第2話 朗読役は、本を読まない
貼り紙を出して二日で、志願者は十一人来た。
一人目は字が読めなかった。三人目は読めたが、英雄の誓いの台詞を借金取りの口上みたいに読んだ。六人目は元兵士で、声はよかったが、読み終えるなり「で、金貨二十枚の件だが」と言った。九人目は、頁を開く前に俺がグレンだと名乗った。
俺は全員に同じ頁を渡した。副官が戦列を離れる場面と、グレンが誓う場面。読ませて、礼を言って、帰した。
期限まで、あと五日だった。
十二人目は、日が落ちてから来た。
戸口の鈴が鳴ったとき、俺は帳場で灯りに油を足していた。顔を上げると、戸の内側に男が一人立っていた。三十には届かないくらいで、旅の埃をかぶった外套を着ている。目を引く顔ではなかった。ただ、「朗読役の件で」と言った声が、店の奥の棚まで真っすぐ届いた。大きな声ではなかったのに。
俺は写字台の前の椅子を勧めて、いつもの頁を差し出した。
男は受け取らなかった。
「読まなくていいだろ」
「読んでもらわないと、決められない」
「朗読役ならな」
男は店の中を見回した。棚、写字台、壁に掛けた筆。最後に、戸に貼った紙の裏側を見た。
「表の貼り紙、端に消した跡があった。腕っぷしは問わない、だったか。朗読に腕っぷしは要らない。要らないものを、わざわざ問わないと書いて、わざわざ消した」
「書き損じだ」
「写本屋が?」
男の目が、写字台の脇に積んだ白い紙の束に落ちた。
「英雄グレンの版元が、領主の布告の翌朝に、声と顔のいい男を探してる。剣が使えなくても構わないと書きかけて、やめた。そう書いたら、何の役か分かるからだ」
男は椅子に座った。勧めたときには座らなかったのに。
「朗読役じゃない。グレン役だろ」
俺は頁を引っ込めた。
否定するのは簡単だった。けれど、この男は否定を聞きに来たわけじゃない。値段を聞きに来たのだ。
「名前は」
「この町で名乗るなら、どれが得かな」
「本名でいい」
「本名は、あんまり得じゃない」
男は卓の上に左手を置いた。手の甲に、斜めに古い傷が走っている。
その傷に、見覚えがあった。正確には、傷のことを書いた紙に。
三年前、南の宿場の役場から写しの注文が来た。同じ文面を二十枚、辻ごとに貼る触れ書きだ。
「母上は、南の宿場町でも亡くなっていたな」
男の指が、卓の上でわずかに止まった。
「左手の甲に古傷。亡き母に誓って、効きもしない薬を売る男に注意。北の街道の分も写した。そっちでも、あんたの母上は亡くなっていた」
男は左手を卓の下へ引きかけて、やめた。そのまま卓の上に戻した。
「写本屋ってのは、写したものを全部覚えてるのか」
「全部だ」
「難儀な商売だな」
男は少し笑った。
「その触れ書きは、この町の役場にも一枚貼ってある」
「知ってる。だから、この町じゃ薬は売ってない。今日は朗読役を売りに来た」
男は、卓の端に置いてあった『鴉の口のグレン』の写しを手に取った。頁はめくらず、本を横に倒して、紙の小口を灯りにかざした。
「これ、あんたの手元に置いてる写しだな」
「それがどうした」
「真ん中あたりだけ、小口が黒い。そこばかり何度も開いた跡だ」
男は本を閉じて、卓に戻した。
「副官が出てくるのは、そのあたりだろ」
俺は何も言わなかった。
「客ってのは二種類いる。話に金を払う客と、名前に金を払う客だ。あんたは後のほうだな。後のほうは、高く払う」
「褒美の三分の一」
「半分。それと、伝記が売れるたびに一冊につき銅貨二枚」
「部数も知らないくせに」
「今朝、北へ出る隊商の荷札を見た。あんたの店の判が押してあった。三百」
荷札に判を押したのは、昨日の朝だった。
「……三分の一と、一冊につき銅貨一枚」
「決まりだ」
値段に折れたわけじゃない。
十一人のうち、俺の頁を読む前に役の正体を言い当てたのは、この男だけだった。領主様の前では、台本にない問いが必ず来る。そのとき黙らずに何か言えるのは、台本の外を読める人間だけだ。
それに、この男の触れ書きは、この町の役場に貼ってある。いつでも、誰にでも指させる。
「条件が二つある」と俺は言った。「一つ。この店の外で、自分からグレンだと名乗るな」
「グレンは生涯、自ら英雄と名乗ったことがない、か」
俺は男の顔を見た。あの一行を足した写しは、まだ三冊しか出ていない。
「来る途中、酒場の前で読み上げてるのを聞いた。あれ、前の写しにはなかったろ」
「……二つ目。五日間、ここで稽古をする。歩き方から、杯の持ち方まで」
「剣は」
「使えるのか」
「口の中でなら、いくらでも振れる」
俺は黙って、奥の部屋の鍵を卓に置いた。
