第4話 英雄は、紙を読まない
城の寝台には、毛布が三枚あった。
グレンは三枚とも自分の上に積んで、その下から顔だけ出していた。息を吸うたびに、布を巻いた胸のあたりで毛布が小さく上下した。
「町の宿なら、一枚で銅貨二枚取られる」とグレンは言った。「三枚で六枚だ。騎士ってのは、寝てるだけで儲かる」
「肋の分を引け」
「引いても儲かってる」
家令が来たのは、朝の鐘のあとだった。白い髭の、背筋の伸びた男で、俺には目もくれずに寝台の脇に立った。
「閣下のお言葉をお伝えします」
副官の処刑の記録を開くかどうかは、副官の主であるグレン殿に任せる。明日の叙任の場で答えよ。開くなら、ブラントとグレン殿が書庫で読む。封じた記録の慣いにより、写しは取らせない。家の者は入れない。
最後の一つだけ、家令は俺のほうを見て言った。
家令が出ていくと、グレンは毛布の下で小さく笑った。笑って、胸を押さえた。
「うまいな、あの領主」
「何がだ」
「断れば、副官のことを隠した領主になる。開ければ、自分の城の判決を人目に晒した領主になる。だから英雄に決めさせた。どっちに転んでも、決めたのは俺だ」
グレンは天井を見た。
「断ろう。肋が痛むとでも言って」
「断っても、問いは消えない」
「消えなくていい。中身の分からない箱は開けない。薬売りの決まりだ」
グレンは毛布を一枚、胸の上まで引き上げた。
「せっかく三枚あるんだ」
俺は窓の外を見ていた。中庭の敷石が見えた。四十二枚。
一年前に窓口で突き返された記録が、あの石の向こうのどこかにある。
「開けろと言え」
「……聞いてたか。記録に俺はいないぞ」
「知ってる」
「なら」
「開けなければ、あの騎士は、英雄は副官を見捨てたと言う。開ければ、少なくとも一人は、あれを読む」
一年、誰も読まなかった。俺も読めなかった。
グレンは長いこと俺を見ていた。それから、毛布をはいだ。
「なら、先にあの騎士を買っておく」
*
ブラントは、兵舎の裏で馬の蹄を見ていた。
グレンは胸を押さえながら近づいて、挨拶もそこそこに切り出した。浅瀬のことだ。うちの版元で八百のほうの本を写し直して、北にも南にも流す。三人の名前を、今度こそ詩人に歌わせる。
俺はそんな話を一言も聞いていなかった。
ブラントは蹄から目を上げなかった。
「やめろ」
「金は取らない」
「浅瀬のことを、紙にするな」ブラントは馬の脚を下ろした。「紙にすれば、次の詩人が三千にする。浅瀬にいたのは三人だ。紙の上では、そのうち三十人になる」
グレンは口を開いて、閉じた。もう一度開いて、何も言わずに閉じた。
ブラントは馬の首を軽く叩いて、俺を見た。
「話があるのは、そっちだろう」
「記録は、開けさせます」と俺は言った。
「決めるのは英雄だ」
「英雄は、開けろと言います。ただし、読みません。読むのは、あなた一人です」
ブラントの目が、俺からグレンへ移った。
「なぜ英雄は読まない」
「読めば、顔に出るからです」
嘘ではなかった。
グレンが、ゆっくり横を向いた。見られたくない顔を隠す男の動きだった。そう見えるように、隠していた。
「読んだら、兄のことを教えてください。何が書いてあったか」
「お前の英雄のことも、書いてあるかもしれん」
「書いてあるかもしれません」
ブラントは長いこと黙っていた。
「白河の浅瀬では、二十人が持ち場を離れた。残ったのは三人だ」
馬の首に手を置いたまま、ブラントは言った。
「持ち場を離れた男を、俺は許したことがない。お前の兄が逃げていたら、俺は広間でそう言う。伝記の副官は、逃げた男だと」
「逃げていません」
「それを確かめに行く」
ブラントは馬から手を離した。
「書いてあることは教える。代わりに、お前の兄がどういう男だったか、俺に話せ。紙には、人の顔は書いてない」
厩のほうへ歩き出しかけて、ブラントは一度だけ振り返った。
「昨日、背負われていたのはお前だ。だが、背負わせたのもお前だな」
答えは待たれなかった。
*
部屋へ戻る回廊で、グレンが言った。
「名前じゃなかった」
「何が」
