09.野犬
「町のはずれで野犬の群れが出たそうでな。どうも今年は多いらしい。自警団が見回りをしとるが、それも町中だけだ。普段は襲わない海鳥を狙ってこの辺りまで登ってくるかもしれんから、あんた達も十分用心しなさい。」
寒くても日に一度は外へ出るようにしていた二人がそんな物騒な話を聞いたのは、歳の暮れまであとひと月という頃のことだった。
灯台守のゲオルクは、寒風のなか愛犬デイルが駆け回るのを眺めながら続けた。
「とはいっても、この辺りじゃ見かけたことはない。町へ降りる時には獣除けの香を使うといい。ハンスに頼めば持ってきてくれるじゃろう。」
貴族のご夫人が抱いている小さな愛玩犬と人懐っこいデイルしか知らないユスラにとって、人を襲う犬の群れなんてにわかには信じられなかった。獣除けも気休め程度だと聞く。どうか遭遇しませんようにと、祈るしかない。
こうなったら春になるまでは極力外出を控えるべきかと思っても、屋外で過ごすのが大好きなセリは真冬だろうと雨が降らなければ家から出たがった。
セレストだった頃、ほとんど外出が許されなかった反動なのかもしれない。ユスラは、だからセリに誘われると断れなかった。屋敷の近くなら野犬もこないだろうとつい甘やかしてしまう。
「あまり遠くへ行かないでくださいね。」
ユスラの忠告を聞いているのかいないのか、セリは林の方へ向かって枝を拾いながら歩いていく。ずんずん進む後姿に、村役場のセルゲイの言葉がふとリフレインする。
お可哀そうにー
あの方は一体、セリの何をみていたのだろう。あの時も今も、しっぽがついていれば間違いなくぶんぶん振っていると思われるくらいご機嫌なのに。
後ろ暗い思考にとらわれていると、いつのまにか屋敷から離れてしまった。沖合の空はここよりずっと暗く、天気が荒れるかもしれない。
ユスラはそろそろ帰ろうと、雑木林に入ろうとしていたセリに声をかけた。なにか面白いものでも見つけたのだろうか。セリはじっと立ち尽くしている。
「ねぇユスラ。」
「なんですか?」
心なしか声が強張っている。なにを見つけたのだろうか。
「いぬがいる。」
「えっ?」
あまりにのんびりした答えに一瞬混乱したが、嫌な予感がしてユスラはセリのもとへ急いだ。
雑木林の中、セリから5メートルほど離れた場所に3頭の野犬が頭を低くして唸っていた。
グルル…。
猟犬のようにどの犬も大きい。爪で地面を掻き、すでに臨戦態勢にはいっている。これはマズい。ユスラは心の中で祈りの言葉を唱えた。
「いいですかセリ。背中をみせずに、そのままゆっくりと後ろに下がってください。走りだして追いかけられたら私たちに勝ち目はありません。」
セリは黙って頷くとジリ、と一歩ずつ後ろに下がった。ユスラは犬から視線を外さないまま、ポケットに入れていたキャンディを取り出して、犬たちの右手にある茂みにむかって投げつけた。
2匹がそれに食いついた。その瞬間、ユスラは近くにあった枯れ木を拾って構える。残る1匹がセリを目がけて突進した。
ユスラは進路を遮るように立ちふさがると、野犬に向かって枯れ木を振り下ろしたが、うまく避けられてしまった。動揺して一瞬動きが止まったユスラの左腕に、野犬は容赦なく嚙みついた。
「うぐっ…!」
野犬の牙は、厚手のコートとシャツを貫通してユスラの皮膚に食い込んだ。
経験したことのない痛みが走り、ショックで涙があふれたが、立ち止まっているわけにはいかない。何としてもセリを守らなければ。
その気持ちだけで、ユスラは右手に力をこめると、枯れ木を野犬の眉間目がけて振り下ろした。
キャンッ!!