「今日からお前はグレンだ。寝床は奥にある」
男は鍵を取って、外套の埃を払った。
「じゃあ、グレンとして一つ訊く。副官ってのは、誰だ」
「伝記に書いてある」
「書いてあることは知ってる。誰だ、と訊いた」
「契約に入ってない」
グレンは肩をすくめた。
「なら、そいつの名前は、俺も舞台では言わない」
*
その夜、俺は酒場へ行った。足した一行がどこまで回っているか、確かめたかった。
回っていた。
吟遊詩人が、新しい写しを借りて読んだらしい。卓のあちこちで「自ら名乗ったことがない」が冗談の種になっていた。
一昨日の大男も来ていた。壁際の卓で、一昨日より酒の進みが遅い。卓に足はかけていなかった。誰かが「グレン殿、名乗っていいのかい」とからかうたびに、杯を強く置いた。足元には、口を縛った旅袋がある。
効いている。
杯を受け取って、空いた席を探したところで、手が止まった。
カウンターの端に、グレンがいた。
稽古は明日からだ、と言ってある。店の外では名乗るな、とも言ってある。名乗ってはいなかった。ただ、そこにいた。俺に気づいて、杯を少しだけ持ち上げてみせた。
吟遊詩人が竪琴を鳴らした。誰かが副官の段を頼んだのだ。矢を受けた副官を、英雄が背負う場面。
その途中で、大男が立ち上がった。
「副官なんぞ、どうせ逃げた男だろうが」
酒場が静かになった。
「英雄の背中に負ぶさって、いい気なもんだ。逃げた奴は逃げた奴だ」
誰かが「黙れ」と言い、誰かが笑い、誰かが椅子を引いた。
俺は、杯を持ったまま立ち上がりかけていた。
先に動いたのは、グレンだった。
グレンはカウンターを離れて、大男の卓の前まで歩いた。急がなかった。大男が見下ろしたが、グレンは見上げもしないで、卓の下の旅袋を顎で指した。
「明日の朝、城へ発つんだろ。袋の紐の結び目から、この伝記の写しがはみ出してる。道中で覚えるつもりか」
大男の顔が赤くなった。周りの何人かが袋をのぞき込んだ。
「だったら今のうちに覚えておけ。あんたの話の中の副官は、逃げた男だ。伝記の中の副官は、逃げてない。領主様が読んだのは、どっちだと思う」
笑いが起きた。最初は一人、それから酒場じゅうに。
大男は何か言い返そうとして、言葉が出ないまま、旅袋をつかんで出ていった。
グレンは吟遊詩人のところへ行って、竪琴の横に銅貨を一枚置いた。
「その段は、今夜はもういい。歌うなら、素面の客の前で歌ってやってくれ」
それから、少し声を落とした。落としたのに、酒場の隅まで聞こえた。
「あの人は、酒の肴にされるような死に方はしてない」
グレンは誰の顔も見ないで、戸を開けて出ていった。
しばらく誰も喋らなかった。
「……あの人、って言ったぞ」
「知ってる人みたいな言い方だったな」
「名乗らなかったよな、今の」
「おい、まさか」
俺は杯を置いて、外へ出た。
*
グレンは酒場の角を曲がったところで、壁に背中をつけて待っていた。
俺はグレンの外套の襟をつかんだ。
「名乗るなと言った」
「名乗ってない」
「同じことだ」
「違う。名乗ったら、あの大男と同じになる。名乗らなかったから、あいつらが勝手に決めた。あんたが書いた一行のおかげだ」
「稽古は五日あるはずだった」
「あの大男は明日の朝、城へ発つ。五日も待ってたら、領主の前に先に立つのはあいつだった。今夜潰すしかなかった」
旅袋のことは、俺も見ていた。何が入っているかまでは見ていなかった。
俺は襟をつかんだまま言った。
「……副官を使ったな」
「名前は言ってない」
「あの人、と言った」
「あれが一番効いた。あんたの客は泣いてたぞ」
俺は襟から手を離した。
一昨日の夜、知らない男の口に兄貴を預けるつもりはない、と思った。今夜、兄貴を口にしたのは、俺が雇った男だった。
「二度とやるな」
「効かなくなったら、やめる」
グレンは外套の襟を直して、店のほうへ歩き出した。
*
翌朝、店の戸を叩いたのは、三日前と同じ役人だった。
「町の酒場に、グレン殿らしき方が現れたと聞いた」
役人は店の中を見回した。奥の部屋の戸は閉まっていた。
「領主様は、明後日お会いになる。騎士を召し抱える際の慣いに従い、お手並みも拝見したいとのことだ」
役人が帰ったあと、奥の戸が開いて、グレンが顔を出した。寝癖のついた頭で、あくびをしている。
「お手並みって、何だ」
「剣だ」
グレンは少し考えて、天井を見た。
「……口の中でなら、いくらでも振れるんだがな」
俺は帳場の暦に、二日後の印をつけた。五日あったはずの稽古は、二日になった。
剣を握ったこともない英雄が、二日後に騎士の前に立つ。
(第2話 了)




