17.崩潰
翌日、イザイはたった一人で岬の屋敷へやって来た。
教会にいる時は、どこに行くにも必ず若い侍従を連れていた印章が強かったのに。セリがセレストだったことを秘匿するためなのか、自分たちとの面会に護衛は必要ないと判断したのか、とにかく誰も伴っていないイザイには違和感しかなかった。
ユスラは用心深く彼を屋敷へ迎え入れた。
六角形のホールで出窓を背に、姿勢を崩さず座るイザイはおそろしく絵になった。ユスラが教会に入った時にはすでにそれなりの地位にいたはずだが、その頃から容姿はほとんど変わっていない。
下働きも修道女見習いも一度は容姿端麗で有能な彼に憧れるが、ユスラはずっとイザイのことが苦手だった。
聖女セレストの側仕えとしてふさわしくないと、どれだけの叱責や折檻を受けた事だろう。今だって、同じ空間にいるのが耐えがたいほど恐ろしい。
口の中にじわりと広がる血の味や、真冬の屋外で裸足のまま何時間も経典を読まされた皮膚の痛み。聖職者の遺体安置所も兼ねている地下礼拝所に一晩閉じ込められた時の黴臭さが鮮明によみがえる。
最初の頃は事情を察したセレストが抗議してくれたが、そうなるとイザイは服で隠れる場所に”躾”をはじめ、やがて精神的苦痛を与える方法でユスラを潰しにかかった。
自分がされたことを聞いてセレストが心を痛めることが何より辛くて、ユスラはイザイにされたことを誰にも言わなくなった。
話をする前から負けてしまいそう。お茶を出して席についたユスラの手を、隣に座るセリがテーブルの下でぎゅっと握る。決してこちらを見ない。それでも全身で自分を心配しているのが伝わってきて、ユスラは背筋を伸ばして足の裏にぎゅっと力をこめた。
「この薬草茶は、聖女セレスト様が飲んでいたものに近いですね。」
「…はい。喉に良いハーブを組み合わせています。」
「懐かしい。相変わらずお茶を淹れるのだけは上手いですね。」
思いもかけずほめられて、ユスラは顔をあげた。目の前のイザイはにこやかにカップに口をつけている。
この男は、一体誰なのだろう。この町の人間と親しく付き合い、セリが働いていたことを叱責しにきたはずなのに。聖女の死でおかしくなってしまったのだろうか。それはそれで恐ろしい。
「さすがはユスラ。セレスト様のためにすべてを捧げた側仕えの鏡ですね。あなたの献身ぶりは我々のなかでも非常に評価が高いのですよ。いずれ教会に戻れるよう手配しますから、もうしばらくの辛抱です。」
イザイがこんなことを言うなんて。それにあれだけ『なってない』と折檻してきた自分を戻すなんて一体どういうつもりなのだろう。
困惑していると、それまでぎゅっと握られていたセリの手がふいに離れた。彼の顔をみてユスラは悟った。
違う、イザイは狂ってなんかいない。
この男はより効果的に毒針を刺せるよう、嗜虐の矛先をユスラからセリに変えただけなのだ。
思えば、今までセリの前ではっきりと聖女セレストについて話したことはなかった。セリが目を覚ますまで、ユスラはただ教会で働いていたとしか伝えていない。
ユスラの表情が硬くなったのを見て、イザイは心底上機嫌で笑うとカップを置いた。
「ところで私は先日西北のラトリアにある教区で絹織物の生産を視察してきたのですがね、ユスラは蚕を見た事がありますか?」
「え…?」
唐突に、なぜ虫の話など。ユスラの困惑にかまうことなくイザイは話を続けた。
「絹糸をとるために蚕を育て、さなぎになった繭から糸をとるでしょう。多くは繭のまま茹でられて死にますが、子孫を残すために一部は羽化させるのです。美しい糸をとるために品種改良されてきた成虫には口がありません。食べることも水を飲むことも、飛ぶこともできず一週間で死んでいく。人のためにすべてを捧げてくれる、実に儚く崇高な生き物です。
私はね、ユスラ。男の聖女というものは蚕のようなものだと思っているのですよ。セレスト様が還られた後、眠っていた体はまさに繭そのものでした。今のそれは羽化したばかり。長く生きることはできない定め。純潔を失えば余命はさらに縮まるでしょう。
今の援助額で不足があるなら増額しましょう。無理に働かせることはないのです。美しいものを美しいままに空に還すのが、我々聖職者の役目ではありませんか。」
イザイは敢えてセリの名を口にしなかった。自分で悟らせることで、追い詰めるつもりなのだろう。大司教補佐の形のよい唇はひどく歪んでいた。
「ユスラ、一体どういうこと?長く生きることはできないって、それ一体誰の話?いずれ教会に戻るって本当?」
セリの問いかけには慎重に答えなくてはいけない。なのに、ユスラが言葉を選んでいる傍から、イザイは追いうちをかけた。
「おや、ユスラ。あなたまさか彼に真実を伝えていなかったのですか?そればかりではなく労働をさせていたとは実に罪深い。」
ユスラの沈黙は、肯定と同じだ。
分かっているのに、どう答えればいいのかわからない。銀縁の眼鏡の奥で光るイザイの鋭い瞳を向けられて、うまく呼吸ができない。何か、喋らないといけないのに。
この町に来てから、慎ましく懸命に積み上げてきた静かな日々が崩れていく音がした。
もちろんそれはユスラの空耳に他ならないのだけど、同じ音がセリにも聞こえていたのだろう。そういう表情をしていた。




