第6話 英雄は、橋の西を知らない
馬に乗るのは、グレンのほうがうまかった。
薬売りは、宿場から宿場へ馬で渡る。写本屋は、一日じゅう同じ椅子に座っている。城の厩で借りた栗毛は、俺が手綱を引くたびに首を振って、勝手に道の端の草を食べた。
「腿で挟め。手で言うことを聞かせようとするな」
前を行くグレンが、振り返らずに言った。胸に布を巻いたまま、背筋だけはまっすぐだった。
「肋はいいのか」
「よくはない。だが落ちるよりはいい」
城を出て二日目の昼だった。街道は西へ下っていく。畑が減って、焼けた柵や、屋根のない家が増えた。一年半前、敵がここまで来て、ここから退いた。
「橋の西のことを教えろ」とグレンが言った。「俺は、そこにいたことになってる」
「本はない」
「一冊もか」
「あの退き戦のことを書いた戦記は、まだ出てない。負けた戦は、誰も急いで書かない」
グレンは鼻で笑った。
「ただ、四十年前に同じ川で戦があった」と俺は言った。「『灰川合戦記』。二度写した。橋は石の脚に木の床。下流へ半里のところに浅瀬がある。秋の水なら、腰までで渡れる。浅瀬の東の岸に、目印の石の柱が立ててある」
「四十年前の紙か」
「川は四十年じゃ動かない」
「人は動く」
グレンはそれきり黙った。
*
夕方、灰川に着いた。
橋は、なかった。
川の中に石の脚が五本立っていて、その上には何もなかった。脚の頭が黒く焦げていた。東の岸の、いちばん手前の脚がいちばん黒かった。
「焼いたのは、こっち側からだな」とグレンが言った。
俺も同じことを考えていた。敵が焼いたなら、西の岸から焼く。
橋の代わりに、渡し舟が一艘、東の岸につないであった。舟の脇に、腰の曲がった婆さんが座って、網を繕っていた。
「向こうへ渡りたい」
「兵は乗せないよ」
婆さんは顔を上げなかった。
「兵じゃない」
「その外套の留め金は、城の騎士のだろう」
グレンの外套の喉元に、叙任の日にもらった銀の留め金が光っていた。俺は外させておけばよかったと思った。
「去年、兵が来て、渡しの綱を切っていった。敵が使わないようにってね。敵は来なくなったけど、綱は誰も張り直しに来ない。それから、あたしは毎日こいつを漕いでる」
婆さんは櫂を顎で指した。
「兵は、切るだけ切って、直しには来ない。だから乗せない」
俺が何か言う前に、グレンが舟の縁に手をかけた。
「なら、俺が漕ぐ。乗るんじゃない。漕ぐんだ」
「肋が折れてる」と俺は言った。
「知ってる。折れてるのを見せるんだよ」グレンは小声で言って、外套を脱いで俺に放った。「騎士が漕ぐのを見たことがある婆さんは、この国に一人もいない」
婆さんは長いことグレンを見ていた。それから、黙って舟の艫に座った。
グレンは漕いだ。うまくはなかった。三度に一度は櫂が水を叩いて、俺の顔に飛沫がかかった。川の真ん中で一度、手を止めて胸を押さえた。それでも漕いだ。西の岸に着くと、岸で洗い物をしていた女たちが、手を止めてこっちを見ていた。
婆さんは舟を降りながら、言った。
「名前は」
グレンは俺を見なかった。
「雇われだ。名前を売る商売じゃない」
店の外で名乗るな、という約束を、この男はここでも守った。
「マルタだよ」と婆さんは言った。「渡し守のマルタ」
*
村は葦辺と言った。
西の岸に二十軒ほどの家が並んでいて、半分は屋根を葺き直した跡があった。敵が来て、焼いて、退いて、そのあと村の者が自分で葺いたのだ。
マルタは、俺たちを家に上げはしなかった。ただ、戸口の前の切り株に腰かけて、魚を焼いて、一匹ずつくれた。
「騎士様が、こんな村に何の用だい」
グレンが答えた。
「昔、このあたりにいた。橋の西だ。雇われの一隊でな」
マルタは魚を裏返した。
「いつ」
「一年半前。退き戦の夜だ」
「そうかい」
マルタは、焼けた魚の皮を指でむしった。
「じゃあ、あの夜、どこを渡って東へ戻ったんだい。橋はもう燃えてたよ」
グレンは、すぐには答えなかった。俺の顔を見ないようにしているのが分かった。
「下流の浅瀬だ。目印の石の柱がある」
俺が、昼に馬の上で教えたとおりだった。
マルタは笑った。歯が三本しかなかった。
「よく知ってるね。四十年前の戦の話でも聞いてきたのかい」
グレンの指が、膝の上で止まった。
「あの柱はね、三十年前の大水で流れたよ。今は、何もない。何もないところを、あの夜、渡ったやつがいたんだ」
マルタは焼けた魚を俺に突き出した。俺は受け取った。熱くて、指が痺れた。
「英雄なんて、いなかったよ」
マルタは言った。
「あの夜、浅瀬を渡って戻ってきたのは、十人長が一人だけだ」
焚き火がはぜた。
「あんたらが探してるのは、その男だろう。英雄だの雇われだのは、どうでもいい」
俺は魚を持ったまま、何も言えなかった。
十人長。兄貴だ。
「その男は――」
「話すことはないよ」
マルタは立ち上がって、焚き火に土をかけた。
「兵は、聞いた話を全部、紙に書く。紙に書かれたら、もう取り消せない。あたしはそれを、一年半前に覚えた」
戸口に入りかけて、マルタは振り返った。
「それと、騎士様。あんたの仲間が、昨日から水車小屋にいるよ。白い頭の、笑わない男だ」
戸が閉まった。
グレンが、ようやく口を開いた。
「……四十年前の紙だったな」
「川は動かないと言った」
「柱は流れた」
言い返せなかった。
グレンは魚を一口かじって、顔をしかめた。骨が多かったのか、それとも胸が痛んだのか、俺には分からなかった。
「行くか、水車小屋」
「行く」
「俺は、あの騎士の前で、何を知ってる顔をすればいい」
「何も知らない顔をしろ」と俺は言った。「本当に、何も知らないんだから」
川の向こうに、日が沈みかけていた。
ブラントは、俺たちより先に、兄貴が渡った川を見ている。
残りは、三日だった。
(第6話 了)