「あの騎士が欲しかったものだ。名前を歌われたかったんじゃない。紙にされたくなかったんだ」
「白河の本の約束は、どうする」
「書かせるとは言った。いつとは言ってない」
その夜、俺は台詞を三行だけ書いた。グレンは二度読んで、紙を俺に返した。
「紙に書いてよこすにしちゃ、妙な台詞だな」
「覚えたか」
「覚えた。紙は返す」
*
叙任は、広間で行われた。
グレンは領主様の前に進んで、片膝をついた。膝が床に着く前に、息が一度止まった。止まったのを、広間の全員が見ていた。一昨日の中庭で、この男が何を背負って歩いたかを、みんな覚えていた。
隠せばいいのに、と俺は思った。グレンは隠さなかった。隠さないほうが効くのだと、少し遅れて俺は気づいた。
領主様の剣が、グレンの両肩に一度ずつ置かれた。
「グレン殿。副官の記録を、開くか」
「開けてください」
広間がざわめいた。グレンはひざまずいたまま続けた。
「ただ、私は読みません」
ざわめきが止まった。
「あの人のことは、背中で覚えています。あの人を殺したのは、紙でした。私は、あの人を紙で知りたくない」
グレンは顔を上げて、広間の端に立つブラントを見た。
「読むなら、あの人を一番疑っている方に」
あの人、と書いたのは、俺だった。
ブラントは何も言わなかった。顔も動かなかった。
領主様は、しばらくグレンを見ていた。
「英雄が紙を読まぬなら、紙は騎士に読ませよう」領主様はブラントに目を移した。「ブラント。読め。読んだことは、私にだけ申せ」
「承知いたしました」
私にだけ。
その一言で、昨日の取引の半分が消えた。
*
書庫は、中庭の奥にある石造りの建物だった。
ブラントが入っていくとき、戸の脇で鍵束を持っていた書記が、俺の顔を見た。若い書記だった。一年前、役所の窓口で、記録は封じられています、と言った顔だった。向こうも覚えていたらしい。何も言わずに戸を閉めて、鍵をかけた。
俺は中庭で待った。敷石を数えた。四十二枚あった。昨日も四十二枚だった。
ブラントが出てきたのは、昼を過ぎてからだった。まっすぐ回廊へ行き、しばらくして戻ってきて、俺の前で止まった。
「閣下に申し上げた」
「兄のことは」
「読んだことは、他言するなと言われた」
ブラントの顔は変わらなかった。
「だから、言わない。訊くだけだ。お前の兄は、西に知り合いがいたか」
「……いません」
「そうか」
兄貴が最後に戦ったのは、西の国境からの退き戦だった。兵は東へ退いた。西は、敵がいたほうだ。
「お前の兄は、口の重い男だったか」
「いいえ。よく笑う男でした」
「そうか」
ブラントはそれだけ言って、少し黙った。
「七日、国境の見回りに出る」
それから、言った。
「戻ったら、広間で英雄に訊く。副官に密命を出したのなら、西で何をさせたのか、知っているはずだ」
記録の中身を、他言するわけじゃない。英雄に、問いを一つ訊くだけだ。
「お前の英雄に、そう伝えろ」
ブラントは厩のほうへ歩いていった。
俺は中庭に立ったまま、敷石を見ていた。
逃げる男は、敵のいるほうへは走らない。
記録には、兄貴が西へ行ったと書いてある。兄貴が何も言わなかったと書いてある。でなければ、あの騎士はあんなことは訊かない。あれだけよく笑った男が、自分の首がかかった場で、一言も。
*
その夜、グレンの部屋で、昼のことを話した。
グレンは毛布の上に座って、指を折っていた。
「七日あれば、国境の向こうまで行ける」
「行けばいい。金貨の三分の一を持って」
グレンは指を折るのをやめた。
「……毛布が三枚あるんだ」
それから、俺を見た。
「西で何があったか、あんたは知らないのか」
「知らない」
「作れるか」
「作れば、あの男には分かる」
グレンは毛布を一枚、膝に掛けた。
「なら、紙じゃなくて人に訊くしかないな。あんたの兄貴と同じ隊にいた奴が、どこかで生きてるだろ」
俺は窓の外を見た。中庭の敷石は、暗くてもう数えられなかった。
一年前、俺はこの世にいない男を一人作った。ひと月かかった。
今度は、たしかにいた男が西で何をしたのかを、七日で見つけなければならない。
(第4話 了)




