第3話 英雄は、剣を抜かない
質屋の親父は、剣を一日貸すのに銀貨一枚だと言った。買うよりは安い。ただ、俺の一日より剣の一日のほうが高く見積もられている気はした。
裏庭でグレンに持たせると、グレンは柄杓を持つみたいに柄の真ん中を握った。
「違う。右手が上だ。左手は柄頭の近く」
「どっちでも同じだろ」
「同じじゃないと書いてある」
剣術の指南書なら三冊写したことがある。構えも足の運びも、一字残らず覚えている。覚えているとおりに言うと、グレンはそのとおりに立った。立っただけだった。一度振らせると、剣先が先に地面を叩いた。
「あんたが読んで、俺が立つ」グレンは剣を下ろした。「それで剣が振れるなら、騎士はみんな写本屋に弟子入りしてる」
言い返せなかった。剣は鞘に戻して、代わりに物干しの竿を取った。
「受けてみろ」
竿を振った。グレンは受けなかった。竿は左の肩に当たった。二度目も同じところに当たった。三度目、グレンは竿が来る前に半歩だけ体を回して、背中で受けた。
「なんで受けない」
「受け方を知らない。どこに来るかは分かる。あんたは振る前に右の肩が上がる」
「分かってるなら避けろ」
「避けるのは下手でね」グレンは背中をさすった。「薬売りってのは、殴られる場所を選ぶほうが得意なんだ。顔をやられると、次の日の口上が売れない」
日が傾くまで続けて、分かったことは一つだった。明日一日あっても、この男に剣は持たせられない。
*
翌日の昼、あの大男が町に帰ってきた。
右腕を板に縛って、首から吊っていた。店の前で足を止めて、戸口に出た俺とグレンを見た。言いたいことがあって、わざわざこの道を通ったらしかった。
「お前らも、城へ行くんだろう」
城の門の脇に、白髪の騎士が立っている、と大男は言った。布告が出てから、グレンを名乗る男が何人も城に来た。来た男は、まずそこで止められる。大男の前に二人いた。
「鴉の口はどこだ、と訊かれる。北の谷だと答えたら、北のどこの谷だと訊かれた。答えられなかったら、剣を渡された。抜いて、二つ数えないうちにこれだ」
「その騎士の名前は」と俺は訊いた。
「ブラント。門番が、白河の生き残りだと言ってた」
グレンが訊いた。「そいつ、笑ったか」
大男は顔をしかめた。「笑わなかった。一度もな」
それから、吊った腕を少し持ち上げてみせた。
「お前らの英雄も、同じ目に遭え」
*
その夜、写字台の下の箱から、最初に書いた一冊を出した。
中身は全部覚えている。それでも頁をめくった。覚えていることと、そこに書いてあることが同じかどうかは、紙で確かめるしかない。
一年前の俺は、剣の場面を一つも書いていなかった。
英雄グレンは兵を並べ、退く道を決め、旗の位置を変えて二千の敵を迷わせる。戦の段取りは、写してきた指揮官の記録から借りた。斬り合いは借りなかった。剣を知っている人間が読めば、知らない人間が書いたとすぐに分かる。だからグレンは、最後の頁まで一度も剣を抜かない。抜かないまま、矢を受けた副官を背負って、敵の中を歩いて帰ってくる。
あの大男が酒場で言った、敵の大将の首を落とした話は、やはりどこにもなかった。
白河のほうも、覚えているとおりだった。八百のほうの本には、浅瀬を最後まで渡らせなかった従士が三人、名前つきで書いてある。二人目がブラントだった。三千のほうの本には、浅瀬の話そのものがない。
奥の部屋の戸を叩くと、グレンは起きていた。
「鴉の口のことを訊かれたら、こう答えろ。三百も二千も詩人の数だ。本当はもっと小さい戦だった。白河を三千と歌うのと同じだ、と」
「英雄が、自分の伝記は盛りすぎだと言うのか」
「詩人の歌を信じない兵は多い。その騎士は、たぶん一番信じていない。歌を嫌う男には、歌を嫌う英雄のほうが話が通じる」
「白河の本当の数も言うのか」
「八百だけでいい。浅瀬のことは言うな。名前も出すな。あれは一冊の本にしか書いてない。出したら、紙で覚えたとばれる」
グレンは寝台に座ったまま、少し考えた。
「あの騎士が欲しいのは、そっちだと思うがな」
「何の話だ」
「偽者を何人も追い返して、一度も笑わなかったんだろ。ああいう男は、腹を立ててるんじゃない。何か取られたんだ。取られたものを返してやれば、剣なんかどうでもよくなる」
「言うなと言った」
「剣は」
「抜くな」
俺は本を差し出した。グレンは受け取って、初めて自分で頁をめくった。しばらくめくって、閉じた。
「本当だ。一度も抜いてない」
「書けなかった」
「あんた、剣を知らないもんな」
グレンは本を枕元に置いて、横になった。
*
城の中庭には、石が敷きつめてあった。門から奥の回廊まで、四十二枚。数える癖は、写本屋の病気みたいなものだ。
回廊の椅子に、領主様が座っていた。膝の上に、見覚えのある装丁の本があった。うちの店の写しだった。回廊の柱の陰や上の窓から、兵や下働きがこっちを見ていた。
ブラントは、思っていたより背が低かった。白髪を短く刈って、従者に木剣と真剣を一振りずつ持たせていた。
「鴉の口は、どこだ」
前置きはなかった。グレンは昨夜のとおりに答えた。兵がそう呼んでいた谷で、地図の名前は知らない。三百も二千も詩人の数で、本当はもっと小さい戦だった。
