第9話 英雄は、剣を売る
義勇兵は、半月で二百人を超えた。
城の外の牧草地に天幕が並び、朝から晩まで、木の槍を突く声が聞こえた。鍛冶屋の息子、粉屋の三男、年季の明けた徒弟。みんな、伝記を読んだか、酒場で聞いたかした連中だった。英雄グレンの下で戦える、というだけで、自分の足で城まで歩いてきた。
俺は城の小部屋で、第二巻を書いていた。
正確には、書いているふりをしていた。
写字台の向かいに、ミーレが座っていた。俺が一枚書くと、ミーレはそれを読んで、日付を書きこんで、革の挟みに綴じた。夜になると、その挟みを持って領主様の部屋へ行く。
「英雄殿が義勇兵の名前を全部覚えている、というくだりは、本当ですか」
ある日、ミーレが訊いた。
「本当だ」
「二百人を」
「顔と名前と、どこの村の誰の息子か。あいつは剣は振れないが、それは覚える」
ミーレは少し考えて、その頁に日付を書いた。
「本当のことは、書きやすいでしょう」
「書きやすい」
「伝記の第一巻は、書きにくかったですか」
俺は筆を止めた。ミーレは顔を上げなかった。
「……ひと月かかった」
「そうですか」
それだけだった。
*
牧草地に、鴉の印のついた剣が増えていることに気づいたのは、その翌日だった。
義勇兵は、武具を自分で揃えることになっている。城が貸すのは槍だけだ。剣が欲しい者は町で買う。その剣の鍔に、どれも同じ鴉の印が打ってあった。
「鴉の口の剣だよ」と、天幕の前で剣を磨いていた若いのが言った。トマという、靴屋の息子だった。「英雄殿のお墨付きだ。町の鍛冶屋で、銀貨二枚」
銀貨二枚。まともな剣の半値だ。
俺はグレンを探した。
グレンは牧草地の端で、義勇兵の列を見ていた。剣の稽古をつけているのはヴェイル隊の古株の軍曹で、グレンは横に立って、一人ずつ名前を呼んでいた。呼ばれた者は、顔を上げて、少し背が伸びた。
「鴉の印の剣は、お前か」
グレンは列から目を離さなかった。
「鍛冶屋が、印を打っていいかと訊きに来た。断る理由がなかった」
「いくら取ってる」
「一本につき銅貨五枚」
「足を洗う金か」
「そういう約束だろ。俺は金を貯めて、いつか――」
そのとき、列の真ん中で、高い音がした。
鉄が折れる音だった。
軍曹の木剣を受けたトマの剣が、鍔のすぐ上で二つになっていた。折れた刃が、跳ねて、トマの左の掌を裂いた。
トマは、最初は何が起きたか分からない顔をしていた。それから、自分の手を見た。血が指の間から落ちて、草の上で音を立てた。
誰かが叫んだ。軍曹がトマの腕をつかんで、手首を縛った。
俺は、立ったまま動けなかった。
動けないまま、最初に考えたのは、トマの手のことではなかった。
誰が見ていたか。この話が町に回れば、英雄の剣が折れて若いのが怪我をした、と酒場で歌われる。伝記が笑い話になる。兄貴の名前と一緒に。
俺は、牧草地の端の天幕を見回していた。
その顔を、グレンが見ていた。
*
トマは城の医者に運ばれた。手は、つながる、と医者は言った。ただ、この夏のうちは槍を握れない。出陣には間に合わない。
グレンは、医者の部屋から出てくると、そのまま町へ下りていった。
俺はついていった。
鍛冶屋は、店の奥で鴉の印を打っていた。グレンを見て、愛想よく笑った。
「英雄殿。おかげさまで、今日も十本――」
「全部でいくつ売った」
「は」
「何本売った、と訊いてる」
鍛冶屋は帳面をめくった。
「百と、十二本」
グレンは腰の袋を卓に置いた。袋の口を開けると、金貨が六枚と、銀貨が何枚か入っていた。召し抱えの褒美の三分の一だった。
「売った値で、全部買い戻せ。それから、残りの鉄で、まともな剣を打て。足りない分は、来月の写しの分け前から払う」
鍛冶屋の顔から、笑いが消えた。
「英雄殿、刃物ってのは、使い方が――」
「印を消せ。今日中にだ」
それから、グレンは靴屋へ行った。トマの父親に、銀貨を十枚渡した。父親は何か言おうとしたが、グレンは言わせなかった。
「息子の手が治るまでの、店の手間賃だ」
それだけ言って、店を出た。
詫びは、一言も言わなかった。言い訳も、しなかった。
城へ戻る坂道で、グレンは一度も振り返らなかった。俺は後ろから声をかけた。
「全部払ったのか」
「払った」
「足を洗う金だったんだろう」
「洗う前に汚れた」
坂の途中で、グレンは足を止めた。
「あんたが最初に気にしたのは、トマの手じゃなかったな」
俺は答えなかった。
「誰が見てたか、だろ。伝記が笑われる、兄貴の名前が笑われる。顔に全部出てた」
「お前が最初に考えたのは、銅貨五枚だった」
「そうだ」
グレンは否定しなかった。
「俺は金のことしか考えてない。あんたは兄貴のことしか考えてない。どっちも、あの若いのの手のことは考えてなかった」
坂の上で、牧草地の天幕に灯りがともり始めていた。
「俺は払った。あんたは、何で払う」
グレンは坂を上っていった。
俺は、しばらくそこに立っていた。
*
翌朝、写字台の前に、見知らぬ男が座っていた。
四十を過ぎたくらいの、身なりのいい男だった。上等の毛織りの上着に、手入れの行き届いた手。ミーレが戸口の脇に立っていた。
「お待ちしておりました、版元殿」
男は立ち上がって、丁寧に頭を下げた。
「私はさる家の者で、書物を集めております。『鴉の口のグレン』の、最初の一冊を譲っていただきたい。作者の手で書かれた、いちばん最初の写しです」
「売り物ではありません」
「金貨三枚、お出しします」
写本一冊に金貨三枚。聞いたことのない値だった。
「売り物では、ありません」
男は残念そうに笑った。
「では、気が変わりましたら」
男が出ていったあと、ミーレが言った。
「ヴェイル家の家令、コルム殿です」
俺は、写字台の端をつかんでいた。
先月、兄貴の持ち物を探しに来た男がいた。字の書いてあるものはないか、と訊いた。払いがよかった。身なりのいい男だった。
馬方が言ったとおりの男が、今、俺の前に座っていた。
兄貴の字の書いてあるものを、ヴェイル家が買い集めている。
兄貴が西で何かを書き残していたら、困る者がいるのだ。
(第9話 了)




