第10話 書記は、名簿を読ませる
書庫の屋根が漏る、とミーレがこぼしたのは、コルムが来た日の夕方だった。
「北の棚の、二十年前からの出納の帳面です。去年の長雨で、下の三段が濡れました。乾かしましたが、墨が流れかけています。写し直さなければ、来年には読めなくなります」
「誰が写す」
「私です」
ミーレは、俺の書いた頁に日付を書きこみながら言った。
「書記は私を入れて三人。二人は税の帳面で手一杯です。私一人で、一日に写せるのは二十枚。北の棚は、全部で四千枚あります」
「一日に、百枚」
ミーレが顔を上げた。
「俺なら、一日に百枚写せる。字は今の帳面と同じ書体にする。間違えない」
「代わりに、何をお望みですか」
ミーレは、俺が何か望んでいることを疑わなかった。
「西の退き戦の、兵の名簿を見たい」
「名簿は封じられておりません」
「知ってる。だから、頼んでる」
ミーレはしばらく黙っていた。
「封じた記録は、お見せできません。閣下のお許しがなければ」
「封じた記録は、いい」
「それと、もう一つ」
「何だ」
「処刑された兵の持ち物の箱が、書庫にあるはずだ。見るだけでいい」
ミーレは筆を置いた。
「一年前、窓口で、私はあなたの嘆願書を受け取りませんでした」
「覚えてる」
「規則だったからです。封じられた記録に関わる嘆願は、受け取ってはならない。私はそれを守りました」
ミーレは、俺の目をまっすぐ見た。
「今も、規則は守ります。名簿と、持ち物の箱は、規則で禁じられておりません。北の棚を写していただけるなら、お見せします。ただし、私の立ち会いで」
*
書庫は、中庭の奥の石の建物だった。
前にブラントが入っていくのを、外から見ていた。中に入るのは初めてだった。乾いた紙と、黴と、古い蝋の匂いがした。天井まで棚があって、梯子が二つ掛けてあった。
俺は二日で、北の棚の濡れた帳面を百八十枚写した。ミーレは、一枚ずつ元の帳面と照らし合わせた。間違いは、一つもなかった。
三日目の朝、ミーレは何も言わずに、西の棚から綴じた名簿を一冊抜いて、俺の前に置いた。
退き戦の、殿の隊の名簿だった。
一の隊から、六の隊まで。各隊の十人長の名前と、その下の兵の名前。最後に、隊長の署名。
ヴェイル。
兄貴の名前は、二の隊の下の、十人長の欄にあった。
『オルド 十人長 持ち場放棄にて捕縛。のち処刑』
そこだけ、墨の色が違った。後から書き足したのだ。
同じ十人隊の兵の名前を、指でたどった。九人。そのうちの一人の欄に、『ダグ 負傷により除隊』とあった。日付は、退き戦の七日後だった。
五の隊の頁を開いた。
二十三の名前が並んでいた。名前の横に、全部、同じ言葉が書いてあった。
『戦死』
二十三回、同じ筆で。
日付は、退き戦の翌朝だった。
翌朝。兄貴が浅瀬で捕まったのと、同じ朝だ。マルタの話では、その朝、十一人はまだ川沿いを南へ歩いていた。
誰かが、確かめもしないで、二十三人を死んだことにした。橋の向こうに置いてきた隊の全員を、一晩で紙の上から消した。
「この署名は、隊長の手か」
「隊長殿の手です」とミーレは言った。「戦の名簿は、隊長が書いて署名する決まりです」
俺は頁を閉じた。
決まりどおりの紙だった。決まりどおりに、嘘が書いてあった。
*
持ち物の箱は、地下の棚にあった。
腕で抱えられるくらいの木箱で、蓋に『処刑者オルド 遺品 一箱』と札が貼ってあった。
ミーレが、箱の脇に吊るした札の束をめくった。
「受け入れのときの目録です。毛布一枚。木の匙一本。砥石一つ。帯一本。覚え帳一冊」
蓋を開けた。
毛布。匙。砥石。帯。
それだけだった。
兄貴の毛布は、家で使っていたものだった。母親が生きていたころに織った、青い縞の毛布。俺は手を伸ばしかけて、やめた。触れば、何か崩れる気がした。
「覚え帳がない」
ミーレの声が、少し高くなった。
ミーレは札の束を、もう一度めくった。いちばん後ろに、別の紙が一枚綴じてあった。
「貸し出しの記録です」
ミーレの指が、一行の上で止まった。
『先月十日。閣下のお許しにより、ヴェイル家家令コルム殿へ貸出。同十三日、返却』
その下に、領主様の印が押してあった。
「返却のとき、中身を照らし合わせた記録が、ありません」
ミーレは、自分の書いた字でも読むように、その一行を見ていた。
「誰が受け取ったんだ」
「……私ではありません。その日は、税の帳面の締めで」
コルムは、兄貴の字の書いてあるものを買い集めていた。馬方のところにも行った。そして、書庫の箱まで、領主様の許しを得て借りていった。
兵の覚え帳には、十人長が毎日の持ち場と、兵の数と、受けた命令を書く。兄貴の覚え帳には、あの夜のことが書いてあったはずだ。橋をいつ焼けと言われたか。誰が言ったか。
それが、もうない。
ミーレは、札の束の最後の余白に、自分の筆で書き足した。
『覚え帳一冊、不在。返却時の照合なし』
日付と、自分の名前を添えた。
「記録と中身が違うなら、違うと書かなければなりません」とミーレは言った。「それが、書記の仕事です」
俺は箱の蓋を閉めた。
領主様は、ヴェイル家に箱を貸した。中身が消えることを、知っていたのか、知らなかったのか。
どちらにしても、あの印は、本物だった。
*
その日の夕方、牧草地へ下りた。
義勇兵は村ごとに分けられて、天幕の前で飯を炊いていた。グレンが分けたのだ。同じ村の者を同じ天幕に入れると、喧嘩が減って、夜逃げも減る、と言っていた。
トマが、左手に布を巻いて、グレンの後ろをついて歩いていた。槍は握れない。代わりに、グレンの伝令になったらしい。天幕から天幕へ、走って言葉を運ぶ。
「足だけは速いんだ」とグレンが言った。俺のほうは見なかった。
坂でのことがあってから、俺たちは用のある話しかしていなかった。
「名簿を見た」と俺は言った。「五の隊は、退き戦の翌朝に全員戦死になってる。ヴェイルの署名でだ」
グレンは、ようやく俺を見た。
「翌朝か」
「翌朝だ」
「死んだのを確かめる暇も、なかった朝だな」
それから、グレンは何か言いかけた。
そのとき、牧草地の入口のほうで、怒鳴り声が上がった。
「英雄はどこだ!」
天幕の間から、義勇兵たちが顔を出した。
入口の柵の前に、男が一人立っていた。白髪まじりの、肩の広い男だった。右脚を少し引きずっていた。止めようとした義勇兵の腕を、片手で払いのけた。
「あの英雄は、誰だ」
男は、牧草地じゅうに聞こえる声で言った。
「俺はオルドの十人隊にいた。あの退き戦に、グレンなんて男はいなかった」
(第10話 了)




