06.当惑
ユスラはキッチンで粉袋を抱えていた。作業台には室温に戻したバターと砂糖。
どれも昨日、ハンスが他の食材と一緒に配達してくれたものだ。灯台守にクッキーを焼こうと思ったのだ。
久しぶりのお菓子作りに胸が高鳴る。レシピは古くから教会に伝わるもので、慈善バザーの時に総出で作ったものだ。
バザーでは教会の敷地内に様々な出店が並んだ。シスターたちの刺しゅう入りハンカチ、ハーブビネガー、ジャム、石鹸に木彫りのレリーフ…。この日は下働きの者たちにも買いものが許されるので、みんな一般参加者よりも楽しみにしていた。
ユスラのお気に入りは葡萄や苺を串にさして薄く飴がけした果実飴だった。それを2本部屋に大切に持ち帰って、聖女セレストと食べるひと時が幸せだった。
懐かしい思い出に口元がゆるませながらバターと砂糖を練り続ける。
教会のクッキーは型も絞り出し袋も使わない。ただ棒状に丸めた生地を輪切りにしただけの、素朴な焼き菓子。材料がシンプルなので、バターも砂糖もケチらずたっぷり使うのがコツだった。
やがて部屋いっぱいに甘い匂いが広がるころ、散歩に出ていたセリが戻ってきた。
「すっごくいい匂いがする。」
「ちょうど良かった。もうじきクッキーが焼けますから、おやつにしましょう。手を洗ってきてください。」
オーブンから鉄板を取り出すのを、セリははりつくように凝視していた。
ユスラは粗熱をとったクッキーを皿にとりわけ、お茶を淹れると席に着いた。
「どうしたの?これ」
「ゲオルクさんに鋏をお借りしたでしょう?そのお礼です。久しぶりに作りましたが、うまく焼けたみたいで良かったです。」
クッキーを齧ったセリは、目を丸くして驚いた。
「美味しい!ユスラはなんでもできるんだね。」
セレストにとっては思い出深いの教会の味も、セリにとっては初めての体験だったのだろう。そういえば、これまで甘いものを出したことがなかった。北の漁師町には新鮮な果物が出回ることはないし、魚介類に目を奪われてすっかり忘れていたのだ。
「また作りますね。」
「ほんとに?」
「ええ、その代わり、お野菜をよけたりせずちゃんと食べてください。」
「もちろん!約束だよ、ユスラ。」
和やかなティータイムのあとで、二人はゲオルクの元へクッキーを届けにいった。
「この歳になってもまだ贈り物をもらえるだなんて、思ってもみなかったよ。」
手作りの焼き菓子は思った以上に喜んでもらえたようで、ゲオルクは紙袋を大事そうに抱えて少し涙ぐんだ。
教会では甘いものは特別な時にしか作らなかったが、ここはもう外の世界なのだ。これからは誰かのためにいろんなお菓子を作ろうとユスラは強く思った。
甘い匂いを纏ったユスラめがけて、デイルが尻尾をふりながら湿った鼻や頭をなすりつけてきた。
「クッキーの匂いが残っているので、気になってしまうのでしょうね。」
いつもはセリにまっしぐらなデイルは、執拗なほどユスラの匂いを嗅ぎ続けた。
セリは二人の間に割って入ると、デイルの首輪を掴んだ。
「デイル、やめて。僕のユスラが倒れちゃうじゃないか。」
そう言って、デイルから隠すようにユスラの体を抱きしめた。それは、小さな子どもが母親をとられまいとしがみつくのと同じだった。ただし、セリの背丈はユスラより頭ひとつ高く、細いと思っていた体は密着すると大人の男と変わりなかった。
ユスラの目の前には、日に焼けたセリの鎖骨と骨ばった肩がある。腰の括れにはセリの長い指が添えられている。寝食をともにしているのに、妙にどぎまぎしてセリから体を離した。
「セリ、大丈夫ですから。」
「ほんとに?」
「ええ。」
心配そうにのぞき込む顔は、いつものセリだった。なのに抱きしめられた感触は確実に男性で、ユスラはどうしていいか分からなかった。おそらくセリは無自覚なのだろう。
「あんた、ずいぶん懐かれとるなぁ。」
ゲオルクがそう言って笑ったが、ユスラはうまく返事をすることができない。心臓が激しく鼓動を打っている。気持を落ち着かせるためにデイルの頭を撫でたが、あまり効果はないようだった。
そういえば、異性と触れ合ったことなど皆無だったと、ユスラはこれまでの人生を振り返った。
聖職者は聖職者で、教会の仕事で話す機会があってもそれは信徒だ。男性という認識には至らない。
聖女セレストは性別を意識したことすらなかった。若い男性と話す機会があるとすれば、町での買い物で客と店員としてのやりとりだけ。触れる機会すらないわけだ。
セリのことは小さな迷い人のように思っていたし、世話役として必死にやってきた。
そう、セリに突然抱きしめられたからじゃない。相手がゲオルクやハンスだって同じように驚き当惑しただろう。
ユスラは心のなかに引っかかる何かを見過ごして、そう自分を納得させた。