甲高い声を上げて野犬はユスラの腕から離れると後じさった。
「ユスラッ!」
「大丈夫、何があってもあなたは私が命をかけてお守りします。」
自分のどこにこんな胆力があったのかと思うほどの力強さで、ユスラは野犬に向かって踏み込んだ。鬼気迫る反撃者に、これ以上の応戦は無駄だと考えたのか3匹目は再び雑木林の中へ消えていった。
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ…
崩れた緊張と痛みに、呼吸が浅くなる。今になって手が震えてきた。
「ユスラ、ユスラっ。大丈夫?」
その場に座り込んだユスラに涙目のセリがすがりついた。
ああ、逆だなぁと思う。今まで私はずっと、セレスト様に守っていただいていたんだ。だから怖いことなんてひとつもなかったのに、今はセリを失うことがこんなにも恐ろしい。ユスラは震える右手でセリの頬に触れた。
「怖い思いをしましたね。野犬はまだこの辺りにいるかもしれませんから早く戻りましょう。傷の手当もしなければ。」
やっとの思いで立ち上がったが、屋敷までの50メートルが恐ろしく遠い。噛まれた腕はじんじんと熱く、服で隠れていてもそれなりに出血してるのが分かる。
教会にいたころ、熊に襲われた傷が原因で、ひどく膿んでしまった農夫の脚を見たことがある。聖女の奇蹟がなければ、膝から下を切断しなければいけなかったと、働き盛りの男が泣いていた。
どうしよう、怖い…。もし、あんなふうに膿んでしまったら?
ドロリとした膿の臭いが記憶の中からたちのぼってきた。ここには聖女も医者もいない。自分でなんとかするしかないのだ。
「ユスラ、抱っこするね。」
まともに歩けない姿を気遣って、セリはユスラの膝の裏に手をまわすと、軽々抱き上げた。
いつのまにこんなにも力持ちになっていたのだろう。ユスラを横抱きにしたまま、セリはあっという間に屋敷まで運んでくれた。
ユスラは泣きそうになるのを必死でこらえながら外套を脱いだ。それから左腕をまくって傷を確認する。縫うほどの裂傷ではないが、なによりも細菌感染が恐ろしい。
セリは「どうしよう」とパニックを起こしかけている。彼を落ち着かせるためにもぎゅっと手を握ってみたが、何も起こらなかった。
今は小さな落胆を抱えている場合ではない。一刻も早く流水で傷口を洗わなくては。
ユスラはセリに家にいるようによく言い聞かせると、屋敷の裏手にあるくみ上げ式の井戸へ走った。
左腕を出して、水を出すために片手でポンプを漕ぎはじめた。風が強くなってきた。
外にいるだけでも凍えてしまうのに、冷たい水を腕にかけ続けているせいで手の感覚がなくなってきている。歯がガチガチと鳴る。それでも、聖女の治癒がない以上、しばらくこうしていなければ。
セレスト様がいれば…。ユスラは歯を食いしばって頭を横にふる。
どれくらい時間がたっただろう。寒さと水の冷たさで、体の感覚があるのかどうかもわからない。
それでも出血が完全に止まったことを確認すると、ユスラはふらふらした足取りで屋敷に入って消毒用のアルコールで傷口を拭いた。それから、乾燥させた薬草を乳鉢で擦り始めた。
手がかじかんでうまく動かせない。泣きそうになるのをこらえながら準備をしていると、セリが隣にやってきた。
「貸して。僕がやるよ。」
その声は相変わらずかすれていたけれど、いつになくしっかりした応答だった。
「でも…。」
「大丈夫、できるからユスラは椅子に座ってどうやればいいか教えて?」
「わかりました。ではできるだけ細かくすり潰してください。」
もともと器用な性質なのだろう。セリは慣れない手つきながらも均等に細かくしていった。そこへオイルを加えてペースト状にしたものを傷口に塗り、ガーゼをあてる。包帯は、セリが巻いてくれた。
聖女様だった人に手当をしてもらうなんて、なんて不思議なのだろう。だって、歌声ひとつでどんな病気も怪我も治せたのに。
ユスラは念のため毒消しのハーブティを濃いめに煮だして飲み切ると、セリに作り置きの煮込みとパンで夕食をとるよう指示して寝室に入った。
その夜はひどい高熱にうなされた。
怪我によるものなのか、寒い中冷水で腕を冷やしたからなのかは分からない。ただ、、耳元でセリの歌声が小さく聞こえていた。




