20.道標
しばらくベンチでぼんやりしていると、足音がしてやがてハンスがやってきた。
「どうだった?」
仕事の都合をつけて様子を見にきてくれたハンスに感謝しながら、ユスラは小さく微笑んだ。
「今回はなんとかお引き取りいただけました。」
イザイがセリに何をしたかは言わなかったけど、ユスラの表情からよくないことがあったのだと察したのだろう。隣に座ったハンスは「ひとまずお疲れ様。」とだけ答えた。その一言に何かがゆるみ、ユスラはぽつつりぽつりと話しはじめた。
このままでは援助が打ち切られるかもしれないこと。イザイには後ろ暗いところがあるが、次の大司教候補であること。
彼の言いなりになって、セリをこの屋敷に閉じと込めておくつもりはないというユスラに、ハンスは「そりゃそうだ。」と、ユスラの背中をポンと叩いた。
「…がんばったな。」
「え?」
「ひどい顔してるから、必死でセリを守ったんだろうなって。なんとなくだけど。」
「守るどころか、傷つけてしまったかもしれません。」
「あいつも男だ、あんたを盾にするより自分が傷つく方がマシだと思ってるだろうよ。」
「そうでしょうか。」
「俺はセリの出自は知らないし、2人にしか分からない事情ってやつもあるんだろう。でも、誰も頼れないなんて思うなよ。俺もチェルシーも、ゲオルクの爺さんや司祭だって、みんなあんたとセリのことが好きなんだ。」
ハンスはまっすぐそれだけを言うと、手にしていた紙袋を差し出した。
「消耗してるだろうと思ってマドレーヌ買ってきた。どうにもしんどくても、甘いもの食べれば踏ん張れる時もあるだろ。負けるなよ、ユスラ。」
ユスラはまともにお礼を伝えることができなかった。昨日からはりつめていた緊張が、ハンスの優しさで決壊したからだ。ユスラが泣き止むまで、ハンスは隣で静かに待っていた。
共感も励ましも応援もいらない。ただ側にいてくれるということがどれだけありがたいことか。
ユスラがひとしきり泣いて落ち着くと、ハンスはハンカチを差し出した。
「これ、使ってないやつだから。」
「ありがとうございます。…見苦しいところをお見せしてしまいましたね。」
「全然。そろそろ行くよ。セリにもよろしく。」
「ハンカチ、洗ってお返ししますね。」
「いい。あんたにやる。」
ハンスは足早に仕事へ戻っていった。泣きたいのはセリの方だと言い聞かせながら、ユスラも立ち上がった。
世話役の自分がしっかりしなくては。すべてをかけて守ると決めたのだから、いろんな人の力を借りて生きていかなくては。
―負けるなよ、ユスラ
ハンスの言葉は経典よりも確かな導となって、ユスラの心の中にいつまでも残り続けた。
日没前になって、セリが帰ってきた。
顔を見た瞬間、昼間のキスのことを思い出してどう接すればいいのか戸惑いつつも、最初にかける言葉はやっぱり「おかえりなさい。」だった。
ただいまを言うのはセリの方が多くなったなと思いながら、ユスラは彼を迎え入れた。
「お店はどうでしたか?」
「最終日が一番売れたよ。この顔が役に立って良かった。」
茶化すように笑っていても、その目は傷ついているように見えた。イザイに無理やりキスされたのも、目立ちすぎる容姿のせいだと思っているのだろう。
きっと、否定も肯定もセリを傷つけてしまう。ユスラはそっとセリの背中に触れた。
「セリの誠意が伝わったのですよ。お疲れ様でした。」
食事にしましょうとキッチンへ向かおうとしたユスラは、セリに呼び止められた。
「ひとりでここにいて、大丈夫だった?」
「ええ。ハンスが様子を見に来てくれましたよ。」
頼れる知人が来てくれたことを知れば、きっとセリも安心するはず。そう思ったのに、セリの機嫌は悪くなるばかりだった。
「…ずいぶんハンスと仲良くなったんだね。」
「色々助けていただいて、本当にありがたいことです。」
「僕じゃ助けにならない?」
少し低くなった声、昏い瞳。セリの異変を感じても、ユスラはまだ疲れているのかもしれないとしか思わなかった。
「そんなことはないですよ。」
「あるよね。ハンスはかっこいいし、仕事もできるし友達も多い。」
「セリ?」
「ねぇ、ユスラはあまり町に下りないから知らないと思うけど、ハンスってけっこうモテるんだよ。」
「セリのことを特別に思っている方だって沢山いるでしょう。」
「そうだね。手紙や贈り物を差し出されたことは何度もあるよ。一度も受け取ったことはないけどね。」
一緒に歩いている時に集まる視線からそうだろうとは思っていたが、本人の口から聞くのはこれが初めてだった。
他人と比べるなんて、セリらしくない。それほど、イザイの訪問が堪えたのだろう。そう思うとユスラには何も言えなかった。
「時々思うんだ。ユスラが心から僕を必要としてくれたらいいのにって。」
「セリ…?私にとってあなたは必要な、心から大切な存在ですよ。」
「知ってる。僕が記憶を取り戻せないまま生きていても心を失わずに済むのはね、ユスラがそうやって愛をくれるからだよ。愛してくれるけど、真実を話してはくれないの?」
ふいに核心をつかれて、ユスラはなにも返せなかった。
その表情を見て、まだ語られていないことがあるとはっきり悟ったのだろう。セリは目の前に立つと少しかがんでユスラの目をまっすぐのぞきこんだ。
「ねぇ、ユスラ。聖女と僕はなんの関係があるの?頼むから教えてよ。何を隠しているの?」
目をそらすことはできなかった。潮時、という言葉がユスラの脳裏をかすめた。
彼には知る権利がある。彼の過去について隠すのは、教会がセリをここに閉じ込めているのと同じじゃないか。
ユスラの胃の底がぎゅっと縮こまったが、そんな痛みは些細なことだった。
「先に食事にしましょう。長い話になると思いますので。」
ユスラはそう言って配膳のために席を離れた。




