第8話 英雄は、広間で答える
城に戻ったのは、七日目の前の晩だった。
部屋に入るなり、俺は写字台に向かった。グレンは寝台に倒れこんで、毛布を三枚、順に引き寄せた。
台本は、帰りの馬の上で考えてあった。
「密命は、敵の様子を探ること。副官は西で敵の数を数え、戻る途中で捕まった。捕まったとき、密命のことを言えば、英雄の策が敵に漏れる。だから黙った」
書いて、読み上げた。
毛布の下から、グレンの声がした。
「あの騎士は、水車小屋の壁を見てる」
「見てる。だから、敵を探りに行く途中で、取り残された兵を見つけた、と付け足す」
「付け足した嘘は、継ぎ目から破れる」
グレンは毛布から顔を出した。
「本当のことを言えばいい。取り残された隊を、連れ戻せと言った。あいつは連れ戻した」
「命じたのはお前じゃない」
「命じたやつはいないんだろ。なら、俺が命じたことにしても、誰も困らない」
「どこにいるのかと訊かれる」
「言わない。約束した」
「言わない英雄を、あの騎士が許すと思うか」
「許さなくていい。言わないことに、あの騎士は文句を言えない」
グレンは天井を見た。
「あんたの兄貴が、それをやったからだ」
俺は筆を置いた。
台本は、俺の仕事だった。一年前、伝記の一行目からそうだった。英雄が何を言うかは、俺が決める。
「……数は言うな」
しばらくして、俺は言った。
「十一とも、何人とも言うな。名簿では五の隊は全員死んでる。生きてる者がいる、とだけ言え。数を言えば、探す手がかりになる」
グレンは片目だけ開けて、俺を見た。
「台本か」
「台本だ」
「覚えた」
紙には、何も書かなかった。
*
広間には、前の叙任の日より人が多かった。
壁際に、家臣たちが並んでいた。叙任の日に見た顔もあれば、見ない顔もあった。領主様の椅子のいちばん近くに、黒い髭を短く刈った男が立っていた。四十くらいで、腰の剣の柄に、手袋をはめたままの手を置いていた。
「隊長のヴェイル殿だ」と、隣にいた下働きが小声で教えてくれた。「西の退き戦で、殿の隊を率いた方だよ」
殿の隊。兄貴がいた隊だ。
ブラントが広間の真ん中に進み出て、片膝をついた。
「閣下。国境の見回りより戻りました」
「申せ」
「その前に、英雄殿に一つお訊きしたい」
領主様は、肘掛けに置いた指を少しだけ動かした。許す、ということらしかった。
ブラントは立ち上がって、グレンを見た。
「副官に密命を出したと伝記にある。西で、何をさせた」
広間が静かになった。
グレンは、すぐには答えなかった。肋をかばうように、ゆっくり息を吸った。吸ったのを、広間の全員が見ていた。
「西に、取り残された隊があった」
グレンは言った。
「橋が焼かれる前に、戻れなかった隊だ。連れ戻せと言った」
広間のあちこちで、誰かが息を呑んだ。
「あいつは連れ戻した。夜のうちに、何度も川を渡って」
「連れ戻した者たちは、どこにいる」
ブラントの声は変わらなかった。
「言わない」
「なぜだ」
「その隊は、名簿では全員死んでる。生きてると分かれば、軍に戻らなかった逃亡兵だ。だから、言わない」
グレンは広間を見回した。
「あいつは裁きの場で、一言も言わなかったそうだな。俺がここで言ったら、あいつが黙って死んだ意味がなくなる」
あいつ。台本にない言い方だった。けれど、広間の端で誰かが鼻をすすった。
ブラントは長いこと黙っていた。
それから、領主様のほうへ向き直った。
「閣下。私は西の灰川を見てまいりました。橋の焼け跡は、東の袂がいちばん深く焼けておりました」
ざわめきが起きた。
東の袂。味方の岸だ。
ブラントは、それ以上は言わなかった。誰が焼いたとも、いつ焼いたとも言わなかった。言わないことで、広間の全員に考えさせた。
俺は、領主様の椅子の脇を見た。
ヴェイル隊長は、表情を変えなかった。剣の柄に置いた手も、動かなかった。
領主様が口を開いた。
「その話は、戦のあとで聞こう」
ざわめきが止まった。
「西の国が、国境に兵を集めている。遅くとも来年の春には来る。灰川を越えてな」
領主様は家臣たちを見渡した。
「兵が足りぬ。民に槍を取らせねばならん。英雄グレン殿には、義勇の兵を集め、率いてもらう。ヴェイル、お前の隊の下に置け」
「承知いたしました」
ヴェイル隊長が、初めて口を開いた。低い、よく通る声だった。
領主様は、最後に俺を見た。
「版元」
「はい」
「第二巻は、城で書け。紙と墨は城が出す。英雄の働きを、近くで見て書くがいい」
拒める話ではなかった。
「筆の手伝いに、書記を一人つける。ミーレ」
壁際から、若い書記が一歩出た。
俺はその顔を知っていた。一年前、役所の窓口で、記録は封じられています、と言った顔だった。七日前、書庫の戸に鍵をかけた顔だった。
*
広間を出た回廊で、書記が俺に頭を下げた。
「ミーレと申します。一年前、記録は封じられています、と申し上げたのは私です」
「覚えています」
「私も、覚えております」
ミーレは顔を上げた。
「書いたものは、毎晩、私が預かって閣下にお見せします。そう言いつかっております」
見張りだ、と隠しもしなかった。
「では、明日から」
ミーレが去ったあと、グレンが壁にもたれて息をついた。
「あの領主、また英雄に決めさせなかったな」
「何を」
「何も決めなかった。橋の話は戦のあと。英雄は戦に出す。あんたは城に閉じこめて、書いたものは毎晩読む。一つも負けてない」
グレンは目を閉じた。
「それと、あの黒い髭の隊長」
「ヴェイルか」
「ブラントが東の袂と言ったとき、広間じゅうの顔が動いた。動かなかったのは、あの男だけだ」
グレンは目を開けた。
「動かないように、してたんだ」
グレンは部屋へ戻っていった。肋を押さえて、壁に手をつきながら。
俺は回廊の窓から、中庭を見た。敷石は四十二枚。数えるまでもなかった。
兄貴を捕まえたのは、味方の見回りだった。
その見回りを出したのは、殿の隊の隊長だ。
「版元」
後ろから声がした。
振り返ると、ヴェイル隊長が立っていた。供は連れていなかった。手袋をはめたままの手を、後ろで組んでいた。
「一度、話をしておきたかった。お前の英雄は、俺の隊の下に入る」
「存じています」
「なら、もう一つ知っておけ」
ヴェイル隊長は、窓の外の中庭を見た。俺と同じ敷石を見ていた。
「お前の兄は、俺の隊にいた」
声は低く、穏やかだった。
「十人長のオルド。よく笑う男だった」
俺は何も言えなかった。
この城で、兄貴の顔を知っている人間に、初めて会った。
「第二巻は、閣下が毎晩お読みになるそうだな」
「はい」
「なら、俺も読ませてもらう。俺の隊のことが書かれるなら」
ヴェイル隊長は、それだけ言って歩いていった。急がなかった。広間に入るときと同じ足取りだった。
よく笑う男だった、と、あの男は言った。
兄貴が逃げたとは、言わなかった。
(第8話 了)