「白河を三千と歌うのと同じだ」
ブラントの顔が、少しだけ動いた。
グレンはそれを見ていた。見て、続けた。
「白河は八百だった。浅瀬を最後まで渡らせなかった従士が三人いた。二人目は、ブラントという名前だった」
回廊がざわついた。
「あの浅瀬を歌った詩人はいない。歌わせよう。俺の版元に、本当の白河を書かせる」
名前も出すな、と言ったのは、昨夜の俺だった。
ブラントはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「浅瀬のことを書いた本は、一冊しかない。四十部も出なかった。兵の間でも、もう話す者はいない」
ブラントは俺のほうを一度だけ見て、グレンに目を戻した。
「お前がそれを知っているなら、その本で読んだのだ。お前の戦は、全部紙の上だな」
従者が真剣を差し出した。
「取れ。取らないなら、帰れ」
グレンは剣を見ていた。何か言うときの顔ではなかった。次の言葉を探して、見つからない顔だった。
剣を取れば、二つ数えないうちに終わる。取らずに帰れば、明日には別の男が門の前に立つ。
俺は前に出た。
「お待ちください。伝記のグレンは、鴉の口で一度も剣を抜いていません」
「読んだ」とブラントは言った。「だから、鴉の口の場所を訊いた」
「抜かずに、矢を受けた副官を背負って、敵の中を歩いて帰ってきた。伝記に書いてあるのは、それです。試すなら、そちらを試してください」
「背負われる者は」
「私がやります」
一つ息を吸った。
「副官は、私の兄です」
回廊が静かになった。領主様の指が、膝の上の本の表紙で止まった。
ブラントは長いこと俺を見ていた。それから、領主様のほうを向いた。
「剣なら、抜かなかったと言い逃れができます。背中の荷は、下ろせばそれで終わりです」
領主様はグレンを見ていなかった。俺を見ていた。
「伝記のとおりに、試せ」
*
ブラントは真剣を従者に返して、木剣を取った。
「門まで歩け。足が石に着いたら終わりだ」
グレンが俺の前にしゃがんだ。背中に乗るとき、グレンが低い声で言った。
「副官を使ったな」
「黙って背負え」
グレンは立ち上がって、回廊のほうへ顔を上げた。
「下ろしません」
大きな声ではなかったのに、回廊の奥まで届いた。
最初の一撃は、左から来た。来る前に、グレンの体が半歩回った。木剣はグレンの背中の、俺の膝から指一本離れたところに当たった。二つ目も、三つ目も同じだった。打たれた音が、グレンの背中を通って俺の腹に響いた。
四つ目の前に、ブラントの目が細くなった。
その一撃は、ブラントの肩が上がらないまま来た。グレンの右の腿を打った。グレンの膝が落ちた。俺の爪先が石に触れかけて、俺は膝を曲げて足を引き上げた。
「あと二十六枚」
俺は言った。数えていた。
グレンは膝で一枚進んだ。それから、立った。
そこから先、グレンの体はもう回らなかった。ブラントが読ませなかったのか、グレンに回る力が残っていなかったのか、背中の上からは分からなかった。打たれるたびに、グレンの息が詰まって、また吐き出された。耳の後ろから垂れた血が、俺の手首に落ちた。
伝記の中で、背負われた副官は何も言わない。何を言わせればいいのか、一年前の俺には書けなかった。
「あと十枚」
だから、数だけを言った。
「あと三枚」
グレンの手が、門の柱をつかんだ。
木剣が下りた。
*
グレンは俺を下ろしてから、柱に背中をつけて座りこんだ。
ブラントは木剣を従者に渡して、回廊の前に戻った。
「剣は使えません」と、ブラントは領主様に言った。「鴉の口がどこにあるのかも、私は存じません」
それから、少しだけ間を置いた。
「下ろしませんでした」
領主様は、膝の上の本を閉じた。
「剣を振る者なら、この城に百人いる」
グレン殿を当家の騎士とする、と領主様は言った。回廊の上で、誰かが手を叩いた。それが広がっていくのを、ブラントは聞いていなかった。
「閣下。一つ、お願いがございます」
「申せ」
「副官の処刑の記録を、拝見したく存じます」
拍手が途切れた。
領主様は、すぐには答えなかった。
「あれは封じた記録だ」
「存じております」
「……考えておこう」
*
控えの間で、城の医者がグレンの胸に布を巻いた。肋が一本折れている、と言った。
医者が出ていくと、グレンは壁にもたれたまま言った。
「二度とやるな、じゃなかったのか」
「……効いたからな」
グレンは笑って、笑ったところで顔をしかめた。
「あの騎士、名前を欲しがってると思ったんだがな」
「違ったのか」
「さあな。少なくとも、俺の口から聞きたくはなかったらしい」
グレンは布の上から胸を押さえた。
「肋一本で、一冊につき銅貨もう一枚」
「半枚」
「半枚の銅貨があるか」
「二冊で一枚だ」
グレンはまた笑いかけて、やめた。
窓の外で、まだ誰かがグレンの名前を呼んでいた。
一年前、役所の窓口で、記録は封じられています、と言われた。封じられた記録を読みたがる人間なんて、この町には俺しかいないと思っていた。
城には、もう一人いた。
(第3話 了)




