12.邂逅
仕事に空きができると、ハンスは本当に舟遊びに誘いに来た。
予定のない日を聞かれていつでもいいと答えたユスラだったが、都合がつかないのだろうとばかり思っていたのに。
今日はいつもと違って前髪を下ろしている。普段は動きやすいようにゆとりのある麻のシャツなのが、今日は薄手のシャツに若草色のベストを着ている。
「いつもと雰囲気が違いますね。素敵です。」
「遊びに行く日だからな。」
ハンスはそう言ってニヤりと笑った。
「どこ行くの?」
イレギュラーな雰囲気に警戒したのか、ユスラの後ろでセリがそう訪ねた。セリの声が低くなったことに一瞬驚いた顔をしたが、ハンスはすぐにいつもの無愛想に戻った。
「ユスラと遊びに行くんだよ。セリ、お前もくるか?」
「行きたい!」
「良いんですか?」
誘われたのは自分で、セリをどうしようかと悩んでいたユスラは顔をあげた。
「心配するな、もともとそのつもりだったから。」
「そうなんですか?」
「ああ。ユスラとセリはセットだろ。無理に引き離すより、焦らず時間かけようと思ってな。」
ハンスの言葉の意味が理解できなかったが、その表情から悪い意味はないのだろう。出かける支度をすると、3人はそろって岬を降りた。
ハンスの案内で町へ向かう通りとは別の、北へ向かって伸びていく雑木林の中を歩いていく。
ここを抜けると小さな海岸に出る。石ばかりのビーチに浅瀬が続くので、海水浴にも漁船を停泊させるのにも向かない。釣り人が小さな舟を繋ぎとめておくためのひっそりした入江だった。
ハンスは、板を数枚繋ぎ合わせただけの桟橋からユスラとセリを手漕ぎ舟に乗せた。二人がしっかり座ったのを確認すると、沖へ向かってゆっくりと漕ぎだした。
波はおだやかで、沖合には漁船がいくつか見えた。舟に乗るのは初めてだった。陸地を離れるということがこんなにも心細いものなのかと、ユスラは離れていく海岸を眺めた。けれど反対側に目をむければ、そこには無限が広がっているようにも思えた。
聖堂に身を置くのとも違う、深い畏敬の念が胸を満たす。海の向こうへ行きたがる人が後を絶たないのも分かる気がした。同じことを、セリも感じとっていただろう。
「ねぇユスラ。僕はずっと海を見たかったんだと思うよ。海のすぐそばで暮らしているのに、どうしてそんなふうに思うんだろうね。」
彼はそう呟くとじっと灯台を見上げた。
なにかがおかしい。かすかな異変にユスラが声をかけようとしたが、セリは目を閉じると大きく息を吸った。
たっぷりとられた沈黙の後、目が見開かれると同時に歌が生まれた。世界がゆっくりと書き換えられていく。そんな予感がして、ユスラの腕に鳥肌がたった。セリが、ゆっくりと歌い始めたのだ。
光の御方がさしのべた
すくいの灯を絶やさずに
今日のこの日を生き延びて
それを繰りては地に還る
光の御方が絶えたのち
小さな灯りを集めたら
祈りを紡ぎ家を建て
明日へつなげて天を知る
それは、巡礼者のミサで聖女にしか歌うことが許されていない特別なオラトリオだった。
ひばりの聖女よりも1オクターブ低い声でゆったりと紡がれる祈りに、カモメたちが寄ってきた。
「うわ、なんだこれ。」
人を恐れず舟のヘリにじっととまっている異様な海鳥に、ハンスは驚いた。
セリは確かにセレストだったのだ。もういないけれど、ちゃんと残ってる。ユスラは目に涙をいっぱいにためて、スカートをぎゅっと握りしめていた。
いつまでも聞いていたい。カモメたちですらそんな顔をしていたが、聖歌の断片は波間へと消えていった。歌い終わったセリは一呼吸おいてから空を仰ぐ。
「セリ?」
虚脱したままの体に触れようとしたユスラの肩を、ハンスがつかんだ。船頭役は、小さく首を横に振る。
「こういうの、俺が生まれた土地では憑き物っていうんだ。たぶん今は声をかけない方がいい。」
もしかしてセリもどこかへ行ってしまうのではないか。ハンスの真剣な口ぶりに、ユスラは不安になった。
「大丈夫、しばらく放っておけば戻るはずだ。」
もう一度歌が生まれないかと、カモメたちはしばらく舟に留まっていたが、やがて諦めたように一羽二羽と飛び立っていった。
「カモメが飛んでく…。」
ふいにセリが口を開いて、舟の上の緊張感は一気にゆるんだ。
「セリ、大丈夫ですか?どうしてその歌を知っていたのですか?」
問い詰めないようにと、必死で自分を押さえながら、ユスラはゆっくりとそう尋ねた。
「わからない。気が付いたら歌ってた。自分が自分じゃないみたいで、すごく不思議な気分だったな。体がぽかぽかするよ。」
「そうですか。とても…とても素晴らしい歌でしたよ。」
思いもかけない再会に、ユスラは滲んだ目をこすって笑った。
「そろそろ戻るか。」
ユスラの涙に気付かないふりをして、ハンスは陸に向かって舟を漕ぎはじめた。
*
海上で知らないうちに体が冷えていたのだろう。舟をおりたハンスは流木を椅子がわりにして、手際よく火を起こした。セリが興味深そうに眺めているうちに、スパイス入りのミルクティーを淹れてくれた。
「潮風は体を冷やすからな。砂糖は好みで。」
そういって砂糖が入った小瓶まで用意しているあたり、仕事人だとユスラは感心する。
「ハンスは、この町の生まれだと思っていたのですが違うんですね。」
「ああ。こっからさらに北にある、貧しい村の生まれだ。俺は5番目だったから、自分の食い扶持は自分で探せって早々に奉公に出されたよ。年季があけて独立したのが2年前。」
「大変だったんですね。」
「どうかな。裕福な大店だったから食うには困らないし、家よりはるかにいいベッドで眠れたし。仕事も1から仕込んでもらえて、恵まれてる方だったよ。今にして思えば、憑き物ってやつも栄養がたりなくて虚脱状態だったんだろうな。あんな悲惨な村には2度と戻りたくないね。だから金をためて、俺はいつか自分だけの船を買うんだ。」
「船?」
「そう。この辺りは小さな島もけっこうあってさ、そういうところに荷物運んで。少しずつ大きくして、ゆくゆくは商船を持ちたいんだ。だから時々こうして舟を借りて、行くべき場所を見失わないようにしてる。ま、ただ舟が好きってだけなんだけどな。」
教会で用意された暮らししか送ってこなかったユスラにとって、すべて自分で責任を負って行動するなんて、ただただ尊敬の対象だった。
「それはすごいですね。ハンスならきっと成功しますよ。外国へいって珍しいものをたくさん買ってきてくれそうです。」
ユスラは無邪気にすごいすごいと感心しながら、いつか成功するだろう未来を思い描く。ハンスの少し寂しそうな表情に気付くことなく。
「ああ。あんたに似合いのものを、なんだって買い付けてくるよ。」
ハンスの翳りに気付いたセリだけが、焚火越しにじっと彼を見つめていた。




