彼に残された人生が穏やかな幸せに満ちたものであるようにと、心から祈った。




