第7話 英雄は、約束をする
水車小屋は、村の北の小川の脇にあった。
水車は半分壊れて、回っていなかった。屋根の端が焼け落ちていた。戸口の脇に、鞍をつけたままの馬が一頭つないであった。脚が膝の上まで濡れて、乾いた泥が白くこびりついていた。
浅瀬を渡ってきたのだ。舟ではなく。
ブラントは小屋の中で、床に腰を下ろしていた。俺たちが入っても、立たなかった。
「来たか」
それだけ言った。
小屋の中は暗かった。粉を挽く石臼が、真ん中に据わっている。その周りの床板に、黒い染みが広がっていた。古い染みだった。
「橋の西にいたそうだな」とブラントがグレンに言った。「お前の雇われの一隊は」
従者が先に報せていたのだ。グレンが宿でしのいだ一言は、二日で西の川まで届いていた。
グレンは答えなかった。肯きもしなかった。
「どこに立っていた。ここか」
「……覚えてない」
「そうか」
ブラントは、壁を顎で指した。
「なら、これも覚えていないな」
小屋の奥の壁板に、何かが刻んであった。俺は近づいた。
名前だった。
刃物の先で、浅く、下手な字で。一つの名前の下に、また一つ。字を知らない者は、丸や印を刻んでいた。数えた。二十三あった。
いちばん上に、一行だけ、少し大きく。
『五の隊』
「名簿では、五の隊は全員死んでいる」とブラントが言った。「来る途中、砦で書付を見せてもらった。退き戦の夜、橋の西で戦死。二十三名」
「全員」
「全員だ。橋が焼かれる前に、戻れなかった隊だ」
ブラントは立ち上がった。膝が鳴った。
「死にかけた男たちが、ここで待っていた。名前を刻んだのは、自分がここにいたと、誰かに分かるようにだろう。待っていたのは、来るはずの誰かだ」
ブラントは俺を見た。
「お前は、何を持ってきた」
俺は懐から、四つに畳んだ紙を出した。
広げて、裏を見せた。
『水車小屋 五の隊 十一』
ブラントは紙を受け取った。窓から入る細い光に、炭の字をかざした。長いこと見ていた。
「誰の字だ」
「兄の字です」
「これも紙だな」
「兄が書いた紙です」
ブラントは何も言わずに、紙を俺に返した。
二十三と、十一。
二十三人がここにいた。十一人が、ここから出ていった。
*
戸口が暗くなった。
マルタが立っていた。その後ろに、村の女たちと、年寄りと、子どもが何人か。焚き火の夜のことが、村じゅうに回っていたらしい。
「白い頭の騎士様。あんたが一番知りたがってたことを、あたしは一言も言わなかったね」
マルタは小屋に入ってこなかった。
「けど、そっちの漕いだ男には、言うよ。兵は綱を切っていった。あんたは漕いだ。それだけの違いだ」
マルタはグレンを見た。
「あの夜、橋が燃えたのは、夜半を過ぎてからだ。燃える前に、東の袂で誰かが怒鳴ってた。焼くな、まだ戻る、ってね。燃えたあと、しばらくして、浅瀬に人が入った。一人だった。西へ渡って、この小屋へ来た」
マルタの声は低かった。
「明け方までに、三度渡った。一度に三人か四人。歩ける者は歩かせて、歩けない者は担いでね。あたしは岸の葦の中から見てた。十一人だった。最後の一人を渡したところで、東の岸で、松明が近づいてきた」
「味方の見回りだ」とブラントが言った。
マルタは答えなかった。
「十一人は、川沿いに南へ行ったよ。軍には戻らなかった。戻れば、死んだはずの兵が生きてることになる。そういうのを、兵は何て呼ぶんだい、騎士様」
ブラントは黙っていた。
逃亡兵、と呼ぶのだ。
「十一人の行き先は、言わない。言えば、あの十人長がしたことが無駄になる」
マルタはグレンから目を離さなかった。
「だから、約束しな。ここにいるみんなの前で。あんたも、あんたの連れも、あの十一人を探さない。見つけても、誰にも言わない」
俺は前に出かけた。
十一人は、兄貴が何をしたか知っている。兄貴が逃げていないと言える、たった十一人だ。
グレンが、俺の腕をつかんだ。強くはなかった。
それから、マルタと、その後ろの村の者たちに向き直った。小屋の戸口が、舞台の袖のように見えた。
「約束する」
大きな声ではなかったのに、外の子どもまで聞こえた。
「その十一人の行き先は、誰にも言わない。俺の口からも、俺の版元の筆からもだ」
俺の版元。
俺の筆まで、この男は約束に入れた。
マルタは小さくうなずいて、村の者たちと帰っていった。
*
ブラントは馬の腹帯を締め直していた。
「七日目に、広間で訊く」
こっちを見ないで言った。
「副官に何をさせたのか。英雄は答えろ。俺は、この川で見たものを言う」
「何を見たと、言うんですか」と俺は訊いた。
ブラントは鞍に上がった。
「橋が、どっちの岸から焼かれたかだ」
馬は浅瀬のほうへ歩いていった。水に入っても、ブラントは一度も振り返らなかった。
*
帰りの街道で、俺はグレンに馬を寄せた。
「なぜ約束した」
「しなきゃ、あの婆さんは一生口を閉じてた」
「十一人は証人だ。兄貴が逃げていないと言えるのは、あの十一人だけなんだぞ」
「知ってる」
「なら」
「レン」
グレンが俺の名前を呼んだのは、初めてだった。
「あんたの兄貴は、裁きの場で一言も言わなかったんだろ。申し開きなしだ」
俺は手綱を握り直した。
「どこへ何をしに行ったか言えば、十一人の居場所を言うことになる。言えば、十一人は逃亡兵で吊られる。だから黙った。黙って、首を差し出した」
グレンは前を向いたままだった。
「あんたは、兄貴が黙って守ったものを、掘り出しに来たんだ」
馬の蹄の音だけが続いた。
一年、兄貴がなぜ黙ったのか考えていた。よく笑う男が、なぜ一言も言わなかったのか。答えは、紙のどこにも書いてなかった。詐欺師が、婆さんの話を一度聞いただけで、拾い上げた。
「……約束したのは、お前だ」
「ああ。俺の約束だ」
「俺はしていない」
グレンは、そこで初めて俺を見た。
「あんたの筆は、俺の版元の筆だろ。俺が舞台で言ったことは、守る。守れない約束は、最初からしない」
それが、この男の決まりなのだと、俺はようやく分かった。グレンが一度も副官の名を口にしないのも、たぶん同じ理由だ。
城まで、あと二日。
残りは、一日になる。
(第7話 了)




