19.決断
イザイが帰ったあと、セリはシャツの袖で何度も目元と唇を拭った。
それからキッチンにある溜め水で勢いよく口をすすぎはじめた。少し遅れてキッチンに続いたユスラは、はっとして声をかけた。
「セリ、待ってください。生水を口に入れないで。今湯冷ましをもってきますから。」
その場を離れようとしたユスラの手首を、セリがつかんで抱きしめた。ずるずると座り込みながら力強く背中に回された腕は、かすかに震えていた。ユスラはセリの背中に手をまわすと、ゆっくりとさすった。
「ごめんなさい。」
「…なんでユスラが謝るの?」
「あなたを守れなくて。」
本当に殺してしまえばよかった。
イザイの言う通り、自分はすっかり俗世にまみれてしまったのだろうか。誰かの死を望むなんてあってはならないことだったのに。ユスラは自分の激情に、静かに驚いていた。
「ねぇユスラ、正直に教えて欲しいんだけど。」
「…はい。」
「僕は、死ぬの?」
質問というより確認だったが、セリは落ち着いていた。
余命とは一体なんだろう。これより先の時間はすべて未来であり、命はただ命なのに。
ユスラはセリにむきあって、まっすぐその瞳を見つめた。何があっても光を失わず、幸せになって欲しい。そんな気持ちをこめて。
きっとセレストも自分をこんな風に見ていたのかもしれない。ユスラの中から真っ黒な殺意が少しずつ溶けていった。
「人はいつか必ず死にます。その日がいつになるかは、誰にもわかりません。。」
「僕は聖女の代わりだった?」
「さっきも言ったでしょう?神に誓ってそんなことはないと。私は聖女セレスト様より、あなたのことを託されました。ご自身の死期を悟っていたのでしょう。」
「でも、教会に戻るって。」
「私は教会にもどらない覚悟でここファヴェルへやってきました。誰に何を言われても、その気持ちに変わりはありません。命があとどれだけ残されているかはわかりませんが、最期の日がくるまで、セリがのぞむなら私はずっと傍にいます。」
「そっか。ならずっと一緒にいて、僕がうけた穢れも半分もらってくれる?」
イザイにされたことを思い出しているのか、こんな場所に追いやられた境遇を嘆いているのか。いずれせよ半分どころか全て貰いうけるのに。
眉間に皺を寄せたセリの頬に手をあてて、ユスラはもちろんと答えた。
「良かった。」
セリはそう言ってさらにユスラを抱き寄せると、額と唇に口づけを落とした。
花びらがそっと柔肌に落ちるようなキスだった。
「色々聞きたいことはあるし、気持ちの整理も全然ついてないけど。とりあえずチェルシーの店の手伝いにいってくるよ。この先も仕事をしていくなら、信用を稼がなくちゃね。」
「待ってセリ、湯冷ましを。」
「いいよ。もう綺麗にしてもらった。」
親指の腹でユスラの下唇に触れると、セリは家を出て行った。
偽りのない言葉が、少しはセリの中に届いていればいいのに。
帰ってきたらセリに聖女セレスト様のことを話そう。
ユスラは、顔のほてりがさめるとホールへ戻り、割れたティーカップを片づけた。
*
花祭りは今日が最終日だった。人気のない岬にも、なんとなしに町の喧騒が立ち上ってくるようでユスラは少し落ち着かない。
セリは最後まで店に立っていられるだろうか。あの恐ろしい男に唇を奪われて、具合が悪くなったりしていないだろうか。綺麗にしてもらったと言ったけれど、強がりだったかもしれない。
ユスラは自分の唇にそっと触れてみる。穢れなんて、半分と言わず全てもらい受けるのに。
夕食の下ごしらえをすませてしまうと後は何をする気にもなれなくて、外に出た。
崖下から吹き上げる潮風が、下ろしたままの髪を容赦なく乱していく。もつれる髪にかまうことなく、ユスラは屋敷と灯台の間に置かれたベンチに腰かけた。
ゲオルクに初めてあった場所からは、水平線が良く見える。凪いだ海のむこうは、少しだけユスラの心を落ち着かせた。
イザイのことは本当に憎かったが、彼が言っていることがすべて間違っているとも思えないのが苦しかった。
ここでの生活を金銭的に保障しているのは教会だ。聖女だった御方が労働でわずかな日銭を得るなどあってはならない。それも分かる。
不自由なく援助されているにもかかわらず、教会の反対を押し切ってまで好き勝手やっていいわけではない。
援助されている限り、自立は成立しない。
セリが一人の青年として生きていくには、どうしたって制限がかかる。
「自由と責任」
ユスラはぽつりとそれだけを呟いて、しばらく海を眺めていた。
セリの口づけの余韻に浸る間もなく、大きな決断がユスラの中で固まりはじめていた。




