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英雄を作る ~兄の汚名のために書いた嘘の英雄伝、領主に本人を連れてこいと言われたので詐欺師を雇いました~  作者: 久賀ラトル


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第1話 英雄グレンは、この世にいない

「副官オルドに!」


酒場の真ん中で誰かが杯を上げると、そこらじゅうの杯がそれに続いた。麦酒がこぼれて、床板が鳴った。竪琴を膝に置いた吟遊詩人が、満足そうに頭を下げた。


今夜の演目は『鴉の口のグレン』第一巻の山場だ。英雄グレンが、矢を受けた副官を背負って敵陣を抜ける。この半年、町の酒場でこれがかからない夜はない。


「で、グレンが言うんだよ。お前の汚名は、いつか必ず俺が晴らす、ってな」


隣の卓の男が、頼まれてもいないのに台詞をなぞった。すっかり覚えているらしい。向かいの男が鼻をすすった。


「その副官ってのは、この町の出なんだろ?」


「らしいな。ほら、写本屋の」


何人かがこっちを見た。俺は麦酒の泡が消えていくのを眺めていた。


一年前、この中の何人かは、うちの店の窓に石を投げた。逃亡兵の家だから、という理由で。


その同じ連中が、いま兄貴の名前で乾杯している。


伝記によれば、英雄グレンは鴉の口の戦いで三百の兵を率い、二千の敵を退けた。副官オルドはその右腕だった。グレンの密命で戦列を離れ、それを逃亡と取られて処刑された。グレンはいつか必ず、副官の汚名を晴らすと誓っている。


いい話だと思う。書いた本人が言うのもなんだが。


鴉の口の戦いなんてものは、この国のどこでも起きていない。英雄グレンなんて男は、この世のどこにもいない。


俺が書いた。


本当なのは、副官の名前だけだ。


   *


一年前の春。兄貴が処刑されて、四か月が経っていた。


その日、帳場に返品の写本が三冊積まれた。


「中身に文句があるわけじゃないんだ」


仕立て屋の親父は、俺の目を見ないで言った。「ただ、うちのが嫌がってね。逃亡兵の家で写した本を、子どもに読ませたくないって」


「代金はお返しします」


「いや、そういうことじゃ……」


「お返しします」


銅貨を数えて渡すと、親父は少しほっとした顔で出ていった。戸口の鈴が鳴って、店が静かになった。


兄貴が逃げたと、布告に書いてあったわけじゃない。戦の最中に持ち場を離れた、と書いてあった。それを町の連中は、逃げた、と読んだ。兄貴は逃げるような男じゃない。でもそれを知っているのは俺だけで、俺の言うことを聞く人間はいなかった。再審の嘆願書は、役所の窓口で突き返された。記録は封じられています、と若い書記は言った。封じられた記録を読みたがる人間なんて、この町には俺しかいない。


その午後、俺は注文の戦記を写していた。南の伯爵家が出した『白河の戦い』だ。


去年、同じ戦の別の本を写したことがある。あっちでは伯爵の兵は八百だった。こっちでは三千いる。川の名前も違う。どっちが本当なのか、気にする客はいない。広場の吟遊詩人が歌うのは、いつも三千のほうだ。


筆を置いた。


三千のほうを書いた誰かは、たぶん八百の戦場にいなかった。いなかった誰かの書いたものを、国じゅうが本当のこととして歌っている。役所の記録を読みに行く人間は、一人もいない。


だったら、と思った。


兄貴の名前も、歌ってもらえばいい。


書くのにひと月かかった。英雄の名前はグレンにした。どこにでもいそうで、どこにもいない名前だ。戦の段取りは、これまでに写した何百冊の戦記から少しずつ借りた。どこにも書かれていない戦を、どこかで読んだような手触りで組み立てるのは、思ったより難しくなかった。


副官の欄には、兄貴の名前を書いた。


難しかったのは、どこで売るかだった。


この町で売れば、三日で誰が書いたかばれる。逃亡兵の弟が、兄貴を英雄の副官に仕立てた本。笑い話にしかならない。


だから、この町では一冊も売らなかった。


写した三十部を、北へ向かう隊商に原価で預けた。宿場ごとの吟遊詩人に一部ずつ渡してくれと頼んで、礼金は前払いにした。最後の頁には「第一巻 了」とだけ書いた。続きがあるかどうかは書かなかった。


半年後、伝記は国をひと回りして、南から帰ってきた。よその町で評判の話として。誰が書いたのかは誰も知らない、ただ副官はどうやらこの町の出らしい、という噂をくっつけて。


その頃には、店の窓に石は飛んでこなくなっていた。


   *


酒場を出たのは夜半だった。


翌朝、店の前に客が三人並んでいた。三人とも『鴉の口のグレン』が欲しいと言った。


「副官の家で写したやつがいいんだ」と一人が言った。「縁起がいいだろ」


一年前に縁起が悪いと言われた手で、俺は同じ本を三冊包んだ。


昼前、広場に人だかりができていた。役人が台に上がって、布告を読み上げていた。


「――領主様は、伝記に名高き英雄グレン殿を、当家の騎士として召し抱えたいと望んでおられる。グレン殿の居所を知らせた者、またはグレン殿をお連れした者には、金貨二十枚を下賜する」


広場がどよめいた。金貨二十枚あれば、この町の大工は五年遊んで暮らせる。


俺は人の輪の外でそれを聞いて、店に戻った。


帳場の前に、さっきの役人とは別の役人が一人立っていた。


「この店が、例の伝記の版元だと聞いた」


「写しを売っているだけです」


「最初の写しがこの町から出たことは、調べがついている」


役人は退屈そうに言った。「領主様からの言伝だ。グレン殿をご存じなら、七日以内にお連れするように。続きの巻も、楽しみにしておられる」


役人が出ていったあと、俺はしばらく帳場に座っていた。


答えは用意してあった。いつかこういう日が来たら、英雄グレンは戦のあと異国へ渡り、そこで死んだことにする。墓の場所は誰も知らない。それで終わりのはずだった。


   *


その夜、酒場に「グレン」が現れた。


大柄な男で、腰に古い剣を下げていた。入ってくるなり卓に片足をかけて、俺がグレンだ、と言った。


客は笑った。半分は。残りの半分は、笑いながら男の顔を見ていた。金貨二十枚の布告が出た日の夜だった。


「鴉の口じゃ、敵の大将の首をこの手で落とした」


伝記にそんな場面はない。だが男がそう言うと、何人かがうなずいた。


「じゃあ、副官のオルドはどんな奴だった?」


誰かが訊いた。酒場が少し静かになった。


男は杯をあおって、手の甲で口を拭った。


「あいつのことは、領主様の前で話す」


「なんでだよ、ここで聞かせろよ」


「あいつが本当は何をしたのか、知ってるのは俺だけだからな」


歓声が上がった。男は満足そうに笑った。


俺は、自分の手が杯を握ったまま動かなくなっているのに気づいた。


あの男は、兄貴の顔を知らない。笑うと目尻にだけ皺が寄ることも、俺の字を下手だと言いながら一度も直さなかったことも知らない。


英雄グレンは異国で死んだらしい、と答えれば、俺は安全だ。版元が噂を伝えるだけのことで、罪にはならない。


ただ、それで名乗り出る男が減るわけじゃない。今夜はあの男で、明日は別の男だ。そのうちの一人を領主様が気に入れば、そいつが英雄グレンになる。英雄になった男が兄貴について何を言おうと、もう俺には直せない。


伝記の最後で、グレンは副官の汚名をいつか必ず晴らすと誓っている。


誓わせたのは、俺だ。


あの誓いを、知らない男の口に預けるつもりはない。


俺は勘定を卓に置いて、酒場を出た。


店に戻ると、明日渡す約束の写本が三冊、写字台に積んであった。


最後の頁を開いた。「第一巻 了」の手前に、二行分の余白がある。少し考えて、そこに一行書き足した。


『グレンは生涯、自ら英雄と名乗ったことがない』


三冊とも同じ一行を足した。写しごとに中身が少しずつ違うのは、珍しいことじゃない。明日にはこの三冊が三軒の家で読まれ、何日かすれば酒場で読み上げられる。卓に足をかけて俺がグレンだと叫ぶ男は、この町ではもう英雄に見えなくなる。


この町では、だ。町の外の男たちまでは止められない。


英雄グレンは、この世にいない。いないものは、作ればいい。一年前にもそうした。


紙をもう一枚広げて、筆を取って、書いた。


『伝記朗読役、求む。声と顔のよい者。腕っぷしは問わない』


少し考えて、「腕っぷしは問わない」を消した。問わないと書けば、なぜ問わないのかと考える奴が来る。


貼り紙を、店の戸に一枚貼った。


期限は七日。


七日のうちに、この世にいない男を一人、用意しなければならない。


(第1話 了)

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